第105話 運命の出会い
小栗忠順との知的な死闘を終えた新八は、束の間の休息を求めて玄武館を訪れます。
そこで待っていたのは、千葉周作、千葉重太郎との温かい再会でした。
小栗忠順という、徳川幕府最強の頭脳との知的な死闘を終えた翌日。俺は、佐那との約束を果たすため、神田於玉ヶ池にある玄武館を訪れていた。
「おお、永倉君! よく来てくれた!」
俺の姿を見るなり、道場の奥から現れたのは、佐那の伯父であり、玄武館の主である千葉周作だった。還暦を過ぎているはずだが、その身体は少しも衰えを感じさせない。ぎょろりとした大きな目、日に焼けた頑健な体躯は、まさに生涯を剣に捧げた武芸者のそれだ。
「ご無沙汰しております、周作先生」
「堅苦しい挨拶は抜きだ。さ、上がれ上がれ。佐那から話は聞いている。江戸にいる間は、ここを自分の家だと思って、ゆっくりしていくといい」
周作先生の豪快な笑い声が、道場に響き渡る。その懐の深さは、昔と少しも変わっていない。
「伯父上、あまり永倉様を困らせてはいけません」
呆れたような声を出しながら、佐那が奥からお茶を運んできた。その手には、俺の好物だった団子が添えられている。そんな些細な心遣いが、俺の心を温かくする。
「永倉様、昨日はよく眠れましたか?」
「ええ、おかげさまで。久しぶりに、ぐっすりと」
それは、嘘偽りのない本心だった。佐那という心の拠り所を得たことで、俺の心は、久しぶりに深い安らぎを得ていた。
「永倉、息災であったか」
低い声と共に、道場の奥からもう一人の男が現れた。佐那の兄であり、玄武館の師範代を務める千葉重太郎だ。俺の一回り上の壮年のはずだが、その落ち着いた佇まいは、達観した茶人であるかのような錯覚を覚えさせる。
「重太郎さん。しばらくです」
「うむ。京での活躍、聞き及んでいる。新選組の名は、江戸にまで轟いているぞ」
重太郎さんは、そう言うと、俺の隣にどかりと腰を下ろした。その目には、昔と変わらない、静かな闘志が宿っている。
周作先生や佐那、重太郎さんと昔話に花を咲かせていると、道場の入り口がにわかに騒がしくなった。
「たのもーっ! たのもーっ!」
凛とした、それでいて、どこか若い娘のような声が響き渡る。道場破りだ。このご時世、腕に覚えのある浪人が、名を上げるために有名な道場の門を叩くことは珍しくない。
「おや、また来たか。近頃、物騒でいけねえや」
周作先生がやれやれといった表情で立ち上がろうとするのを、重太郎さんが制した。
「伯父御は休んでいてください。ここは、俺が出ます」
「いや、待て、重太郎さん」
俺は、立ち上がりながら言った。
「先生、少し、身体がなまっていたところですので。俺にお任せいただけませんか」
「ほう。そいつは面白い。だが、永倉、相手は一人ではないかもしれん。用心するんだぞ」
「心得ております」
俺は立ち上がり、道場の土間へと降り立った。入り口には、一人の剣士が立っている。歳は、俺と同じくらいか、あるいは少し下か。男物の着物を着こなし、髪を高く結い上げている。その顔立ちは、驚くほどに整っていた。涼やかな目元、通った鼻筋、引き結ばれた薄い唇。だが、その中性的な美貌とは裏腹に、全身から発せられる気は、そこらの軟弱な男など足元にも及ばないほどに、鋭く、そして荒々しい。
「道場破りとは、感心しないな。名乗りもせずに、人の家の敷居をまたぐとは」
俺が静かに言うと、その剣士は、はっとしたように俺を見つめた。その瞳に、一瞬、戸惑いの色が浮かぶ。
「……失礼した。拙者は、新徴組に所属する、中沢琴と申す。こちらの道場主、千葉周作殿に、一手ご指南願いたく、参上した」
中沢琴。その名前に、俺は聞き覚えがあった。新徴組の中でも、特に腕が立つと噂の剣士。確か、男ではなく、女のはずだ。目の前の剣士を改めて観察する。確かに、喉仏はなく、骨格も男にしては華奢だ。だが、それらの些細な事実を吹き飛ばすほどに、彼女の纏う覇気は、凄まじかった。
「あいにくだが、周作先生はご隠居の身だ。お相手は、俺が務めよう」
「……貴殿は?」
「新選組、永倉新八」
俺が名乗ると、琴の目が、カッと見開かれた。
「新選組……! あの、京で名を馳せた……!」
その瞳に、敵意と、そして、それ以上に強い好奇心の色が宿る。
「面白い。新選組の剣が、どれほどのものか。この中沢琴、見定めさせてもらう!」
言うが早いか、琴は道場の隅に立てかけてあった稽古用の長巻――薙刀の竹刀を手に取った。その石突を床に突き、刃の方を八双に構える。その切っ先は、微動だにしない。相当な使い手だ。
