第104話:二人の天才と心の拠り所
勝海舟の紹介で、新八はついに幕府財政の要、小栗忠順と対峙します。
冷徹な合理主義者である小栗に対し、新八は未来の経済知識を武器に挑みます。
翌日、俺は再び勝海舟の屋敷を訪れていた。日の本の未来を左右するであろう、もう一人の男に会うために。
「よぉ、永倉の先生。ちいとばかし待たせたな」
べらんめえ調で現れた勝の後ろから、一人の男が姿を現した。歳は四十前後。痩身だが、その立ち姿には一分の隙もない。剃り上げられた月代が印象的な、理知的で冷徹そうな顔つき。切れ長の双眸が、まるで値踏みでもするかのように、俺の頭のてっぺんから爪先までを훑(な)め尽くす。
その視線に、俺は既視感を覚えた。そうだ、これは、俺が霞が関で幾度となく対峙してきた、百戦錬磨の財務官僚たちの目に似ている。数字と事実だけを信じ、感情や情実といった不確定要素を徹底的に排除する、鋼のような合理主義者の目だ。
「このお方が、勘定奉行の小栗上野介忠順様だ」
勝の紹介に、俺は深く頭を下げた。
「新選組の永倉新八と申します。本日はお目にかかる機会をいただき、望外の栄誉に存じます」
「……小栗だ」
小栗忠順は、短くそう応えただけだった。その声は、彼の容姿と同じく、一切の温度を感じさせない。俺と視線を合わせようともせず、まるで道端の石ころでも見るかのような無関心さだ。
「まあ、そう固くならずに。こいつが、昨日俺がお話した、ちいとばかし面白い男でしてね。永倉先生、上野介様にも、昨日の景気のいいお話を聞かせてやっておくんなせえ」
勝が人の好さそうな笑みで場を取りなすが、小栗の纏う氷のような空気は変わらない。俺は覚悟を決め、口を開いた。
「――日の本は、今、西洋列強による植民地化の危機に瀕しています。それを回避し、独立を維持するためには、強力な海軍の創設が急務です。そして、その海軍を支えるための官営製鉄所、造船所の建設。さらには、兵士を育成するための近代的教育機関の設立。これら全てを成し遂げるためには、現在の幕府の財政構造を根本から変革する必要があります」
俺は、昨日勝に語った未来の構想を、より具体的に、数字を交えて語り始めた。富国強兵の理念、そのための産業育成、そして、それを実現するための国家予算の概念。
「……夢物語だな」
俺の話を遮り、小栗は冷ややかに言い放った。
「一介の剣客が、どこで聞きかじったか知らんが、お伽噺も大概にしろ。製鉄所? 造船所? そのようなものを作るのに、どれほどの金がかかると思っている。今の幕府に、そのような財源がどこにある」
「財源は、作り出すのです」
「ほう。どうやって」
「税制改革、そして、通貨制度の統一です」
俺は懐から、夜を徹して書き上げた建白書を取り出した。それは、未来の知識――経済官僚としての経験の全てを注ぎ込んだ、この国の財政を魔改造するための設計図だった。
「現在の米本位制では、豊作・凶作によって税収が安定しません。まずは、全国の検地をやり直し、土地の価値そのものに課税する『地租改正』を行うべきです。これにより、天候に左右されない安定した税収が見込めます。さらに、各藩が独自に発行している藩札を廃止し、幕府が発行する統一通貨に切り替える。これにより、国内の経済活動を活性化させると同時に、通貨発行権を幕府が完全に掌握するのです」
俺は、淀みなく続けた。複式簿記の導入による国家予算の透明化。国債の発行による資金調達。中央銀行の設立による金融政策のコントロール。それらは、この時代にはまだ存在しない、百年先の未来では当たり前となっている国家運営の常識だった。
「馬鹿馬鹿しい。机上の空論だ」
小栗は、俺の建白書に視線を落とすこともなく、吐き捨てた。
「地租改正だと? 全国の土地を測り直すのに、何年かかる。そもそも、土地の価値なぞ、誰がどうやって決めるのだ。藩札の廃止もそうだ。各藩が黙ってそれに従うとでも? 夢想も大概にしろ」
「ですから、まずは試金石として、天領(幕府直轄地)から始めるのです。そこで成功例を作り、その有効性を諸藩に示す。時間はかかります。ですが、今始めなければ、手遅れになります」
