第117話:全面的な信頼
寺田屋での騒動から、五日が過ぎた。
京の町は、表向きには何事もなかったかのような日常を取り戻している。だが、水面下では激しい情報の探り合いが続いているはずだ。伏見奉行所は面子を潰され、薩摩藩は計画を邪魔され、そして俺たち新選組は、幹部の一人が独断で「お尋ね者」を逃したという、内部に爆弾を抱え込んだ形になった。
もっとも、土方さんには事の次第を正直に打ち明けてある。
「……馬鹿野郎。面白いことしやがる」
鬼の副長は、こめかみを揉みながらそう呟いただけだった。お咎めはなし。それどころか、俺の行動の意図を正確に理解し、伏見奉行所や会津藩上層部からの問い合わせには「永倉は当日の夜、屯所で俺と会っていた。伏見奉行所の見間違いだろう」の一点張りで通し、すべての圧力を一人で受け止めてくれていた。この男の度量と信頼には、何度救われたか分からない。
藤堂と斎藤が確保してくれた隠れ家へ、俺は夜陰に紛れて足を運んでいた。昼間は人の往来があるため、あえて避けた。人目を忍ぶには、闇が一番の味方だ。
そこは、鴨川から少し入った場所にある、ごく普通の町家だった。表札もかかっておらず、住人の気配も感じられない。だが、俺が決められた手順で戸を叩くと、内側からかすかな物音がして、すぐに閂が外される音が響いた。
「……永倉さん」
戸を開けたのは、坂本龍馬だった。数日見ないうちに、少し痩せたように見える。だが、その目に宿る光は、以前よりもずっと強く、鋭くなっていた。彼の背後から、お龍さんが心配そうな顔でこちらを覗いている。
「よお。息災だったか」
俺がいつも通りの調子で声をかけると、龍馬は何も言わず、ただ黙って俺を中に招き入れた。部屋は質素な六畳一間で、最低限の生活道具が置かれているだけだ。中央に置かれた小さな文机の上には、何枚もの紙が広げられ、墨の匂いがかすかに漂っている。逃亡生活の最中でも、彼は思考を止めていないらしい。
俺が部屋に足を踏み入れ、戸が閉められた、その瞬間だった。
「永倉さん」
改めて俺の名を呼んだ龍馬は、次の瞬間、俺の目の前で深々と、それこそ額が畳に擦れるのではないかというほどに、頭を下げていた。
「……っ! 龍馬さん!?」
隣にいたお龍さんが、驚きの声を上げる。俺もまた、彼の予期せぬ行動に言葉を失った。あの坂本龍馬が、誰に対しても飄々とした態度を崩さないこの男が、今、俺に対して土下座に近い姿勢でいる。
「あんたは、わしの命の恩人じゃ。この坂本龍馬、生涯このご恩は忘れん」
絞り出すような、だが腹の底から響いてくる声だった。その声には、感謝、安堵、そしてこれまでの彼の矜持をすべて捨て去るほどの、絶対的な信頼が込められていた。先日の寺田屋での別れ際に聞いた「恩は忘れんぜよ」という言葉とは、明らかに重みが違う。あれが激情の発露だとすれば、これは、冷静になった頭で熟考を重ねた末の、偽らざる本心なのだろう。
「……頭を上げろよ。柄じゃねえだろ、あんたにそんな真似は」
俺がそう言うと、龍馬はゆっくりと顔を上げた。その目は、わずかに潤んでいるように見えた。
「柄じゃなかろうが、こればっかりは、こうせずにおれんかった。あんたが、あの場で一人残ってくれんかったら……わしとお龍は、今頃、六条河原で晒し首になっちょったかもしれん」
「……」
「わしは、あんたに二度も命を救われた。一度目は慎太(中岡慎太郎)を狙う長州の連中から守ってくれた時。そして、今度こそは、まことの死線を、あんたのおかげで潜り抜けることができた。……礼を言う。本当に、ありがとう」
龍馬はもう一度、軽く頭を下げた。その横で、お龍さんも涙ぐみながら、深々と一礼する。
「永倉様。龍馬さんが、本当に、お世話になりました……」
俺は、二人の真摯な姿に、少しばかり居心地の悪さを感じていた。官僚だった頃の俺ならば、この状況を「貸しを作った」と計算高く捉えただろう。だが、今は違う。目の前にいるのは、俺がこの時代で、その未来を何よりも強く望んだ男だ。彼を生かすことは、俺にとっての最優先事項の一つだった。
「言ったはずだ。あんたに死なれては困る、と。俺は俺の目的のために、合理的な判断をしただけだ。あんたが感傷的になる必要はない」
俺はわざと突き放すように言った。だが、龍馬は静かに首を振る。
「合理的な判断、か。そうかもしれん。じゃが、その判断をするために、あんたは自分の命を危険に晒した。新選組という立場も、何もかもを捨てて、わしを逃がした。それを、ただの『合理』で片付けられたら、わしの気が収まらんぜよ」
龍馬は立ち上がり、俺の肩を掴んだ。その手には、力がこもっている。
「正直に言う。わしは、最初、あんたのことを信用しちゃおらんかった」
