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第110話:嵐の前の静けさ

江戸での激務を終え、京へ戻った新八。

沖田総司の病状も安定し、小栗忠順との連携も順調に進む中、彼は束の間の平穏を噛み締めていました。

しかし、その静寂は長くは続きません。

進化した監察方の諜報網が、伏見で蠢く不穏な動きを捉えます。

 京の壬生屯所に戻ってきてから、半月ほどの時間が過ぎた。

 俺の日常は、再び京の空気に馴染み始めていた。朝は隊士たちと共に汗を流し、日中は屯所の運営に関する書類仕事や、新たに構築した諜報網から上がってくる報告に目を通す。そして夜は、自室で一人、この国の未来図を思い描く。


 江戸で勝ち取った果実は、想像以上に大きい。小栗忠順という、幕府の中枢にいる最高の理解者であり、実行者。彼との間に結ばれた固い信頼関係は、俺が描く「徳川幕府の近代化」という壮大な計画の、最も重要な推進力となるだろう。横須賀製鉄所の建設は、その第一歩に過ぎない。


「永倉先生、松本先生からのお手紙です」


 屯所の廊下を歩いていると、俺を補佐してくれている若い隊士が、一通の書状を差し出してきた。差出人の名を見て、俺の口元が自然と緩む。


「ああ、ありがとう」


 受け取った書状を手に、俺は縁側へと向かった。宛名は俺と近藤さん、土方さんの連名になっているが、中身の大半は沖田の病状に関するものだろう。差出人である松本良順先生は、江戸に戻った後も、定期的に手紙で沖田の治療方針について指示を送ってくれている。


 ポカポカとした冬の陽光が、背中を優しく温める。まるで、この束の間の平穏を祝福しているかのようだ。俺は書状の封を切り、几帳面な筆跡で書かれた文字を追った。


『……沖田君の容態、まことに落ち着いているとのこと、何よりに存じます。こちらで調合した新薬、引き続き服用を続けさせてください。焦りは禁物なれど、このまま快方に向かえば、春には軽い散策も可能かと……』


「……そうか」


 思わず、安堵のため息が漏れた。沖田の病、肺結核は、俺の前世の知識をもってすれば不治の病ではない。だが、この時代には特効薬もなく、安静と栄養、そして患者自身の生命力に頼るしかないのが現実だ。松本先生という当代随一の名医の協力と、俺が提供した現代知識(栄養学や衛生管理の概念)が、奇跡的な回復を後押ししてくれている。


 春には、散策も。

 あの、誰よりも剣の道を愛した男が、再び日の光の下を歩けるかもしれない。その事実が、俺の心をじんわりと温めた。


 良い知らせは、それだけではない。

 長崎で俺の密命を受け、新しい組織の立ち上げに奔走しているはずの男たちからも、定期的に情報が入ってきている。坂本龍馬と中岡慎太郎。彼らが薩摩藩の庇護の下に設立した「亀山社中」は、俺が提供した資金と情報を元に、着実にその規模を拡大させていた。蒸気船を手に入れ、藩の垣根を越えた交易を始め、幕府海軍とも連携し、来るべき海運国家・日本の礎を築くための準備を進めている。


 小栗忠順、松本良順、坂本龍馬、中岡慎太郎……。

 俺が未来の知識という種を蒔いた場所で、次々と新しい芽が吹き、力強く育っている。全てが、計画通りに進んでいる。このまま行けば、本当に歴史を変えられるかもしれない。薩長が引き起こす内乱を未然に防ぎ、徳川幕府を中心とした、平和裏での近代化改革を成し遂げる。そんな、誰も血を流さずに済む未来が――。


