表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
112/139

第112話:夜の疾走

 慶応二年一月二十日、夜。

 壬生屯所の一室で、俺は壁に貼った伏見の地図を睨みつけていた。蝋燭の炎が揺らめき、俺と山崎の顔に濃い影を落とす。龍馬暗殺計画の全貌を把握してから、すでに半日が過ぎようとしていた。昼間の喧騒は嘘のように静まり返り、今はただ、俺の内に燃える焦燥感だけが、やけに生々しく脈打っている。


「人選は、終わりましたか」


 背後で控えていた山崎が、静寂を破るように問いかけた。俺は地図から目を離さずに頷く。


「ああ。原田左之助、藤堂平助、そして島田魁。この三人だ」

「……なるほど。適任でございましょう」


 山崎の短い同意に、俺は口の端を少しだけ吊り上げた。彼も、俺の意図を正確に理解している。

 原田は、十文字槍を操る宝蔵院流槍術の使い手。単純な剣の腕前だけでなく、その豪放磊落な性格は、いざという時の突破力になる。何より、俺の無茶に文句一つ言わずに乗ってくれる男だ。

 藤堂は、北辰一刀流の免許皆伝。剣の腕は確かだし、何より思考が柔軟だ。伊東甲子太郎先生の思想に傾倒しているきらいはあるが、根は仲間思いで、俺が個人的に頼むとなれば、その意を汲んでくれるはずだ。

 そして、島田君。彼は隊内でも屈指の巨漢であり、その剣は凄まじい破壊力を誇る。何より、彼は口が堅く、一度下された命令を忠実に実行する、信頼できる男だ。


 腕が立ち、信頼でき、そして口が堅い。今回の作戦に同行させるには、必須の条件だった。俺は地図から視線を外し、山崎に向き直る。


「山崎さん、君には引き続き、京での情報統制を頼む。俺たちが伏見で動いている間、屯所内の不穏な動きや、外部からの干渉がないか、常に目を光らせておいてくれ」

「御意。分析方と連携し、万全を期します。伏見の状況も、逐一ご報告できるよう、すでに伝令の者を複数、街道沿いに配置済みです」

「さすがだ。仕事が早い」


 この男の有能さには、いつも助けられる。俺たちが作り上げた新しい諜報網は、今や山崎という司令塔を得て、有機的な生命体のように機能し始めていた。


「では、俺は隊士たちに声をかけてくる。その後、土方さんに話を通す」

「……副長には、なんと?」

「『私用』だ。それ以上でも、それ以下でもない」


 俺はそう言い残し、部屋を出た。まずは島田の部屋へ向かう。巨漢の彼は、夜更けにもかかわらず、黙々と愛刀の手入れをしていた。


「島田君、今晩、少し付き合ってほしい」

「永倉先生。……承知いたしました」


 俺が事情を説明する前に、彼は手入れの手を止め、静かに頭を下げた。俺のただならぬ気配だけで、全てを察したのだろう。余計なことは一切聞かず、ただ従う。その実直さが、今は何よりも頼もしかった。


