第115話:脱出
「……分かった。永倉さん。この借りは、必ず返す。……死ぬなよ」
「ああ。あんたこそ、必ず生き延びろ」
短い、だが鋼のように固い約束を交わし、龍馬は踵を返した。俺は彼の背中を、そしてその手に引かれるお龍さんの姿を、ただ黙って見送る。二人が裏口へと続く暗い廊下の闇に吸い込まれていくのを、俺は自分の背後で感じていた。
去り際、闇に溶ける直前に、龍馬の絞り出すような声が俺の耳に届いた。
「永倉さん、この恩は忘れんぜよ!」
それは大声での叫びではなかった。だが、魂の底からほとばしるような、熱い感情の塊だった。俺は振り返らず、ただ口の端を少しだけ持ち上げる。その言葉だけで十分だった。あんたが生き延びて、この国を変えてくれるなら、俺の危険なんて安いもんだ。
二人の気配が完全に消えたことを確認し、俺はゆっくりと部屋の中央に戻った。階下の喧騒は、もはや隠そうともしない怒号と、複数の人間が好き勝手に動き回る乱雑な足音に変わっていた。寺田屋の女将であるお登勢さんの悲鳴にも似た制止の声が聞こえる。どうやら、踏み込んでくるのは時間の問題らしい。
俺は、先ほどまで龍馬が座っていた膳の前にどっかりと胡坐をかいた。残っていた徳利を手に取り、手酌で杯を満たす。伏見の酒だろうか、芳醇な香りがふわりと鼻腔をくすぐった。これから始まるであろう修羅場を前にしては、あまりに不似合いな、穏やかな香りだった。
(さて、と。役者は揃った。あとは俺が、どれだけ見事な舞台を演じきれるか、だ)
俺の役目は時間稼ぎ。そして、この場を「新選組と伏見奉行所の睨み合い」という、奴らにとって最も面倒な状況に持ち込むことだ。薩摩の連中が裏で糸を引いているにせよ、表立って動いているのはあくまで伏見奉行所の役人たち。彼らにとって、会津藩お預かりである新選組の、それも局長格である俺に手を出すのは、薩摩藩に尻を叩かれたからといって簡単にできることじゃない。藩同士の外交問題に発展しかねないからだ。
俺がここにいる。その事実だけで、奴らの動きを縛る楔になる。俺は、その楔の効果が最大になるまで、この場で悠然と構えていればいい。龍馬たちが、この伏見から完全に脱出するまでの時間を稼ぐために。
とくとくとくと、杯に酒が満ちていく。
俺は、これから始まるであろう静かな戦いに向けて、意識を研ぎ澄ませていった。
◇
坂本龍馬は、お龍の手を固く握り、寺田屋の裏口から漆黒の闇へと飛び出した。ひやりとした夜気が、火照った頬を撫でる。階下から聞こえてくる怒号が、自分たちに向けられたものであることは明らかだった。一刻の猶予もない。
「龍馬さん、あちらに!」
お龍が、店の裏手にある小さな木戸を指さす。昼間のうちに、万が一の際の逃げ道として確認していたのだろう。さすがは、修羅場を心得ている女だ。龍馬は頷き、二人で身をかがめながら木戸を抜ける。そこは、伏見の町を縫うように流れる濠川へと続く、狭い路地だった。
川面を渡る夜風が、淀んだ空気をわずかに揺らす。息を殺して数歩進んだ、その時だった。闇の中から、すっと一つの人影が姿を現した。龍馬は咄嗟にお龍を背後にかばい、腰の陸奥守吉行に手をかける。
「坂本さんですね」
だが、その人影から発せられたのは、若く、落ち着いた声だった。月明かりに照らされたその顔を見て、龍馬は息を呑んだ。見覚えがあった。京の町で、永倉と共に行動しているのを何度か見かけたことのある、涼やかな顔立ちの青年だ。
「あんたは……新選組の、藤堂平助……!」
「声が大きいですよ」
藤堂と名乗った青年は、人差し指を口元に当て、静かに言った。その声音に敵意はなく、むしろ味方であることを示唆していた。
「永倉隊長から、お二人を安全な場所までお連れするよう言付かっています。こちらへ」
