第111話:迫る凶刃
「三日後、二十三日の夜。土佐脱藩浪士・坂本龍馬が、長州の三吉慎蔵と共に宿泊するとの情報を、すでに確認済みです」
山崎烝の静かな声が、俺の鼓膜を叩いた。その瞬間、縁側の穏やかな陽光が急速に色を失い、世界から音が消え去ったかのような錯覚に陥る。俺の脳裏で、バラバラだった情報が一つの凶報へと姿を変え、警鐘を乱打していた。
伏見、寺田屋。
薩摩藩、人斬り半次郎。
伏見奉行所との密会。
そして、坂本龍馬の宿泊。
ピースは、全て揃ってしまった。それは、俺の知る歴史のパズルではなかった。俺という異物が紛れ込んだことで歪み、組み替えられた、新たな暗殺計画の完成図だ。
「……場所を移す。俺の部屋へ」
俺は自分でも驚くほど冷静な声でそう告げ、立ち上がった。背後で、山崎が音もなく従う気配がする。屯所の廊下を歩きながら、俺は必死に思考を巡らせていた。すれ違う隊士たちが向ける会釈に、普段通りを装って頷きを返すが、内心は荒れ狂う嵐の只中にいる。
史実の寺田屋騒動。俺の知識では、慶応二年一月二十三日の深夜、伏見奉行所の捕り方が龍馬を襲撃する。だが、龍馬は恋人であるお龍の機転によって危機を察知し、風呂場から裸のまま脱出。手に深手を負いながらも、駆けつけた薩摩藩士に救助され、薩摩藩邸に保護されるはずだった。
死なない。龍馬は、ここでは死なないはずだ。
その知識が、俺の心にわずかな安堵と、同時に強烈な疑念をもたらす。
この世界では、どうだ?
そもそも、最初の寺田屋事件(薩摩藩士同士の斬り合い)が起こった形跡すらない。俺の存在が、その事件そのものを歴史から消し去ってしまった可能性がある。だとすれば、この二度目の寺田屋騒動も、俺の知る筋書き通りに進む保証など、どこにもない。
何より、決定的に違う点が一つある。
史実で龍馬を救うはずの薩摩藩が、この世界では伏見奉行所と手を組み、明確な殺意をもって龍馬を狙っている。これはもはや「捕縛」などという生易しいものではない。示現流の使い手、中村半次郎まで投入しての、確実な「暗殺」だ。
自室に戻るなり、俺は山崎に命じた。
「伏見周辺の地図を広げてくれ。それと、分析方から上がってきた報告を、一言一句違えず全てだ」
「はっ」
山崎が手早く地図を壁に貼り、懐から取り出した報告書の束を広げる。俺はそれを睨みつけながら、部屋の中を苛立たしげに歩き回った。
「報告します。伏見に潜伏中の薩摩藩士は、中村半次郎を含め、最低でも十五名。いずれも剣術に長けた者ばかり。彼らはここ数日、寺田屋周辺の複数の商家に分宿し、町人に紛れて偵察を繰り返しています」
「武器は?」
「刀の他に、短銃を所持している者が複数いるとの情報あり。特に中村半次郎は、最新式のスミス&ウェッソンを携帯している可能性が高いと」
「厄介だな……。奉行所側は?」
「指揮官は与力の上田助之丞。彼の手勢として動員可能な捕り方は、およそ三十名。薩摩藩士と連携し、二十三日の深夜、亥の刻(午後十時)過ぎに、寺田屋を完全に包囲する計画と見て間違いありません」
十五の凶刃と、三十の捕り方。合わせて四十五。対するは、龍馬と三吉慎蔵の二人だけ。しかも、完全に油断しきっているであろう、旅籠での休息中のことだ。これでは、いかに龍馬が北辰一刀流の免許皆伝であろうと、逃げ場はない。
「これは……罠だ」
俺は呟いた。
「奉行所が表立って踏み込み、龍馬を『公務』として捕縛しようとする。だが、その実態は薩摩藩士による暗殺。万が一、龍馬が抵抗して斬り合いになれば、『公務の遂行に抵抗した故の斬殺』として処理するつもりだろう。たとえ龍馬が抵抗せず捕縛されたとしても、護送の途中で薩摩の息がかかった者に消される。どちらに転んでも、龍馬に生きる道はない」
俺の分析に、山崎は静かに頷いた。
「恐らくは。そして、土佐藩や長州藩からの抗議に対しては、幕府は『正規の捕縛活動であった』と主張し、薩摩は『関知しない』と白を切る。責任の所在を曖昧にし、一人の浪士を闇から闇へ葬り去る。見事な筋書きです」
「見事なもんか。胸糞が悪いだけだ」
俺は壁の地図を睨みつけた。寺田屋を中心に、敵の配置予測を頭の中で組み立てていく。正面の大通りは奉行所の捕り方が固めるだろう。裏手や路地には、示現流の使い手たちが潜み、逃げ道を塞ぐ。まさに、蟻一匹這い出る隙もない、完璧な包囲網。
どうする?
どうすべきだ?
思考が、二つに割れる。
一つは、現代人としての冷静な思考だ。
歴史への介入は、最小限に留めるべきだ。俺が知る通り、龍馬はこの危機を乗り越える運命にあるのかもしれない。下手に手を出せば、かえって事態を悪化させ、予期せぬ形で彼を死なせてしまうかもしれない。傍観が、最も賢明な選択ではないのか?