 次に原田と藤堂の部屋を訪れる。二人は酒を酌み交わしているところだった。

「お、永倉さん! いいところに来た、一杯どうですかい!」

 陽気に手招きする原田の隣で、藤堂が少しばかり訝しげな顔で俺を見ていた。


「悪いが、酒はまた今度だ。二人とも、今から俺の私用に付き合ってもらう。行き先は伏見。詳しい話は、道すがらする」

 俺がそう言うと、原田は目を輝かせた。

「伏見! いいですな! 伏見の酒は美味いと聞く! こりゃあ、ただの私用じゃなさそうだ!」

「原田さん、少し静かに。……永倉先生、何かあったのですか?」

 藤堂が、冷静に問いかける。


「ああ。大事な友人が、ちと面倒に巻き込まれそうだ。そいつを、助けに行く」

 俺は二人の目を真っ直ぐに見て、続けた。

「これは、新選組の任務じゃない。局長命令でも、副長命令でもない。俺、永倉新八個人の頼みだ。それでも、来てくれるか?」


 俺の言葉に、原田はニヤリと笑い、自分の槍を担ぎ上げた。

「永倉さんの頼みとあっちゃあ、断る理由なんざありやせん。面白そうだ、乗った!」

 藤堂も、一瞬考え込むそぶりを見せたが、やがて覚悟を決めたように頷いた。

「永倉先生の『友人』を助けるため、ですね。分かりました。この藤堂平助、お供します」


 仲間たちの快諾を得て、俺は最後の関門へと向かった。屯所の奥、鬼の副長が執務を行う部屋だ。案の定、深夜にもかかわらず、煌々と明かりが灯っている。


 障子を開けると、土方さんが書類の山を前に筆を走らせていた。俺の気配に、彼は筆を止め、顔を上げる。その鋭い眼光は、全てを見透かしているかのようだ。


「……何の用だ、新八」

「副長。今宵から一両日、私用により屯所を空けさせていただきます」

 俺は、平静を装って頭を下げた。

 土方さんの目が、スッと細められる。部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。


「私用、だと?」

「はい。少しばかり、野暮用ができましたので。行き先は、伏見です」


「伏見」という地名に、土方さんの眉がピクリと動いた。彼は俺から目を逸らし、机の上の蝋燭の炎を見つめる。長い、探るような沈黙が流れた。彼は、俺の言葉の裏にあるものを探っている。俺が何を隠し、何をしようとしているのか。


 だが、今の俺は、ただの二番組長ではない。江戸で小栗忠順という幕府最高幹部と直接のパイプを築き、独自の資金源と情報網を持つ、独立遊軍にも等しい存在だ。土方さんも、それを理解している。俺の行動を、以前のように力ずくで抑えつけることは、もはや新選組という組織にとって得策ではないと。


 やがて、土方さんは諦めたように、短く息を吐いた。

「……分かった」

 その声は、低く、静かだった。

「だが、問題だけは起こすなよ、新八。お前の行動一つが、組全体に影響を及ぼすことを忘れるな」

「承知しています。ご迷惑はおかけしません」

「せいぜい、その言葉を違えるな」


 それだけ言うと、土方さんは再び書類に視線を落とした。俺は黙って頭を下げ、部屋を後にする。障子を閉める直前、彼の「私用で死ぬなよ」という小さな呟きが、確かに俺の耳に届いた。


 屯所の裏手、馬の嘶きが闇に響く。原田、藤堂、島田の三人と合流し、それぞれが愛馬に跨る。準備は整った。あとは、この夜の闇を駆け抜けるだけだ。


「行くぞ!」


 俺の号令一下、四頭の馬が同時に駆け出した。屯所の門を抜けようとした、その時だった。

 闇の中から、すっと一つの人影が現れた。月明かりに照らされたその顔を見て、俺は思わず手綱を引いた。


「斎藤……」


 三番組長、斎藤一。彼はいつものように感情の読めない表情で、俺たちの前に立ちはだかっていた。原田たちが、緊張した面持ちで身構える。


「どちらへ」

 斎藤君は、他の誰でもなく、俺だけを見つめて問いかけた。その目は、夜の闇よりも深く、静かだった。

「伏見だ」

 俺は、短く答えた。これ以上、説明するつもりはない。もし彼が道を塞ぐなら、力づくででも通るまでだ。


 だが、斎藤は動かなかった。彼はただ、俺の目をじっと見つめた後、ふっと視線を逸らし、道を空けた。


「……夜道、お気を付けて」


 その一言だけを残し、彼は再び闇に溶けるように姿を消した。

 俺は一瞬、呆気に取られたが、すぐに彼の意図を悟った。彼は、俺の行動を止めに来たのではない。見送りに来たのだ。そして、その目は、俺のやろうとしていることの全てを理解しているように思えた。土方さんの命令で監視に来たのか、あるいは彼自身の判断か、それは分からない。だが、彼は俺を行かせた。


「……借りが、できたな」


 俺は誰に言うともなく呟き、馬の腹を蹴った。

 夜の京の街を、四つの影が疾走する。羅城門を抜け、鴨川を渡り、伏見街道をひたすら南へ。冷たい夜風が頬を打ち、高ぶる気持ちを冷静にさせていく。


(待っていろ、龍馬)


 俺は心の中で、まだ見ぬ友に語りかけた。

(史実では、お前はここで生き延びる。だが、俺が変えてしまったこの世界で、お前を狙う刃は、史実よりも遥かに鋭く、そして多い。お龍の機転や薩摩の助けなど、もはや期待できん)


 だから、俺が行く。

 お前の命を救い、そして、お前という男に、決して返せないほどの巨大な「貸し」を作るために。

 この貸しは、いずれ徳川の未来、日本の未来を左右する、最高の投資となるだろう。


 暗い街道の先に、伏見の町の灯りが見え始めてきた。川湊特有の、湿った夜気が鼻をつく。

 俺は馬の速度を緩め、後続の三人に合図を送った。


「……着いたな。ここからは、息を殺して進むぞ」


 目的地、旅籠・寺田屋は、もう目と鼻の先だ。

 歴史には記されない、新たな戦いの火蓋が、今、切られようとしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