第108話:横須賀製鉄所
沖田総司の回復という吉報に安堵したのも束の間、新八のもとに江戸の小栗忠順から急使が届きます。
日本の未来を賭けた巨大プロジェクト「横須賀製鉄所建設」がいよいよ動き出します。
京の壬生屯所に差した束の間の陽光。沖田総司の快方という吉報は、俺の心を久しぶりに凪がせていた。松本良順先生の尽力と、沖田自身の生命力、そして俺が持ち込んだ現代知識。それらが奇跡的に噛み合い、最悪の未来を一つ、確かに退けることができたのだ。
新選組という組織の近代化、隊士たちの意識改革、そして沖田の命を繋ぎ止めるという個人的な悲願。俺がこの時代に来てから、休む間もなく回し続けてきた歯車が、ようやく噛み合い始めた実感があった。
だが、その静けさは、江戸からの急使によって唐突に破られることになる。
早馬が運んできた文は、あまりにも簡潔だった。
「至急、江戸表へ参られたし。――小栗忠順」
差出人の名が、事の重大さを何よりも雄弁に物語っていた。俺は近藤さんや土方さんに後事を託し、詳しい事情を説明する間も惜しんで、最低限の供だけを連れて東海道を駆け上がった。休む間など、ありはしない。俺が京で新選組の足元を固めている間にも、江戸では日本の未来を賭した巨大な歯車が、俺の計画書を核として、今まさに動き出そうとしていたのだから。
◇
江戸城、黒書院。
将軍が政務を執るこの場所は、息が詰まるほどの静寂と緊張に支配されていた。居並ぶのは、幕府の屋台骨を支える老中や若年寄といった重鎮たち。その誰もが、上座に座す若き将軍・徳川家茂と、その前でよどみなく言葉を紡ぐ一人の男の顔を、固唾をのんで見守っていた。
勘定奉行、小栗忠順。その末席に近い席次とは裏腹に、彼が放つ存在感は、その場にいる誰よりも強烈だった。
「――以上が、臣・忠順が献策いたしまする、新たな製鉄所建設の儀にございます」
小栗は、新八が血と汗を滲ませて書き上げた計画書の要点を、完全に自らの言葉として消化し、よどみなく説き終えた。それは単なる製鉄所の建設案ではない。造船所、兵器工場、技術者養成機関までを内包した、一大産業複合体の構想。西洋列強の技術をただ模倣するのではなく、日本の実情に合わせて最適化し、将来的な自立発展までを見据えた、壮大な国家百年の計であった。
シン、と静まり返った室内に、老中たちの訝しむような視線が交錯する。やがて、その中の一人が、重々しく口を開いた。
「小栗殿。その計画、あまりに壮大に過ぎるのではないか。聞けば、六百万ドルもの莫大な費用がかかるとのこと。幕府の財政が火の車であることは、勘定奉行であるそなたが一番よく分かっておろう。その金、一体どこから捻出するおつもりか」
「いかにも。フランスからの借款に頼るなど、異国の力を安易に引き入れるは危険の極み。かの阿片戦争の二の舞にならぬと、誰が断言できようか」
懐疑的な声が、堰を切ったように上がり始める。無理もない。彼らにとって、それはあまりにも飛躍した、夢物語のような計画に聞こえただろう。旧来の慣例と格式を重んじる彼らに、未来の国家像を語ったところで、それは机上の空論としか映らない。
だが、小栗は動じなかった。その鋭い視線は、雑音を発する老中たちを通り越し、ただ真っ直ぐに、上座の若き将軍に向けられていた。
「上様」
凛とした声が、室内のざわめきを切り裂く。
「異国が黒鉄の蒸気船を駆り、天をも揺るがす鉄の大砲を以て我が国を脅かす今、我らが為すべきは、旧来の因習に囚われ、目前の損失のみを恐れることではございません。彼らの力を利用し、学び、そしていずれは凌駕する。それこそが、この日の本の国体を守り、万民の安寧を保つ唯一の道と信じます」
小栗の言葉には、一点の曇りもなかった。それは、新八が彼に示した未来のビジョンを、彼自身が完全に理解し、自らの揺るぎない信念へと昇華させたがゆえの力強さだった。