だが、もう一つの思考が、それを真っ向から否定する。
新選組副長、永倉新八としての思考だ。
この情報は、俺たちが血と汗で作り上げた諜報網が掴んだものだ。見過ごすなど、断じてあり得ない。それに、この世界の薩摩は本気だ。史実という「お守り」は、もはや何の役にも立たない。俺が何もしなければ、龍馬は九割九分、殺される。
龍馬が死ねば、どうなる?
俺が描く未来図が、根底から覆る。長崎で立ち上げた亀山社中は指導者を失い、霧散するだろう。俺が構想する、幕府を中心とした海運国家の夢は、その担い手を失い、画餅に帰す。薩長を出し抜き、徳川幕府を史上最強の近代国家に魔改造するという俺の野望にとって、坂本龍馬という男は、もはや替えの利かない重要な駒なのだ。
駒……か。
そうだ、彼は駒だ。だが、それでも。
あの、日本の未来を語る時の、子供のようなキラキラした目。型破りな発想。底抜けの行動力。俺は、あの男を駒として利用するつもりだが、同時に、一人の人間として、その存在を惜しいと感じている。こんな所で、薩摩の薄汚い陰謀のために死んでいい男ではない。
……いや、違うな。
感傷に浸っている場合じゃない。
これはリスクなどではない。好機だ。
俺の思考が、カチリと音を立てて切り替わった。
そうだ。これは、絶好の機会だ。
坂本龍馬が、幕府と薩摩の陰謀によって絶対絶命の窮地に陥る。そこに、俺が颯爽と現れ、彼を救い出す。新選組としてではない。新選組の永倉新八としてでもない。ただの一個人、「永倉新八」として、彼に恩を売る。
そうなれば、どうなる?
坂本龍馬という男は、義理人情に厚い。俺は、彼の命の恩人となる。彼がこれから成し遂げる全ての功績は、俺への「借り」の上に成り立つことになる。俺は、彼に対して絶対的な主導権を握ることができる。彼を、俺の計画のため、より強力に、より主体的に動かすことができるようになる。
「……決めた」
俺は顔を上げ、山崎に向き直った。俺の瞳に宿る光の変化を、彼だけは正確に読み取っただろう。
「山崎さん。我々は、この件に介入する」
「……! 御意。いかがいたしますか? 近藤局長、土方副長にご報告の上、隊を動かしますか?」
山崎の提案に、俺は首を横に振った。
「いや、それは最悪の選択だ」
「と、申しますと?」
「考えてみろ。新選組が動けば、どうなる? 伏見奉行所と、薩摩藩士と、白昼堂々斬り合うことになる。それは、幕府の組織である新選組が、薩摩藩に喧嘩を売ったのと同じ意味になる。薩摩がこれを口実に兵を挙げれば、俺たちが最も避けたい内乱の引き金になりかねん」
そうなれば、俺の計画は全てご破算だ。薩摩を出し抜くどころか、連中の思う壺にはまってしまう。
「では、どうやって……」
「俺が、個人的に動く」
俺は断言した。
「これは新選組の任務じゃない。俺個人の『私用』だ。信頼できる腕利きの隊士を数名だけ選抜し、事を公にせず、龍馬を救出する」
「……危険すぎます。敵は四十五名。こちらは、数名でございますか?」
山崎が、初めて声に懸念を滲ませた。
「だからいいんだろう?」
俺は不敵に笑って見せた。
「正面から斬り合うつもりはないさ。目的は、敵の殲滅じゃない。龍馬の救出だ。敵の包囲網が完成する前に、龍馬に危険を知らせ、寺田屋から脱出させる。そのための、電撃作戦だ」
俺は地図を指し示した。
「山崎さん。君の役目は後方支援だ。分析方を総動員して、今この瞬間も、敵の動向を監視し続けろ。俺たちが伏見にいる間、リアルタイムで情報を伝えろ。そして、俺たちが龍馬を連れて脱出するための、最も安全なルートを確保するんだ。追っ手が来れば、それを攪乱する陽動も頼む」
「……承知、いたしました。永倉さんのご命令とあらば」
山崎は、覚悟を決めた目で深く頷いた。彼がいれば、背中を預けられる。
「近藤さんや土方さんには、俺から話しておく。『少し野暮用で出てくる』とでも言えば、土方さんは何か勘付くかもしれんが、今の俺を止めはしないだろう」
俺の脳裏に、鬼の副長の顔が浮かぶ。あの男は、俺が何か大きな事を企んでいることには気づいているはずだ。だが、俺が江戸で小栗忠順という後ろ盾を得てきた今、俺の行動を無下に制止することはしないはずだ。斎藤君あたりに、こっそり後をつけさせるかもしれんがな。
「人選は俺がやる。今夜、動くぞ」
「今夜、でございますか!? 襲撃は、三日後では?」
「敵の計画通りに動いてどうする。奴らが最も油断している時に、奴らの意表を突くんだ。龍馬が寺田屋に入るのは二十三日。だが、俺たちはその前に動く。今夜、伏見に入り、潜伏する。そして、龍馬が寺田屋に着くか着かないかのうちに、事を済ませる」
凶刃が振り下ろされるのを待つ必要はない。
その刃が鞘から抜かれる前に、こちらから仕掛ける。
部屋に、張り詰めた沈黙が落ちる。窓の外では、陽が傾き始め、京の街に長い影を落としていた。それはまるで、三日後に迫った龍馬の運命を暗示しているかのようだった。
だが、俺はその影を振り払うように、腰の愛刀の柄を強く握りしめた。
待っていろ、龍馬。
お前を狙う凶刃は、俺が叩き折ってやる。
そして、その命、この永倉新八が、高く買い取らせてもらう。
夜の闇が、もうすぐそこまで迫っていた。




