第11話:天才の剣、分析者の眼
土方歳三に「参謀」として認められ、組織運営にその現代知識を活かし始めた主人公。
試衛館の改革が水面下で進む中、彼の前に天才剣士・沖田総司が立ちはだかる。
屈託のない笑顔で申し込まれた一本の手合わせ。史実に名高い神速の三段突きを、主人公の分析能力は見切り、天才に一矢報いることができるのか。知恵と剣、両面での真価が今、問われる。
土方歳三に「参謀」としての役割を認められてから、数日が過ぎた。
俺と土方さんの関係がどう変わったのか、周囲はまだ気づいていない。俺はこれまで通りに稽古に励み、土方さんは相変わらず道場の隅で腕を組み、鋭い視線を門下生たちに投げかけている。
だが、水面下では、確実に変化が起きていた。
稽古が終わると、俺は土方さんに呼び出され、試衛館の運営に関する意見を求められるようになった。収入源の確保、門下生の管理、食費の切り詰め方まで、その内容は多岐にわたる。俺は現代知識を総動員して、組織運営の改善案を次々と提示した。そのたびに、土方さんは「面白い」と口元に笑みを浮かべ、俺の提案を驚くべき速度で実行に移していった。
俺たちの間には、奇妙な共犯関係が芽生えつつあった。
そんなある日の昼下がり。
その日の稽古は、いつもと少し違う熱気に包まれていた。道場の中心に、二人の男が木刀を構えて対峙している。
一人は、沖田総司。
もう一人は、俺、永倉新八だ。
「永倉君、最近ますます腕を上げたじゃないか。僕と一本、手合わせ願えるかな?」
屈託のない笑顔でそう言われ、断れるはずもなかった。
周囲を、近藤さんや土方さん、そして多くの門下生たちが固唾を飲んで見守っている。
沖田君は、いつも通りの飄々とした構えだ。木刀をだらりと下げ、その表情からは一切の気迫が感じられない。まるで、これから始まるのが真剣勝負ではなく、ただの遊びであるかのように。
だが、俺にはわかる。その弛緩した筋肉の下に、恐るべき瞬発力が秘められていることを。彼の剣は、静から動への転換が異常に速い。初動が見えないのだ。
対する俺は、官僚時代に培った分析能力をフル回転させていた。
(沖田総司の剣。史実では「神速の三段突き」と謳われる。常人には見えない速さで、三度の突きを繰り出すという。だが、物理的にあり得ない。人間の身体構造上、一度突いた腕を完全に引き戻し、再度同じ速度で突くには、コンマ数秒のタイムラグが必ず発生するはずだ)
俺の脳が、目の前の「天才」を冷静に分析していく。
(問題は、そのタイムラグが、俺の動体視力と反射神経で捉えきれるかどうか。そして、彼の剣は三段突きだけではない。変幻自在の構えから繰り出される、予測不能な太刀筋こそが、彼の真骨頂だ)
思考を巡らせていると、不意に沖田君がふっと笑った。
「永倉君、考えすぎだよ。もっと気楽にいこう」
その言葉と同時だった。
沖田君の姿が、目の前から消えた。
そう錯覚するほどの、爆発的な踏み込み。
空気が悲鳴を上げる。俺の全身の毛が、総毛立った。
(速い……!)
思考が追いつく前に、身体が動いていた。俺は咄嗟に、身体を真横に捻りながら、木刀で喉元を庇う。
キィン!
甲高い音と共に、腕に痺れるような衝撃が走った。
沖田君の木刀の切っ先が、俺の木刀の側面を抉るようにして弾かれる。
だが、彼の攻撃はそれで終わりではなかった。
一度目の突きを弾かれたその瞬間に、彼の体は独楽のように回転し、二度目の突きが、がら空きになった俺の脇腹を狙って繰り出される。
(見えない……!だが、予測はできる!)
俺の脳は、膨大な情報を処理し続けていた。
彼の踏み込みの角度、肩の動き、視線の先、呼吸のリズム。それら全てをインプットし、次の攻撃の最適解を導き出す。
俺は、後方に跳び退きながら、無理な体勢で木刀を振るった。
二度目の突きが、俺の脇腹の皮一枚を掠めて空を切る。道着が、鋭く裂ける音がした。
道場に、どよめきが起こる。
「おおっ!」
「沖田先生の突きを、二度もかわしたぞ!」
だが、当の沖田君は、そんなことにはお構いなしだった。彼の目は、獲物を追い詰める獣のように、爛々と輝いている。
そして、三度目の突き。
それは、今までの二度の突きとは比較にならないほどの、神速の一撃だった。
踏み込みと同時に突きを放つのではなく、踏み込みの最中に、体勢が完全に整う前に突きを放っている。常識では考えられない、まさに「天才」だけが成し得る領域。
(――左足の親指!)
