第107話:沖田の笑顔と新たな縁
新選組の近代化が進む中、壬生屯所にはもう一つの戦いがありました。
それは、天才剣士・沖田総司の命を蝕む労咳との闘いです。
新八の現代知識と松本良順の西洋医学が融合した治療法は、果たして「死の運命」を覆すことができるのでしょうか。
新選組の近代化という、大きな嵐が屯所を吹き抜けた数日後。その喧騒が嘘であったかのように、壬生屯所には穏やかな、それでいて張り詰めた空気が流れていた。奥の一室、沖田総司が療養する部屋の前に、俺と近藤勇、土方歳三の三人が、息を殺して座していた。
部屋の中から聞こえてくるのは、時折交わされる短い問答と、衣擦れの音だけ。障子の向こうには、沖田と、そして江戸からわざわざ来京した幕府奥医師・松本良順先生がいる。
「……胸の音は、以前よりずっと落ち着いている。呼吸も深い」
松本先生の静かな声が聞こえた瞬間、隣に座る近藤さんの肩が、わずかに震えたのが分かった。土方さんも、普段の険しい表情をわずかに緩め、固く握りしめていた拳の力を抜いた。
俺の心臓も、早鐘のように鳴っていた。史実では、沖田総司の労咳は不治の病。彼の命の灯火が、ゆっくりと、しかし確実に消えていくのを、俺は「知識」として知っていた。その運命に抗うため、俺は持てる現代知識のすべてを注ぎ込んだ。
ペニシリンそのものは作れないだろう。だが、結核菌が飛沫感染すること、患者の隔離が重要であること、そして何より栄養と安静が治療の基本であること。俺が松本先生に伝えたのは、そうした「衛生観念」と「栄養学」の基礎だった。
松本先生は、西洋医学の泰斗としての柔軟な思考で俺の突飛な理論を受け入れ、江戸から最新の知見と薬を送り続けてくれた。そして沖田自身も、俺たちの想いに応えるように、懸命に病と闘ってくれた。
やがて障子が静かに開き、穏やかな表情の松本先生が姿を現した。俺たちは、まるで判決を待つ罪人のように、その唇に視線を集中させた。
「……見事なものです、永倉先生」
開口一番、松本先生は俺に向かって深々と頭を下げた。
「先生、よしてください。俺は医者じゃありません」
「いや、あなたは紛れもない医者だ。少なくとも、この沖田君にとっては、どんな名医よりも優れた医者だ」
松本先生は、興奮を隠しきれない様子で続けた。
「驚きました。あれほど悪化していた肺の音が、明らかに改善している。喀血の頻度も減り、顔色も良い。何より、彼の眼に力が戻っている。これは……奇跡と言ってもいい」
そして、俺たち三人に順番に視線を送り、はっきりと告げた。
「断言します。沖田君の病の進行は、現時点でほぼ完全に停止している。このまま安静と養生を続ければ、完治は難しいまでも、常人と変わらぬ生活を送れるようになる可能性も、決して夢物語ではない」
その言葉が、どれほどの意味を持つか。
「……っ!」
最初に崩れ落ちたのは、近藤さんだった。あの、どんな時でも泰然自若としていた新選組局長が、まるで子供のように畳に手をつき、嗚咽を漏らし始めた。
「総司……! よかった……本当によかった……!」
その肩を、土方さんが無言で抱く。だが、その土方さんの顔も、いつもの鬼の形相は見る影もなく、目にはうっすらと涙の膜が張っていた。彼は顔を背け、天を仰いで何かをこらえている。
「……フン。当たり前だ。あいつがこの程度でくたばるわけがねえ」
吐き捨てるような言葉とは裏腹に、その声は震えていた。試衛館時代から、弟のように、いや、実の息子のように沖田を可愛がってきた二人だ。その喜びは、俺の想像を絶するものがあるだろう。
俺は、そんな二人を見ながら、心の底から安堵のため息をついた。勝海舟を説得した時とも、小栗忠順と渡り合った時とも違う、温かい達成感が全身を包み込む。
歴史を変える。運命を覆す。