その言葉に、俺は少し驚いた。いや、当然のことではある。新選組と脱藩浪士。立場が違いすぎる。
「おまんの言うことは面白い。途方もない。じゃが、どこかで『幕府の犬』じゃと、見下しちょった部分があった。おまんの知識を利用して、わしらの役に立ててやろうと、そう考えちょった」
彼の目は、自らを断罪するように、まっすぐに俺を射抜いていた。
「亀山社中の件でも、慎太への武器の件でも、あんたはわしらの想像をはるかに超えることをしてくれた。それでも、心のどこかで疑いが晴れんかった。じゃが、もう終わりじゃ。寺田屋の一件で、わしは己の不明を恥じた」
龍馬は一度言葉を切り、そして、まるで誓いを立てるかのように言った。
「永倉さん、あんたは、わしにとってただの恩人じゃない。身分も、立場も、何もかもが違う。じゃが、あんたは……わしがこの日の本で初めて出会った、真の『同志』じゃ」
同志。
その言葉が、ずしりと重く俺の心に響いた。
近藤さんや土方さん、沖田たち新選組の仲間は、俺にとってかけがえのない「仲間」だ。だが、彼らと俺とでは、見ている未来が少し違う。彼らはあくまで武士として、徳川の世を守るために戦っている。
だが、龍馬は違う。
彼もまた、俺と同じように、この国の形そのものを変えようとしている。既存の枠組みを壊し、新しい日本を創る。その一点において、俺たちは同じ場所を目指している。
「……買い被りすぎだ」
俺は照れ隠しにそう呟いたが、龍馬はにやりと笑って俺の肩を叩いた。
「買い被ってなどおらん。わしは人を見る目には自信があるき。……永倉さん、いや、新八。わしは決めたぜよ。これからは、あんたを信じる。あんたの描く日本の未来に、この坂本龍馬のすべてを賭ける」
もはや、彼の言葉に一片の嘘も、計算も感じられなかった。あるのは、同じ志を持つ者への、燃えるような熱い信頼だけだった。
「幕府の犬」という蔑称は、もう彼の心の中には存在しない。俺たちは、ようやく本当の意味で、同じ地平に立ったのだ。
「……いいだろう。そこまで言うなら、あんたの力を存分に借りさせてもらう。俺一人では、やれることにも限りがあるからな」
俺がそう答えると、龍馬は「おう!」と快活に笑った。部屋の空気が、一気に熱を帯びる。
「それでこそじゃ! これでようやく、話が先に進む。新八、わしはあれからずっと考えちょった。あんたが言う『武力によらない、新しい日本の創設』を、どうやって実現するかをな」
彼は文机の前に座り、俺を手招きする。そこには、殴り書きのような文字で、いくつかの案が記されていた。
「薩長は、もう武力倒幕しか考えちょらん。あれでは、この国に大きな戦が起きて、多くの血が流れるだけじゃ。そうじゃのうて……幕府が、自ら政権を朝廷に返す、というのはどうじゃろうか」
「……大政奉還、か」
俺の口から出た言葉に、龍馬は目を丸くした。
「ほう、あんたも同じことを考えちょったか。そうじゃ、大政奉還じゃ。将軍家が政権を帝にお返しし、日本中の藩が一つになって、新しい政府を作る。その政府を、帝の下で、身分に関係なく優秀な者たちが議会で動かしていく……。あんたが前に言うちょった『議会制度』じゃ」
彼の構想は、俺が知る史実そのものだった。だが、史実と違うのは、その先に彼が見ている光景だ。史実の彼は、大政奉還の後に暗殺される。だが、この世界の彼は、その先を、俺と共に創ろうとしている。
「面白い。だが、幕府がそう簡単に首を縦に振るか? 徳川三百万石のプライドが許さないだろう」
「そこを説き伏せるのが、わしらの役目じゃろう。あんたは内から、わしは外から、幕府の重臣たちを動かす。そして何より、将軍様ご自身に、それが日本のためになるのだと理解していただく必要がある」
彼の言葉には、確信があった。そして、その視線は俺に問いかけていた。お前ならできるだろう、と。
家茂公。彼ならば、あるいは。あの聡明な将軍ならば、日本の未来のために、その決断を下せるかもしれない。
「……ああ、やってみる価値はある。いや、やるんだ。この国から、もう無益な血を流させないために」
俺が力強く頷くと、龍馬は満足そうに笑った。
「決まりじゃな。ああ、気分がえい! まるで、目の前の霧が晴れたようじゃ!」
龍馬は立ち上がると、部屋の隅に置いてあった酒樽から、豪快に徳利へ酒を注いだ。
「さあ、飲もう! これは、わしとおまん……いや、わしと新八が、真の同志になったことを祝う杯じゃ!」
差し出された杯を、俺は黙って受け取った。
注がれた酒を、一気に呷る。伏見の酒が、熱くなった喉を心地よく潤していった。
立場も身分も超えて、ただ一つの志で結ばれた男たちの、静かだが、しかし歴史を確かに動かすことになるであろう密約が、京の片隅にある小さな隠れ家で、今まさに交わされたのだった。