「この計画は、その礎となるもの。費用の問題は、生糸の輸出益、および各藩からの出資を募ることで必ずや解決への道筋をつけまする。むしろ、この機を逃し、列強のなすがままになることこそ、我が徳川の治世にとって、取り返しのつかぬ損失となりましょうぞ!」
皆が固唾を飲んで見守る中、それまで黙って小栗の言葉に耳を傾けていた家茂が、静かに口を開いた。
「……忠順」
「はっ」
「そのほうの計画、まことに面白い。そして、今この国にとって、必要不可欠なものであると、余も思う」
その声は若々しく、しかし、二百六十年続く武家の棟梁としての威厳に満ちていた。
「老中たちの懸念ももっともだ。されど、変化を恐れていては、未来は拓けぬ。忠順の申す通り、今こそ我らは、大きな一歩を踏み出すべき時であろう」
家茂は、居並ぶ重臣たちをゆっくりと見渡し、そして、断固たる口調で告げた。
「横須賀製鉄所の建設を、幕府の総力を挙げて推進する。これを、将軍の直轄事業と定める。忠順、そなたにその全権を委ねる。存分に腕を振るうがよい」
「ははっ! 身命を賭して、上様のご期待に応えてみせまする!」
小栗が、床に額がつくほどに深く頭を下げる。その背中に、老中たちから嫉妬と驚嘆の入り混じった視線が突き刺さるのを、新八は後の報告で知ることになる。
「うむ」と頷いた家茂は、ふと何かを思い出したように、言葉を続けた。
「して、忠順。その計画の骨子を献策したという、新選組の永倉新八とやら。いかなる人物なのだ? 一介の浪士が、これほどの知見を持つとはにわかには信じがたいが」
家茂の瞳に、強い好奇の色が浮かぶ。小栗は、待ってましたとばかりに顔を上げた。
「はっ。永倉新八、まこと得体の知れぬ男にございます。ですが、その才覚は、間違いなく日の本の至宝。この計画を成功させるには、彼の知恵が不可欠にございますれば」
「ほう。この忠順に、そこまで言わせるか。面白い。いずれ、余もその男に会ってみたいものだ」
若き将軍の言葉は、その場の誰もが聞き逃さなかった。一介の浪士に過ぎない新八の名が、将軍の口から発せられる。それは、この徳川の世において、前代未聞のことであった。
◇
江戸の小栗邸に駆けつけた俺は、将軍の裁可が下りたことを知らされた。その場の興奮と熱気が、まるで昨日のことのように伝わってくる。
「……将軍直轄事業、ですか」
「そうだ。上様は、この計画の重要性を深くご理解くださった。永倉殿、そなたのおかげだ。そなたという希代の才覚を得たこと、俺は生涯の幸運と感謝している」
小栗は、普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど、興奮を隠しきれない様子で語る。俺が提示した未来の知識が、この国の最高権力者の心を動かし、歴史の歯車を大きく、そして確実に回したのだ。その事実に、俺自身の胸も熱くなる。
「つきましては、そなたに正式な役職についてもらいたい」
「役職、ですか?」
「うむ。『横須賀製鉄所建設顧問』だ。幕府の正式な役職ではないが、この事業に関する一切の事柄について、俺の相談役として、また、技術的な助言役として、力を貸してもらいたい。そなたの知恵なくして、この大事業の完遂はありえん」
「顧問……。俺のような者に、そのような大役が務まるでしょうか」
思わず、ためらいの言葉が口をつく。新選組の二番組組長・副長助勤という立場ですら、俺には重すぎるというのに。
だが、小栗の目は、どこまでも真剣だった。
「謙遜は無用だ。そなた以外に、この役目を果たせる者は日の本にはおらん。俺が保証する」
身分や出自ではなく、ただ能力だけを見る。この男の、最大の美点であり、そしてこの時代における最大の異端たる所以だ。俺は、その真っ直ぐな目から逃げることはできなかった。