 そんな希望に満ちた感傷に浸っていた、まさにその時だった。

 縁側で日向ぼっこをしながら松本先生からの書状を読み返していると、背後に静かな気配が立った。


「永倉さん」


 振り返るまでもない。感情の温度を感じさせない、平坦で落ち着いた声。監察方の長、山崎烝だ。


「どうした、山崎君。何かあったか」

「分析方より、急ぎご報告したい儀が」


 俺が隣のスペースを示すと、彼は音もなく腰を下ろした。その表情はいつものように冷静だが、瞳の奥に宿る微かな光の揺らめきが、報告の重要性を物語っている。

 俺たちが作り上げた新しい諜報網。京の内外に張り巡らされた情報網から、暗号化された情報がリアルタイムで集約され、分析方で解読・分析される。それは、敵の行動を予測し、未来の脅威を未然に叩くための、俺たちの「目」であり「脳」だ。


「先般より注視しておりました、伏見における薩摩藩の動向について、新たな事実が判明いたしました」

「……続けろ」


 前話の終わり、山崎君は伏見に潜む薩摩藩士たちの動きに、不自然な「指向性」を感じ取っていた。個々の動きは些細だが、全体として見ると、何らかの目的に向かって収束していくような、奇妙な流れ。俺は彼に、情報収集の精度を上げるよう指示していた。


「伏見に潜伏する薩摩藩士数名の身元が割れました。いずれも示現流の使い手。彼らを束ねているのは、中村半次郎、通称『人斬り半次郎』と呼ばれる男と見て間違いありません」

「中村半次郎……」


 幕末最強の人斬りの一人。その名を聞いて、俺は眉をひそめた。剣客としては興味をそそられるが、彼が裏で動いているとなると、話は穏やかではない。


「そして、彼らがこの数日、集中的に偵察している場所が特定できました」

 山崎君は一呼吸置き、静かに告げた。

「旅籠、『寺田屋』でございます」


 その名を聞いた瞬間、俺の思考が数秒間、停止した。

 寺田屋……?

 その名には聞き覚えがある。いや、ありすぎる。だが、おかしい。何かが、根本的におかしい。


 俺の知る歴史では、最初の「寺田屋騒動」は、もう何年も前に、池田屋事件よりも前に起こっていなければならないはずだ。文久二年、島津久光の上洛に際し、先走った薩摩の尊攘派志士たちが、同藩の鎮撫方に斬り殺された血で血を洗う粛清事件。あれほどの事件が、この京で起こらなかったというのか?


「……山崎君、一つ確認したい」

 俺は、思考の混乱を悟られぬよう、努めて冷静に問いかけた。

「過去に、この伏見の寺田屋で、薩摩藩士同士が大規模な斬り合いをしたという記録や噂は、監察方の耳に入っているか?」


 山崎君は少し意外そうな顔をしたが、すぐに記憶を探り、首を横に振った。

「薩摩藩士同士の、でございますか? いえ、少なくとも我々が本格的に活動を始めてからは、そのような大規模な騒動は把握しておりません。藩士間の小競り合い程度であれば日常茶飯事ではございますが、寺田屋が舞台となったという話は……寡聞にして存じ上げません」


「……そうか」


 彼の答えに、俺は確信した。

 歴史は、変わっている。

 俺という異物がこの時代に現れ、行動を起こしたことで、本来起こるはずだった大きな事件が、静かに歴史の舞台から消え去っていたのだ。そして、その空白を埋めるかのように、今、全く新しい「寺田屋」の筋書きが生まれようとしている。


 これは、俺が作り出してしまった、新たな死亡フラグなのか?