その刹那、俺の脳裏に、あるデータが閃光のように走った。
沖田君が、これまで二度の突きを放つ直前、ほんの僅かに、左足の親指に力が入る。まるで、地面を強く掴むかのように。それは、爆発的な推進力を得るための、彼自身の無意識の癖。
俺は、そのコンマ数秒の「予備動作」に、全てを賭けた。
彼の切っ先が俺の喉元に到達するよりも早く、俺は自らの身体を、予測した突き筋の「外側」へと投げ出していた。
紙一重。
沖田君の木刀が、俺の首筋を撫でるようにして通り過ぎる。数本の髪が、はらりと宙を舞った。
だが、俺の体勢は完全に崩れていた。受け身を取ることもできず、俺は無様に道場の床に転がる。
勝負は、決した。
「……そこまで!」
近藤さんの、張りのある声が響き渡る。
静まり返った道場の中で、俺はぜえぜえと荒い息をつきながら、大の字になって天井を仰いでいた。
負けた。完膚なきまでに。
だが、不思議と悔しさはなかった。むしろ、アドレナリンが全身を駆け巡り、奇妙な高揚感に包まれていた。
「……すごいよ、永倉君」
俺の顔を覗き込むようにして、沖田君が言った。その顔には、いつもの飄々とした笑みはなく、驚きと興奮が入り混じったような、見たことのない表情が浮かんでいた。
「僕の突きを、三度もかわした人は初めてだ」
「……かわした、なんて格好のいいものじゃありませんよ。転がって避けただけです」
俺は、苦笑しながら身を起こした。
「いや、大したもんだ、新八!」
近藤さんが、満面の笑みで俺の肩を叩く。
「まさか、あの沖田とここまで渡り合うとはな!お前の剣は、ますます磨きがかかってきたぞ!」
門下生たちも、口々に俺の健闘を称えてくれる。
だが、一人だけ、輪の外で腕を組み、黙って俺たちを見ている男がいた。
土方歳三だ。
彼の目は、俺の剣技そのものではなく、俺という人間そのものを、値踏みするように見つめていた。
その夜。
俺は、一人で素振りをする沖田君の元を訪れた。
月の光が、彼の振り下ろす木刀の軌跡を、白く照らし出している。
「沖田君」
俺が声をかけると、彼はぴたりと動きを止め、振り返った。
「どうしたんだい、永倉君。今日の立ち合い、まだやり足りなかった?」
悪戯っぽく笑う彼に、俺は静かに首を振った。
「一つ、教えて欲しいことがあるんです」
「僕に?」
「沖田君の、あの三段突き。あれは、どういう理屈で……」
俺が言いかけると、彼は少し困ったように笑った。
「理屈、と言われてもなあ……。自分でも、よく分からないんだ。こう、身体が勝手に動く、というか」
それが、天才の所以なのだろう。理屈や理論ではなく、感覚と才能で、常人には不可能な領域に到達してしまう。
俺は、しばし黙って彼の顔を見ていた。そして、意を決して口を開いた。
「沖田君。貴方の突きは、予備動作として、左足の親指に僅かに力が入る癖がある」
その瞬間、沖田君の顔から、表情が消えた。
「……え?」
「ほんの僅かな動きです。普通なら、誰も気づかない。でも、あの神速の突きを生み出すための、貴方だけの『起点』になっている。三度目の突き、俺はあれを読んで、身体を投げ出しました」
沖田君は、絶句していた。
彼は、自分の足元に視線を落とし、まるで初めて見るかのように、自分の親指を見つめている。
そして、ゆっくりと顔を上げ、信じられないものを見るような目で、俺を見た。
「……君は、一体、何者なんだい?」
その問いは、昼間の立ち合いの時とは全く違う、底知れない畏怖の色を帯びていた。
俺は、彼の問いには答えず、ただ静かに言った。
「俺は、貴方の剣が好きですよ。でも、その剣は、あまりにも貴方自身の命を削りすぎている」
史実では、沖田総司は病に倒れる。彼の剣は、あまりにも激しく、その身体に大きな負担をかけていたに違いない。
「もっと、楽に勝てる方法があるはずです。貴方の才能を、もっと長く、もっと多くの人のために使う方法が」
俺の言葉に、沖田君は何も答えなかった。
ただ、月の光の下で、じっと俺の目を見つめ返していた。
天才の剣と、分析者の眼。
この日を境に、俺たちの関係もまた、静かに、しかし大きく変わろうとしていた。
俺は、この天才を、史実通りに死なせるつもりはなかった。彼の剣を、未来へと繋ぐ。それが、俺に課せられた、もう一つの使命なのだと、強く心に誓った。
天才・沖田に敗れはしたものの、その神速の剣を三度も見切った主人公。
剣士としての才覚だけでなく、その異常な分析能力と洞察力は、彼の価値を計りかねていた土方歳三に、新たな確信を抱かせる。
他の幹部たちが剣技の善戦を称える中、土方の冷徹な視線だけが、主人公という存在の「本当の使い道」を見据えていた。彼の次なる一手は――。