「……わかりました。微力ながら、お引き受けいたします」
「おお、引き受けてくれるか! 頼む。早速だが、明日、フランス公使館へ赴いてもらう。技術者たちとの、最初の会合だ」
あまりの展開の速さに、俺は目を見張った。
「もう、技術者たちが江戸に?」
「ああ。そなたの計画書を元に、フランス本国と交渉し、最高の技術者たちを呼び寄せた。主任技師は、フランソワ・レオンス・ヴェルニー。ブレスト海軍工廠の副所長を務めた、造船と建築の専門家だ」
ヴェルニー。その名を聞いて、俺の背筋に心地よい緊張が走った。史実においても、横須賀造船所の建設を指揮した、お雇い外国人の代表格。彼らとの交渉が、この計画の成否を分ける最初の関門になる。
「彼らは、我々が提示した計画に強い興味を示すと同時に、いくつかの疑問点も呈している。特に、乾船渠の規模や、反射炉の構造について、より詳細な説明を求めてきている。……正直に言おう。俺にも、そなたが記した図面の全てを理解できているわけではない。そなたの口から、直接彼らを説き伏せてもらいたいのだ」
「……承知いたしました」
俺は、腹を括った。これは、俺の知識が、この時代の最高の知性と技術に通用するかどうかを試される、最初の試練だ。そして、絶対に負けられない戦いだった。
◇
翌日、横浜のフランス公使館の一室は、異様な熱気に包まれていた。磨き上げられたテーブルを挟んで、日本側は小栗忠順と俺、そして数人の幕府役人。対するフランス側は、駐日公使レオン・ロッシュ、そして主任技師のヴェルニーをはじめとする5人の技術者たちだ。
通詞を介して、儀礼的な挨拶が交わされる。だが、ヴェルニーたちの目に浮かぶのは、隠しようのない侮りと好奇心だった。東洋の未開の国が、ヨーロッパ最新の製鉄所を自前で建設しようなど、笑止千万。おそらくは、そう思っているのだろう。特に、俺の浪人風情の格好を見て、訝しげな視線を向けているのが分かった。
やがて、ヴェルニーが俺の描いた図面を指さしながら、鋭く切り込んできた。
「ムッシュー・オグリ。あなたの国の熱意は評価しますが、我々が提示した当初の計画案を、なぜここまで大きく変更する必要があったのですか? 特に、この乾ドックの規模。排水機構の複雑さを考えれば、もっと小規模なものから始めるのが現実的というものでしょう」
彼の指摘はもっともだ。だが、それはあくまで「今の」艦船を基準にした考えに過ぎない。
小栗が目で合図する。俺は一つ頷くと、通詞を通して、はっきりと告げた。
「ムッシュー・ヴェルニー。あなたの指摘は、現在の技術水準から見れば正しい。しかし、我々が見据えているのは、十年、二十年先の未来です」
「未来、だと?」
俺は、淀みなく語り始めた。前世で叩き込まれたプレゼンテーションの技術が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
「蒸気機関の出力向上に伴い、軍艦は今後、急速に大型化、重装甲化していく。今、目の前の船に合わせてドックを造っても、十年後には使い物にならなくなる。我々が必要としているのは、将来建造されるであろう、一万トン級の装甲艦ですら修繕可能な、巨大な乾ドックなのです。排水機構については、複数の蒸気喞筒を並列に配置し、水位に応じて段階的に稼働させることで、効率的な排水が可能です」
俺の言葉に、ヴェルニーの眉がぴくりと動いた。隣に座るフランス人技術者たちが、フランス語で何事かざわめき始める。
「馬鹿な……一万トン級だと? そんな巨大な船、構想すら……」
「いや、しかし、理論上は可能だ。それに、ポンプの並列稼働という発想は、我々も気づかなかった……」
畳みかけるように、俺は次の図面を指した。