それは、大層な理念や計画だけではない。こうして、目の前で仲間が死の淵から生還する。その笑顔を守り抜くこと。それこそが、俺がこの時代で成し遂げたかった、何よりの偉業だった。
「さあ、二人とも。総司が待ってます。そんな顔を見せたら、あいつが気を遣うでしょう」
俺が声をかけると、近藤さんは涙を袖で乱暴に拭い、土方さんは一つ咳払いをして、いつもの表情を取り繕った。
部屋に入ると、沖田は布団の上に穏やかな表情で半身を起こしていた。以前のような虚ろな感じはなく、その頬には血の気が戻っている。
「近藤先生、トシさん。ご心配をおかけしました」
「馬鹿野郎……! 心配なんぞ……」
言葉に詰まる近藤さんの代わりに、土方さんが沖田の枕元にどかりと腰を下ろした。
「おい総司。少し良くなったからって、調子に乗るんじゃねえぞ。永倉の言いつけを破って、少しでも無茶をしてみろ。今度こそ、俺が叩き斬ってやるからな」
「はは、怖いですね、トシさんは。大丈夫ですよ。僕だって、まだ死にたくありませんから」
沖田は、悪戯っぽく笑った。その屈託のない笑顔は、本当に久しぶりに見るものだった。その笑顔一つで、この殺伐とした壬生屯所の空気が、まるで春の陽だまりのように暖かくなる。
俺たちが沖田を囲んで談笑していると、屯所の外から、フランス式教練の号令と、隊士たちの鬨の声が聞こえてきた。
「銃、取れ!」
「構え、筒!」
その音に、沖田が不思議そうな顔をする。
「なんだか、最近の屯所はずいぶん賑やかですね。僕の知らないことばかり進んでいるみたいだ」
「ああ。少しな」
俺は、新選組の近代化について、かいつまんで説明した。シャスポー銃の導入、フランス式軍事教練の開始。刀を置き、銃を取ることへの隊士たちの反発と、それを上回る銃の威力。
沖田は、黙って俺の話を聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「銃、ですか……。僕には、少し難しい話です。でも、永倉さんが言うのなら、それが新選組にとって一番良い道なんでしょうね」
天才的な剣客である彼にとって、銃の時代が来るということは、自らの存在価値が揺らぐことにも繋がりかねない。だが、彼の言葉に、嫉妬や反発の色は微塵もなかった。ただ、俺への絶対的な信頼があるだけだった。
「まあ、お前はそんなことを気にする必要はない。お前の仕事は、一日も早く元気になって、またその馬鹿げた強さで俺たちを安心させることだ」
俺がそう言うと、沖田は少し寂しそうに笑った。
「……そうだと、いいんですけどね」
その表情に、俺は胸が締め付けられる思いがした。病状は安定したとはいえ、彼がかつてのように剣を振るえるようになるかは、まだ分からない。剣の道に生きてきた彼にとって、それは死よりも辛いことかもしれなかった。
何か、彼に希望を持たせられるような話はないか。そう考えた時、俺の脳裏に、江戸で出会った一人の女性の姿が浮かび上がった。
その日の午後、近藤さんや土方さんがそれぞれの仕事に戻り、沖田の部屋に俺と二人きりになった時、俺はその話を切り出した。
「そういえば沖田。江戸で、面白い女に会ったんだ」
「女、ですか? 永倉さんがそんな話をするなんて、珍しいですね」
興味深そうに身を乗り出す沖田に、俺は苦笑しながら続けた。
「色っぽい話じゃないぞ。剣の話だ」
俺は、神田於玉ヶ池の玄武館で出会った、中沢琴について語り始めた。
「中沢琴、という女剣士だ。年は、お前と同じくらいか、少し下か。法神流の使い手で、得物は薙刀。これが、とんでもなく強い」
「薙刀、ですか」
「ああ。俺も少しだけ立ち会ったんだが、まあ、肝を冷やした。女だてらに、なんて言葉は失礼だな。性別なんて関係ない。あれは本物の強者だ。一瞬でも気を抜けば、俺でも危なかった」