俺もまた、竹刀を手に取り、無造作に構える。
「永倉様……」
佐那の心配そうな声が聞こえるが、俺は意識を目の前の敵に集中させた。
「参る!」
鋭い呼気と共に、琴が動いた。長いリーチを生かし、俺の間合いの外から、薙刀の竹刀が横薙ぎに襲いかかってくる。風を切る音が、ひときわ大きく響く。速く、そして重い一撃だ。だが、俺はそれを大きく後ろに跳んでかわす。
「なっ……!?」
俺が間合いを大きく外したことに、琴は驚愕に目を見開く。彼女の薙刀は、鋭く、重い。だが、それは、あくまでも「型」に則った武術だ。俺の合理的な剣術の前では、その動きは全て予測可能だった。
俺は、琴が繰り出す突きや薙ぎ払いを、ひらりひらりとかわし続ける。薙刀の間合いの内側に入ろうとすれば、石突で牽制され、距離を取れば、鋭い切っ先が飛んでくる。まるで、ハリネズミを相手にしているようだ。だが、俺は焦らない。
焦りからか、琴の薙ぎが、わずかに大きくなる。その一瞬の隙を、俺は見逃さない。
琴が大きく踏み込み、胴をがら空きにして渾身の横薙ぎを放ってきたその瞬間。俺は、その薙刀の下を潜り抜けるように、一気に懐へ飛び込んだ。力と力の衝突ではない。相手の攻撃の起こり、その力の奔流から、我が身を逸らす。
がら空きになった琴の胴に、俺は寸分の狂いもなく、竹刀の切っ先を突きつけた。
「……そこまで」
静寂が、道場を支配する。
「……ま、参った……」
琴は、がっくりと膝をつき、薙刀の竹刀を取り落とした。その顔は、信じられないといった表情で、蒼白になっている。
「……なぜだ。なぜ、私の薙刀が、全く通じない……。貴様の剣は、一体……」
「あんたの薙刀は、強い。だが、大振りになりすぎだ。もっと、懐に入られた時のことを考えろ。武器の長さに、頼りすぎている」
俺は、琴に手を差し伸べた。彼女は、しばらくの間、悔しそうに俺の手を睨みつけていたが、やがて、観念したようにその手を取った。
その時、俺は、彼女の瞳の奥に、ある種の純粋さを見出した。それは、ただひたすらに、強くなりたいと願う、剣士の瞳。その真っ直ぐな気性と、剣への情熱は、どこか、京で病と闘う沖田の姿を彷彿とさせた。
「……もう一度、手合わせを願いたい。今度は、真剣で」
立ち上がった琴は、俺の目を真っ直ぐに見つめて言った。その瞳には、もはや敵意はなく、ただ、純粋な探究心だけが燃え盛っていた。
「よかろう。だが、今日はもう遅い。日を改めて、改めて仕合おう」
「……約束だ。必ず、だぞ」
琴は、それだけ言うと、一礼して、風のように去っていった。
「いやはや、大したものだな、永倉君」
周作先生が、興奮した様子で俺に歩み寄ってきた。
「あの中沢琴は、江戸でも指折りの使い手だ。それを、ああも容易くあしらうとは。君の剣は、いつの間に、そんな高みへと至ったのだ」
「……京で、少しばかり、荒事に揉まれましたので」
俺は、苦笑して答えるしかなかった。俺の剣は、もはや、この時代の剣術の理を超えた場所にある。それを、どう説明すればいいのか、わからなかった。
「永倉。見事な腕だ。俺も、手合わせ願いたいものだ」
重太郎さんが、静かだが、熱の籠った目で俺を見つめていた。
「ええ、ぜひ。重太郎さんとも、また剣を交えたいです」
俺は、笑顔で答えた。
「永倉様……」
佐那が、心配そうな顔で俺の顔を覗き込んでいる。
「お怪我は、ございませんか?」
「大丈夫だ。掠り傷一つ、負っていない」
「……そう、ですか。良かった……」
心底、安堵したような表情を浮かべる佐那。その姿に、俺は、胸の奥が温かくなるのを感じた。
中沢琴との出会い。それは、俺にとって、予期せぬ出来事だった。だが、この出会いが、やがて、俺自身の運命をも大きく左右することになる。
彼女の真っ直ぐな瞳は、俺に、忘れかけていた何かを思い出させてくれたような気がした。それは、ただひたすらに、剣の道を追い求めていた、かつての自分自身の姿。
そして、その姿は、京で病床に伏す、友の姿にも重なって見えた。
(沖田……。俺は、必ず、お前を救ってみせる。そして、いつかまた、お前と、こんな風に、何のしがらみもなく、剣を交えたい)
江戸の空を見上げながら、俺は、心の中で、固く誓うのだった。
中沢琴の鋭い薙刀を、新八は合理的な動きで制しました。
敗北に呆然とする琴。
しかし、その瞳には悔しさだけでなく、未知の強さへの憧れが宿ります。
この出会いが、新八の、そして新選組の運命にどのような影響を与えるのでしょうか?




