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第114話:信じるか、信じないか

 しんと静まり返った寺田屋の一室。俺の放った言葉の衝撃が、部屋の空気を凍てつかせていた。目の前の男、坂本龍馬は、先ほどまでの陽気な笑顔を完全に消し去り、底知れないほど鋭い目で俺を射抜いていた。


「……じゃが、一つだけ分からんことがある。なぜ、新選組のおんしが、わしを助ける?」


 その問いは、純粋な敵意や猜疑心から発せられたものではなかった。京の隠れ家で共に日本の未来を語り、俺が彼の夢に「投資」までした、その俺が、なぜ今ここにいるのか。その事実に対する驚愕と、状況が飲み込めないことへの純粋な疑問。そして、俺の背後にあるものを探ろうとする、探求者の目だった。


 俺は一度、ゆっくりと息を吐き、彼の視線を真っ向から受け止めた。傍らで息を詰めるお龍さんの不安げな視線を感じながら、あえて少し口の端を上げてみせた。


「決まっているだろう、坂本さん。あんたにこんな所で死なれたら、俺が投資した五千両がパーになる」


 冗談めかした俺の言葉に、龍馬の眉がピクリと動いた。だが、彼の表情は崩れない。俺がそんな勘定だけで動く男でないことは、彼自身が一番よく分かっているはずだ。


「……冗談はさておき、だ」俺は真顔に戻り、声を潜めた。「京で話したはずだ。あんたには、この国を変えるためにやってもらわねばならんことがある、と。俺は、あんたという男に、そしてあんたが描く未来に賭けたんだ。その夢の途中で、薩摩の連中のくだらん思惑なんぞで潰されてたまるか」


「薩摩……」龍馬は、その単語を噛みしめるように繰り返した。「やはり、薩摩が裏で糸を引いちゅうがは、まことか。にわかには信じられん。わしは、小松様や西郷様とは、何度も腹を割って話した仲じゃ。彼らがわしを……」


「あんたが誰と昵懇かなんて関係ない。事実は事実だ」俺は断言した。「伏見に潜む薩摩藩士は十五名。その筆頭は『人斬り半次郎』こと中村半次郎。奴らが伏見奉行所と手を組み、あんたの首を狙っている。これが俺の掴んだ全てだ」


 中村半次郎の名が出た時、龍馬の表情が初めて険しく歪んだ。桐野利秋の名で知られる、薩摩藩屈指の剣客。その男が動いているという事実が、俺の情報の信憑性を裏付けていた。


 龍馬は腕を組み、部屋の中を数歩、ゆっくりと歩いた。床板がきしむ音が、やけに大きく響く。彼の頭の中では、俺の言葉と、彼が信じてきた薩摩との関係性が、激しくせめぎ合っているのだろう。


 やがて、彼はぴたりと足を止め、俺に向き直った。

「永倉さん。その情報を、どこで手に入れた?」

 問いの核心が変わった。もはや俺を疑うのではなく、情報の出所と確度を測ろうとしている。


「それは言えん。俺にも、俺だけの情報源すじがある」

「……新選組としての動きか? それとも、会津か?」

「どちらでもない。これは、近藤さんにも土方さんにも内緒の、俺個人の判断だ。俺は、俺の信じるやり方で、この国を守りたい。そのためには、あんたの力が必要だと判断した。ただ、それだけだ」


 俺は、腰の脇差をポンと叩いてみせた。

「見ての通り、俺は一人で、脇差一本でここに来た。新選組としてあんたをどうこうするつもりなら、隊を率いて白昼堂々踏み込んでくる。こんな真似はしない」


 俺の言葉と、その覚悟を示す姿に、龍馬は深く息を吐いた。彼の目から、迷いの色が消えていく。京で会った時から、彼は俺の中に、単なる「幕府の犬」ではない何かを感じ取っていた。そして俺もまた、彼の中に、ただの勤王の志士ではない、時代の先を読む慧眼を見ていた。俺たちの間には、立場を超えた奇妙な信頼関係が、確かに存在していたのだ。


「……ははっ」

 不意に、龍馬が乾いた笑い声を漏らした。

「まっこと、あんたはわからん男じゃ、永倉さん。敵か味方か、さっぱりわからん。じゃが……」


 彼は俺の前にずいと歩み寄り、俺の肩を力強く掴んだ。その瞳には、覚悟を決めた男の光が宿っていた。


「あんたが命を懸けてまで伝えに来た、その事実を信じよう。京でわしに五千両をポンと出してくれた時もたまげたが、今夜はそれ以上じゃ。わしは、あんたにまた一つ、とんでもなくデカい借りができた」