「次に、製鉄の根幹となる反射炉について。あなた方が提示した設計では、熱効率が低すぎる。炉床の形状を、熱がより均一に反射・集中するように、この放物線状に改良すべきです。さらに、燃料には石炭だけでなく、骸炭を併用する。これにより、より高い温度で、不純物の少ない良質な鉄を生産できる」
「コークスだと!? それを安定して生産する技術が、この国にあるというのか!」
ヴェルニーが、思わず身を乗り出して叫んだ。
「ええ。そのためのコークス炉の設計図も、こちらに用意してあります」
俺がさらりと別の図面を示すと、ヴェルニーは絶句した。彼の顔から、完全に侮りの色が消え失せている。代わりに宿ったのは、技術者としての純粋な驚嘆と、目の前の東洋の浪人に対する畏敬の念だった。
「……信じられん。そなたは、一体何者なのだ? これほどの知識を、どこで……。ヨーロッパの、どの大学で学んだのだ?」
「俺は、ただのしがない浪人です。強いて言うなら、様々な書物を読み、独学で学んだだけですよ」
俺は肩をすくめてみせた。もちろん、嘘だ。俺の頭の中にあるのは、数多の失敗と成功の末に築き上げられた、未来の技術体系そのものなのだから。
その後も、議論は続いた。旋盤やボール盤といった工作機械の選定、技術者養成のための教育カリキュラム、労働者の居住区画の設計に至るまで、俺はあらゆる分野で具体的な提案を行った。俺の指摘は、常に論理的で、費用対効果と将来性を見据えたものだった。
当初の予定時間を大幅に超過し、白熱した議論がようやく終わった頃には、フランス人技術者たちの態度は、初めとは一変していた。彼らは俺を「ムッシュー・ナガクラ」と敬意を込めて呼び、その一言一句に真剣に耳を傾けるようになっていた。
会合の最後に、ヴェルニーが立ち上がり、俺たちに向かって深々と頭を下げた。
「ムッシュー・オグリ。そして、ムッシュー・ナガクラ。我々の不明を恥じる。あなた方は、我々が考えるよりも、遥かに先の未来を見ている。これほど刺激的な仕事は、生涯で初めてだ。我々フランス技術者団は、誇りにかけて、世界最高の製鉄所を、この日本の地に建設することを約束しよう」
その言葉は、交渉の成功を告げるだけでなく、異なる国の技術者たちが、一つの偉大な目標に向かって心を一つにした瞬間を告げていた。
公使館からの帰り道、馬上の小栗は、興奮冷めやらぬといった様子で俺に語りかけた。
「……見事だった、永倉殿。そなたは、一体どこまでの知識をその頭に詰め込んでいるのだ。もはや、神の領域だな」
「さあ……自分でも、よく分かりません。ただ、やらねばならぬという一心です」
俺は、江戸の空を見上げながら、曖昧に笑った。
横須賀製鉄所。
史実では、明治政府に引き継がれ、日本の近代化を支える礎となった場所。だが、この世界では違う。これは、徳川幕府が、自らの手で未来を掴むための、巨大なエンジンとなるのだ。
確かな一歩を踏み出した。だが、まだ始まったばかりだ。この巨大な計画を守り抜き、育てていくためには、あらゆる障害を排除しなければならない。薩長、そしてその背後にいるであろう岩倉具視……。敵の動きは、ますます活発になるだろう。
(山崎さん……斎藤さん……。京の守りは、頼んだぞ)
江戸の地から、俺は京の仲間たちに思いを馳せる。兵器や組織の近代化だけでは足りない。敵の謀略を未然に防ぎ、その動きを完全に掌握するための、「目」と「耳」が必要だ。諜報網の、さらなる進化が。
俺たちの戦いは、まだ始まったばかりなのだ。俺は、手綱を握る手に、ぐっと力を込めた。
小栗忠順の熱意と論理的な説得は、ついに将軍・徳川家茂の心を動かしました。
横須賀製鉄所建設は将軍直轄事業となり、新八の名もまた、将軍の耳に届くこととなります。
一介の浪士が国の中枢を動かす、まさに歴史が変わる瞬間でした。