俺は、玄武館の道場で見た、琴の薙刀さばきを思い出しながら語る。嵐のように荒れ狂いながら、その実、全ての動きが計算され尽くした理の剣。長いリーチを生かした間合いの支配。そして何より、相手を喰ってやろうという、獰猛なまでの闘争心。
「まるで、舞うようでしたか?」
「いや、違うな」
俺は首を振った。
「舞なんかじゃない。もっと荒々しくて、獰猛だ。まるで、飢えた獣が獲物に襲いかかるようだった。だが、その一撃一撃が、恐ろしく精密なんだ。力と技が、完璧に融合している。俺が知る限り、あそこまで薙刀を使いこなす奴は見たことがない」
沖田の目が、少しずつ輝きを増していくのが分かった。剣の天才である彼にとって、未知の強者の話は、何よりの良薬なのだろう。
「へえ……。そんなに強い人が。江戸には、まだ僕の知らない達人がいるんですね」
「ああ。世界は広いってことだ。その中沢琴、普段は男装していてな。一見すると、線の細い美青年なんだ。だが、一度薙刀を手にすると、鬼神もかくやという戦いぶりで、幕府の講武所でも並の男じゃ相手にならないらしい」
「男装……。なんだか、面白い人ですね」
沖田は、くすくすと笑った。その顔には、先ほどまでの翳りはもうない。純粋な好奇心と、剣士としての闘志が、その瞳に蘇っていた。
その表情を見て、俺は確信した。彼に必要なのは、安静や薬だけではない。心を奮い立たせる「目標」なのだと。
俺は、冗談めかした口調で、彼に言った。
「どうだ、沖田。病がすっかり良くなったら、一度、手合わせを願い出てみては。新選組最強の天才剣士と、江戸最強の女薙刀使い。どっちが強いか、俺も見てみたいもんだ」
それは、半分は本気だった。この二人がもし真剣に立ち合えば、一体どんな戦いになるのか。想像するだけで、武者震いがする。
俺の言葉に、沖田は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて、悪戯っ子のような、それでいてどこか挑戦的な笑みを浮かべた。それは、俺が知っている、最強の剣客・沖田総司の顔だった。
「……ふふ。それは、楽しみですね」
その言葉は、力強かった。単なる相槌ではない。未来への、確かな希望を宿した響きがあった。
「そのためにも、早く元気にならないと。江戸まで、出かけていかないといけませんからね」
沖田の笑顔。
それは、俺がこの世界に来てから、ずっと守りたかったものだ。その笑顔を取り戻すためなら、どんな困難も乗り越えられる。俺は、改めてそう誓った。
この穏やかな時間は、長くは続かないだろう。京の情勢は依然として不安定だし、江戸では、俺が蒔いた種が、良くも悪くも芽を出し始めている。小栗忠順殿と約束した、横須賀製鉄所の建設計画も、すぐに動き出すはずだ。俺の戦いは、まだ始まったばかりだ。
だが、今はいい。
この、束の間の平和を噛みしめよう。弟のような存在の、命の灯火が再び力強く燃え始めた。それだけで、今は十分だった。
俺は、窓から差し込む柔らかな日差しの中で、穏やかに談笑する近藤さんや土方さん、そして沖田の姿を、瞼に焼き付けた。この光景を守るためなら、俺は鬼にも、悪魔にもなれる。
(中沢琴よ。うちの総司は、お前が思うよりもずっと強いぞ)
心の中でそんなことを呟きながら、俺もまた、彼らの笑いの輪に加わった。壬生屯所に響く朗らかな声は、これから始まる激動の時代を前にした、最後の、そして最も美しい鎮魂歌のように、俺の耳には聞こえていた。
沖田総司の病状が安定し、近藤と土方の安堵する姿には胸が熱くなりました。
しかし、近代化の波は止まることなく、屯所には銃声が響き渡ります。
剣に生きてきた沖田にとって、それは時代の変化を告げる残酷な音色かもしれません。