「借り、か。いいだろう。その借りは、金で返すなよ」

「ああ、わかっちゅう」


 龍馬はニヤリと笑った。その笑顔は、いつもの人懐っこいものでありながら、修羅場を乗り越える決意に満ちていた。

「この借りは、あんたが夢見る『新しい日本』で返す。それで文句はなかろう?」

「上等だ。それでこそ、俺が賭けた男だ」


 俺たち二人の間に、目に見えない固い絆が結ばれた瞬間だった。立場も思想も違う。だが、この国の未来を憂い、それを己が手で切り拓こうとする魂の共鳴が、そこには確かにあった。


「さて、と」竜馬はパンと手を叩き、思考を切り替えた。「お龍! 聞こえた通りじゃ! すぐにここを出る! 支度はえいか!」

「はい! いつでも!」

 部屋の隅で固唾を飲んで俺たちのやり取りを見守っていたお龍さんが、凛とした声で応え、小さな荷物を手に立ち上がった。その顔に恐怖の色はなく、むしろ龍馬と共にこの窮地を乗り越えんとする気概に満ちている。大した女だ。


「永倉さん、して、これからどう動く?」

 龍馬が、作戦会議の口調で尋ねる。

「敵は三日後の夜を予定している。だが、何かのきっかけで計画が早まる可能性も捨てきれん。今夜のうちに、この伏見から離れるのが最善だ」

「うむ。それが賢明じゃろう」

「俺の仲間が三人、外にいる。裏口を監視させている藤堂という男の手引きで、川沿いに抜けろ。そこまで行けば、追っ手を撒けるはずだ」

 俺が簡潔に脱出計画を告げると、龍馬は力強く頷いた。


 その時だった。階下から、複数の草履が板の間を擦る音と、押し殺したような男たちの話し声が、微かに聞こえてきた。

 俺と龍馬は、同時に視線を交わす。

(……早すぎる!)

 俺の背筋を、冷たい汗が伝った。山崎君の情報では、決行は三日後のはずだ。何かが、俺たちの知らないところで動いている。


「……どうやら、お客さんのお出ましのようだ」

 龍馬が、自嘲気味に呟いた。彼の右手は、すでに部屋の隅に立てかけてあった愛刀「陸奥守吉行」の柄にかかっている。緊迫した空気の中、俺は即座に決断を下した。


「坂本さん、お龍さん。あんたたちは、計画通り裏口から行け。急げ!」

 俺は障子の方へは向かわず、二人を部屋の奥、裏口へと続く廊下へと促した。


「永倉さんはどうするがじゃ!」

 龍馬が、俺の意図を察して鋭く問う。

「俺はここに残る」

 俺はきっぱりと言い切った。

「奴らの狙いはあんただ。俺がここにいて時間を稼ぐ。新選組の俺がいれば、奴らもすぐには踏み込んでこられんはずだ。その隙に行け」


「無茶じゃ! おんし一人を置いてはいけん!」

 食い下がる龍馬の肩を、俺は強く掴んだ。

「無茶じゃない。これは俺の役目だ。あんたに賭けた俺の夢、こんな所で終わらせるわけにはいかない。それに、俺は死なんよ。近藤さんたちに拾われる前に、何度も修羅場はくぐってきた」


 俺の真剣な目に、龍馬はぐっと言葉を詰まらせた。傍らのお龍さんが、不安と決意の入り混じった顔で俺と龍馬を交互に見ている。


「……分かった」

 しばしの沈黙の後、龍馬は短く、しかし重い声で言った。

「永倉さん。この借りは、必ず返す。……死ぬなよ」

「ああ。あんたこそ、必ず生き延びろ」


 俺たちの間に、それ以上の言葉は必要なかった。龍馬は頷くと、お龍さんの手を引き、音を立てぬよう障子を開けて裏口へと続く闇の中へ姿を消した。


 一人残された部屋に、階下の喧騒がじわじわと近づいてくるのが分かる。複数の男たちが階段を駆け上がってくる、荒々しい足音。


 俺は、先ほどまで龍馬が使っていた膳を自分の前に引き寄せた。残っていた徳利を傾け、空の杯に酒を注ぐ。とくとくとくと、静かな音がやけに大きく響いた。


 いよいよ障子の向こうに、複数の人影が映る。怒号と、女中の悲鳴が混じる。

 俺は、その喧騒を遠くに聞きながら、なみなみと注がれた杯をゆっくりと口元へ運んだ。冷たい酒が、乾いた喉を潤していく。


 ――さあ、第二幕の始まりだ。


 障子に荒々しく手がかけられるその瞬間を、俺はただ静かに、悠然と待ち構えていた。


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