藤堂は有無を言わさぬ口調でそう告げると、すぐに踵を返して闇の中を先導し始めた。龍馬は一瞬躊躇したが、永倉が「仲間が三人、外にいる」と言っていたのを思い出す。この男が、その一人なのだろう。今は、永倉の言葉と、彼が寄越したこの男を信じるしかない。
「お龍、行くぜよ!」
「はい!」
龍馬は頷き、藤堂の後に続いた。藤堂の足取りは、まるで猫のように静かで、淀みがない。伏見の地理を完全に把握しているかのように、彼は入り組んだ路地を迷いなく進んでいく。時折、道の角でぴたりと足を止め、闇の向こうに鋭い視線を送る。その横顔は、普段の新選組隊士として見せる朗らかなものとはまるで違う、隠密としての冷徹さを湛えていた。
何度か、遠くで提灯の灯りが揺れ、伏見奉行所の役人と思われる一団が通り過ぎるのが見えた。そのたびに、藤堂は二人を物陰に巧みに誘導し、息を殺してやり過ごす。心臓が早鐘のように鳴り響く。捕まれば終わりだ。永倉が稼いでくれている時間が、無駄になる。
「……永倉さんは、大丈夫なのでしょうか」
息を潜める暗がりの中、お龍が不安げに呟いた。龍馬も同じ気持ちだった。あの男は、たった一人で、これから踏み込んでくるであろう数十人の敵を相手にするつもりなのだ。
「大丈夫だ」
藤堂が、振り返らずに低い声で答えた。
「永倉隊長は、ああ見えて滅多なことでは死なない。それに、あの人はただの剣客じゃない。あの人が最も得意とするのは、力と力ではなく、知恵と知恵がぶつかり合う、こういう戦場だ。俺たちの役目は、隊長の作ってくれたこの機会を絶対に無駄にしないこと。……さあ、行きますよ」
藤堂の言葉には、永倉への絶対的な信頼が滲んでいた。龍馬は、その信頼の深さに舌を巻いた。新選組といえば、鉄の規律で縛られた非情な集団という印象が強い。だが、少なくとも永倉の周りには、彼を心から信じ、命を預ける仲間がいる。それは、龍馬が亀山社中で築こうとしている関係性と、どこか似ている気がした。
やがて、藤堂は濠川の船着き場へと二人を導いた。そこには、夜の闇に溶け込むように、一艘の小さな川舟が繋がれている。船の上には、編み笠を目深に被った船頭が一人、身じろぎもせずに座っていた。
「この船で、京へ向かってください。三十石船が行き交う川筋まで出れば、もう追手はかかりますまい」
「……何から何まで、かたじけない」
龍馬は、藤堂に向かって深く頭を下げた。この若き新選組幹部の冷静な手引きがなければ、今頃どうなっていたか分からない。
「礼なら、永倉隊長に言ってください。俺たちは、隊長の命令に従ったまでです」
藤堂はあくまで淡々としていた。だが、その別れ際の目に、わずかな安堵の色が浮かんだのを龍馬は見逃さなかった。
「お龍、先に乗りや」
龍馬に促され、お龍はこくりと頷いて小舟に乗り込んだ。龍馬もそれに続こうとした、その時。
「――待て! 曲者だ!」
背後の路地から、鋭い声が響いた。しまった、見つかったか! 龍馬の背筋に冷たいものが走る。提灯の灯りが二つ、三つとこちらに駆け寄ってくるのが見えた。伏見奉行所の役人たちだ。その中には、薩摩訛りの男たちの気配も混じっている。
「藤堂さん! あんたは……!」
龍馬が叫ぶより早く、藤堂は鞘から刀を抜き放っていた。だが、彼は駆け寄ってくる役人たちに斬りかかるのではない。
「島田さん! 原田さん! お願いします!」
藤堂が闇に向かって叫ぶと、それに応えるかのように、左右の建物の陰から二つの巨影が躍り出た。
一人は、その岩のような巨躯からは想像もつかない俊敏さで役人たちの側面に回り込むと、持っていた樫の棒で提灯を次々と叩き割り、辺りを闇に陥れる。新選組の監察方、島田魁だ。