「……」
俺の言葉に、小栗の眉がわずかに動いた。勝は、黙って俺たちのやり取りを面白そうに見ている。
「小栗様。あなたは、今の幕府の財政が、もはや破綻寸前であることを誰よりもご存知のはずだ。異国との交易が始まれば、金銀の交換比率の違いから、この国の富は一方的に海外へ流出する。そうなれば、幕府の権威は失墜し、国内はさらなる混乱に陥るでしょう。それを防ぐための、具体的な策が、この建白書には書かれています。どうか、一度、目を通していただけないでしょうか」
俺は、畳みかけるように言った。これは、ただの議論ではない。知力の限りを尽くした、真剣勝負だ。
小栗は、しばらくの間、苦々しい表情で俺を睨みつけていた。だが、やがて、諦めたようにため息をつくと、俺が差し出した建白書をひったくるように受け取った。
パラパラと、無造作に紙をめくる。その目が、ある一点で、ぴたりと止まった。
「……この数字は、なんだ」
小栗が指さしたのは、俺が算出した、フランスとの生糸貿易における価格差を利用した利益のシミュレーションだった。
「異国との交易における、我が国の潜在的な利益です。現在の不平等な交換比率を是正し、幕府が貿易を管理することで、これだけの利益を生み出すことが可能です。その利益を、産業育成の初期投資に充てるのです」
「……馬鹿な。こんな利益が出るはずが……いや、しかし、この計算は……」
小栗の目が、初めて俺の書いた文字を「情報」として捉え始めた。その顔から、侮蔑の色が消えていく。代わりに現れたのは、驚愕と、そして、己の知性を超えた存在を前にした、純粋な知的好奇心。
彼は、建白書の冒頭に戻り、今度は一字一句を食い入るように読み始めた。その額には、じわりと汗が滲んでいる。
勝が、俺の肩をぽんと叩いた。
「ま、そういうこった。上野介様。こいつはただの剣客じゃねえ。未来の勘定奉行様かもしれねえぜ」
その言葉に、小栗は顔を上げない。彼の意識は、完全に俺が作り上げた未来の設計図に没入していた。
「……永倉、と言ったか」
どれくらいの時間が経っただろうか。建白書から顔を上げた小栗は、初めて俺の名前を呼んだ。その声には、もはや冷たさはなかった。
「この建白書、今宵、じっくりと読ませてもらう。明日、もう一度、ここへ来い。話の続きを聞かせろ」
それは、事実上の、敗北宣言だった。そして同時に、徳川幕府最強の頭脳が、俺という存在を「味方」として認めた瞬間でもあった。
小栗邸を辞した俺は、重い疲労感に包まれていた。知的な死闘は、斬り合いとはまた違う種類の消耗を精神に強いる。頭が、沸騰しそうだ。
(だが、これで道が拓ける……)
勝海舟という推進力と、小栗忠順という実行力。この二つの歯車が噛み合えば、俺の構想は、もはや夢物語ではなくなる。徳川幕府を近代国家へと魔改造する、巨大なプロジェクトが、今、まさに始動しようとしていた。
その高揚感とは裏腹に、俺の心には、深い孤独の影が落ちていた。
未来の知識を使い、歴史に介入する。それは、神の視点に立つにも等しい、傲慢な行為だ。俺は、本来死ぬはずだった沖田を救おうとし、本来滅びるはずだった幕府を延命させようとしている。その結果、どんな未来が待っているのか、俺自身にもわからない。
この重圧、この孤独を、誰にも打ち明けることはできない。近藤さんや土方さんには、心配をかけたくない。彼らは、俺が示す道を信じ、ただ真っ直ぐに進んでくれている。その信頼を、俺は裏切れない。
気づけば、俺の足は、神田於玉ヶ池へと向かっていた。昨日、運命的な再会を果たした、彼女のいる場所へ。
玄武館の門前で、どうするべきか逡巡していると、中から一人の女性が出てきた。
「……永倉様?」
稽古着とは違う、落ち着いた色合いの着物姿の千葉佐那だった。その姿は、昨日の気迫に満ちた剣士の顔とは違い、どこか柔らかい印象を与える。
「佐那さん……。昨日は、その、突然失礼しました」
「いいえ。……お会いできて、本当に、嬉しゅうございました」