 背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、俺は山崎君に先を促した。

「報告を続けてくれ。寺田屋を偵察している、それだけではまだ……」


「当初、我々もその一点で、情報の評価を『要注意』水準に留めておりました。しかし……」

 山崎君は懐から一枚の紙を取り出した。分析方が解読した、最新の報告書だ。

「本日、決定的な情報が入りました。中村半次郎ら薩摩藩士が、伏見奉行所の与力である上田助之丞と、複数回にわたり密会している事実を掴みました」


「……なんだと?」


 伏見奉行所と、薩摩藩士が、密会。

 その二つの点が、俺の頭の中で一本の黒い線で結ばれた。

 史実の寺田屋事件(龍馬襲撃)では、伏見奉行所が実行犯だった。そして薩摩は、龍馬を救う側に回る。だが、この世界では、その両者が手を結んでいる。


 目的は、一つしか考えられない。

 坂本龍馬の、抹殺。


 俺が龍馬と接触し、彼を幕府側に取り込もうとしている。その動きが、薩摩の警戒心を最大限に刺激したのだ。彼らにとって龍馬は、もはや倒幕の駒ではなく、幕府を利する「裏切り者」。本格的に幕府と繋がる前に、社会的にではなく、物理的に排除する。そのための、薩摩と奉行所の共同作戦。


「永倉さん、顔色が」

「……山崎君。今日の日付は?」

「は?」

「今日の日付だ! 何年何月何日だ!」


 俺のただならぬ気配に、山崎君は僅かに目を見開いたが、即座に答えた。

「は、はい。本日は、慶応二年、一月二十日ひとつきはつかにございます」


 一月二十日。

 俺の記憶が正しければ、史実の龍馬襲撃は、慶応二年一月二十三日の深夜。

 あと、三日しかない。


「……間に合う」

「何がでございましょうか?」


 俺は山崎君の問いには答えず、彼の目を真っ直ぐに見据えた。

「分析方、および全監察方に告ぐ! これより、本件を最優先事項とする! 伏見・寺田屋に関する全ての情報を洗い直せ! 周辺の地理、潜伏する薩摩藩士の人相、金の流れ、武器の搬入経路! そして、伏見奉行所内部の内通者の割り出し! 一刻の猶予もないぞ!」


 俺の言葉には、もはや迷いはなかった。あるのは、迫りくる脅威に対する確信と、それを迎え撃つという断固たる決意だけだ。

 山崎君は、俺の表情から全てを悟ったのだろう。彼は深く、力強く頷いた。


「承知いたしました。直ちに、全力を挙げます」


 立ち去ろうとする彼の背中に、俺は最後の、そして最も重要な問いを投げかけた。

「山崎君。その寺田屋に、近々宿泊する予定の重要人物はいるか。特に……土佐の浪士で、心当たりのある者は?」


 山崎君は振り返り、静かに、そして明確に告げた。

「はい。三日後、二十三日の夜。土佐脱藩浪士・坂本龍馬が、長州の三吉慎蔵と共に宿泊するとの情報を、すでに確認済みです」


 その言葉が、最後の引き金となった。

 沖田の快方、小栗との連携、亀山社中の躍進。俺の周囲で積み上がっていた希望に満ちた未来図が、音を立てて軋む。違う。崩れるものか。俺が作り上げた未来図を、歴史の修正力か、あるいは薩摩の野望が、力づくで塗り潰そうとしているだけだ。


 嵐の前の静けさは、終わった。

 京の空に垂れ込めていたのは、穏やかな冬の雲ではなかった。それは、友の命を奪おうとする、巨大な嵐の兆候だった。


「……龍馬」


 俺は、誰にも聞こえない声で、その名を呟いた。

 史実では、お前はここで生き延びる。だが、俺が変えたこの世界では、薩摩がお前を本気で殺しに来る。話は全く別だ。


 だが、心配するな。

 俺たちの諜報網は、お前を狙う凶刃を、振り下ろされる前に捉えた。

 この「貸し」は、途方もなく高くつくぞ、坂本龍馬。


 俺は静かに立ち上がり、腰の愛刀の柄を、強く握りしめた。

 三日後。

 京の南、伏見の地で、歴史には記されていない、新たな戦いが始まろうとしていた。


山崎烝がもたらした情報は、新八の記憶にある歴史とは異なるものでした。

本来なら過去に起きているはずの「寺田屋騒動」が起きていない――。

この事実は、新八の介入によって歴史が大きく改変されていることを示唆しています。

そして今、その歪みが新たな火種となって燃え上がろうとしています。

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