もう一人は、言わずと知れた槍の使い手、原田左之助。彼は役人たちの前に仁王立ちになると、その手に握った愛用の槍を横薙ぎに振るった。
「うわっ!」「何だ、こいつら!」
悲鳴と怒号が上がるが、暗闇と、二人の巨漢がもたらす圧倒的な圧力の前に、追手は完全に混乱に陥っていた。
「坂本さん、今です! 行け!」
藤堂の叫びが響く。これが、永倉の言っていた「三人の仲間」。藤堂平助、島田魁、そして原田左之助。新選組の中でも屈指の実力者たちが、この脱出劇のために動員されていたのだ。
「……すまん!」
龍馬は一瞬だけ、共に戦おうとする衝動に駆られた。だが、すぐに首を振る。彼らの、そして永倉の覚悟を無駄にしてはならない。今は、生き延びることが自分の使命だ。
龍馬は小舟に飛び乗ると、船頭に叫んだ。
「出してくれ! 頼む!」
船頭は黙って頷くと、長い竿を巧みに操り、舟を岸から離した。舟はすべるように水面を進み、あっという間に岸辺の喧騒から遠ざかっていく。背後では、まだ鈍い打撃音と怒声が聞こえていたが、それも次第に小さくなっていく。
「龍馬さん……」
隣で、お龍が龍馬の腕にぎゅっとしがみついていた。彼女の体は小さく震えている。龍馬は、その肩を力強く抱き寄せた。
「大丈夫じゃ。もう大丈夫じゃき」
舟は、伏見の町並みを背に、淀川の広い川面へと滑り出していく。振り返ると、寺田屋の灯りが、まるで嵐の中の灯台のように小さく見えた。あの二階の一室で、永倉新八は今、たった一人で追手と対峙している。
(永倉さん……いや、新八)
龍馬は心の中で、初めてその男の名を呼んだ。
(あんたは、わしの命の恩人じゃ。いや、それだけじゃない。あんたは、わしが諦めかけちょった、この国の未来への希望じゃ。この恩、この借り、わしは絶対に忘れん。あんたが信じてくれた新しい日本を、この坂本龍馬が、必ず作ってみせるき。じゃから……)
龍馬は、夜の川面に映る自分の顔を見つめながら、固く誓った。
(じゃから、あんたも絶対に死ぬなよ)
遠ざかる伏見の夜景に向かって、龍馬はもう一度、心の中で強く、強く叫んだ。
◇
寺田屋の二階。俺は、静かに杯を傾けていた。
階下の喧騒が、一段と大きくなる。どうやら、女将さんたちの制止も限界らしい。
ドタドタドタッ!
荒々しい足音が、躊躇なく階段を駆け上がってくる。一人や二人ではない。十人、いや、それ以上か。奴らの殺気立った気配が、板張りの床を通してびりびりと伝わってきた。
(……龍馬たちは、もう川舟に乗った頃か)
藤堂たちの腕は信じている。島田さんの堅実な腕と観察眼、原田の突破力、そして藤堂の冷静な指揮。あの三人が揃えば、伏見奉行所と薩摩の雑兵ごときに後れを取ることはない。龍馬の脱出は、ほぼ成功したと見ていいだろう。
俺の役目は、仕上げだ。
俺は最後の一滴まで酒を飲み干すと、杯を膳の上に置いた。カタン、と乾いた音が部屋に響く。
それと、ほぼ同時だった。
バンッ!!
部屋の障子が、蹴破るような勢いで乱暴に開け放たれた。息を切らした伏見奉行所の役人たちが、血走った目で部屋の中へなだれ込んでくる。その誰もが刀の柄に手をかけ、殺気立っていた。
だが、彼らの目に飛び込んできた光景は、予想とは全く違うものだっただろう。
血相を変えて逃げ惑う勤王の志士でもなければ、武器を構えて待ち受ける刺客でもない。
そこにいたのは、たった一人。
酒の膳を前に、まるで今しがたまで月見酒でも楽しんでいたかのように、悠然と胡坐をかいている男の姿。
なだれ込んできた役人たちの先頭にいた、同心頭らしき男が、俺の顔を見て驚愕に目を見開いた。
俺は、その男の顔をゆっくりと見上げ、口の端に笑みを浮かべた。
さあ、始めようか。一滴の血も流さない、静かなる戦いを。。