はにかむように微笑む彼女に、俺のささくれだった心が、少しだけ癒されるのを感じた。
「もし、お時間がおありでしたら……少し、お話でもしませんか」
俺の誘いに、佐那はこくりと頷いた。
近くの茶屋に入り、向かい合って座る。何を話せばいいのか、言葉が見つからない。数年の空白は、思ったよりも重い。
「江戸には、お仕事で?」
沈黙を破ったのは、佐那の方だった。
「……ええ、まあ。少し、野暮用で」
「京でのご活躍は、江戸にも聞こえております。池田屋でのこと、大変だったと……」
彼女の瞳に、心配の色が浮かぶ。その純粋な気遣いが、俺の心の壁を、いともたやすく溶かしていく。
「大したことでは、ありません。俺は、俺のやるべきことをやったまでです」
「……永倉様は、いつもそうでございますね」
「え?」
「昔から、そうでした。ご自分のことよりも、周りのことばかり。正しいと信じたことのために、どこまでも真っ直ぐに進んでしまわれる。そのお姿は、眩しくもあり、ですが……時折、とても危うく見えます」
佐那の言葉が、俺の胸の奥深くに突き刺さる。そうだ、俺は、いつだってそうだ。正しいと信じる未来のために、周りを顧みず、一人で突っ走ってしまう。その結果、どれだけのものを失い、どれだけの人を傷つけてきたことか。
「俺は……」
思わず、言葉が漏れた。
「俺は、本当に正しいことをしているのか、時々、わからなくなるんです」
言ってしまってから、はっとした。こんな弱音、誰にも吐いたことなどなかった。だが、目の前の彼女の、全てを見透かすような、それでいて全てを包み込むような優しい眼差しが、俺の心の堰を切ってしまった。
「俺がやっていることは、多くの人の運命を変えてしまうかもしれない。それが、本当に良いことなのか……。俺は、ただ、仲間たちに死んでほしくない。それだけなのに。そのためには、もっと大きなものを動かさなければならない。でも、そのやり方が、本当に正しいのか……。誰にも相談できず、たった一人で……」
そこまで言って、俺は口をつぐんだ。何を言っているんだ、俺は。彼女を困らせるだけではないか。
だが、佐那は、困ったような顔など微塵も見せなかった。彼女は、ただ静かに俺の話を聞き、そして、ふわりと微笑んだ。
「難しいことは、私にはわかりません。永倉様が、どれほど大きなものを背負っておられるのかも、想像することしかできません」
彼女は、そっと茶碗を置き、居住まいを正した。
「ですが、一つだけ、わかることがあります。あなたは、昔から、少しも変わっていない。誰よりも優しくて、誰よりも不器用で、そして、誰よりも強い人だということです」
佐那は、真っ直ぐに俺の目を見て言った。
「ですから、どうか、一人で抱え込まないでください。私には、永倉様のお力になることはできないかもしれません。ですが、お話を聞くことくらいはできます。苦しい時は、いつでもここへいらしてください。私は、いつでも、あなたの味方です」
その言葉は、どんな慰めよりも、どんな激励よりも、俺の心に深く染み渡った。
そうだ。俺は、一人じゃなかった。この江戸に、俺の帰る場所ができた。俺の弱さを受け止めてくれる、心の拠り所が。
込み上げてくる熱い感情を、俺は必死にこらえた。
「……ありがとうございます、佐那さん」
やっとのことで絞り出した声は、震えていたかもしれない。
「そうだ、永倉様。よろしければ、今度、父の道場に顔を出されませんか。父も、あなたのことを気にかけておりました。昔の仲間たちも、きっと喜びます」
佐那の誘いに、俺は力強く頷いた。
「ええ、ぜひ。必ず、伺います」
その約束が、新たな出会いと、新たな戦いの始まりを告げるものになることを、この時の俺はまだ知らない。ただ、今は、この温かい心の繋がりだけを、大切にしたいと思った。
江戸の空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
当初は冷淡だった小栗忠順の態度が、新八の建白書を読むにつれて驚愕と興奮へと変わっていきます。
果たして「幕末の天才」小栗の心を動かすことができるのか?




