第103話:江戸の再会
京の喧騒を離れ、新八は江戸の地を踏みます。
帝から託された紹介状を手に、彼が訪れたのは幕府軍艦奉行・勝海舟の屋敷でした。
新八は勝に日本の危機と海軍の重要性を説きます。
国を動かす「知」の戦いが、幕を開けます。
京の喧騒が嘘のように遠ざかり、眼前に広がるのは、どこまでも続く武家屋敷の黒い甍の波だった。日の本の政治の中心、江戸。俺は、数年ぶりにその土を踏んでいた。
沖田総司を八瀬の療養所に移し、松本良順先生と土方歳三に後事を託してから、瞬く間に江戸への旅路は終わった。京での日々は、血と硝煙の匂いが常に付きまとう、張り詰めたものだった。だが、ここ江戸の空気は、どこか穏やかで、それでいて巨大な活気が満ちている。行き交う人々の顔にも、京の住人が浮かべるような切迫した色はない。
(これが、幕府のお膝元か……)
だが、この平和が、砂上の楼閣であることを俺は知っている。西洋列強の影が刻一刻と迫り、国内では尊王攘夷の熱が沸騰している。その奔流の中心にいる孝明天皇から、俺は密命を託された。
『其方が思う、これからの日の本の在るべき姿を、朕に聞かせてはくれぬか』
そして、帝は俺に一枚の紹介状を授けられた。宛名は、幕府軍艦奉行、勝麟太郎――後の勝海舟。帝の家庭教師として近代国家の在り方を説く俺の言葉に深く感銘を受けた帝が、幕府内の改革派と俺を繋ぐために、自ら動いてくれたのだ。
懐に仕舞った紹介状の重みを確かめ、俺は目的の屋敷へと足を向けた。
「こいつはまた、とんでもねえお方がお見えになったもんだな」
赤坂・氷川神社の近くに居を構える勝海舟の屋敷。質素だが、隅々まで手入れの行き届いたその一室で、俺は幕府軍艦奉行その人と対面していた。
勝は、紹介状を片手に、値踏みするように俺をじろじろと見ている。三十代後半といったところか。日に焼けた精悍な顔つきに、鋭い眼光。だが、その口調は江戸っ子特有のべらんめえ調で、どこか飄々として掴みどころがない。
「新選組の永倉新八、ねえ。京で威勢よくやってるって話は、こっちにも届いてるぜ。だが、あんたみたいな剣客が、なんで帝のお墨付きなんぞを持って、俺のところにやって来たんだい?」
訝しむのも無理はない。一介の浪士隊長が、天皇の紹介状を携えて幕府の重臣を訪ねるなど、前代未聞だろう。
「まずは、お目にかかれて光栄です、勝先生。俺がここに来た理由は、ただ一つ。この日の本の未来のため、先生のお知恵を拝借したく、参上いたしました」
俺は居住まいを正し、単刀直入に切り出した。
「ほう、日の本の未来、ねえ。そいつは大きく出たもんだ。で、あんたは、この国がどうなるべきだとお考えで?」
試すような視線。俺は臆することなく、真っ直ぐにその目を見返した。
「単刀直入に申し上げます。このままでは、日の本は、遠からず西洋列強のいずれかに飲み込まれるでしょう。清国がアヘン戦争で英国に敗れたように」
「……アヘンの話は知ってる。だが、それは海の向こうの話だ」
「いいえ」俺は、はっきりと首を横に振った。「黒船が来た時点で、もはや対岸の火事ではあり得ません。彼らは、圧倒的な軍事力と、それを支える工業力、そして経済力を持っています。その力の源泉は、海を制する力――すなわち、強力な海軍です」
俺は、未来の知識を総動員し、語り始めた。蒸気機関を搭載した軍艦が、いかに帆船を圧倒するか。沿岸を封鎖されれば、経済がいかに麻痺するか。そして、海軍力の維持には、造船所や製鉄所といった重工業が不可欠であり、それこそが国力そのものであること。
俺の話が進むにつれて、勝の表情から飄々とした色が消え、徐々に険しさを帯びていく。彼の目は、俺の言葉の一言一句を聞き漏らすまいと、真剣そのものだった。
「……おめえさん、一体何者だい?」
一通り話し終えた俺に、勝は絞り出すように言った。その声には、隠しきれない驚愕と興奮が入り混じっていた。
「俺が知る限り、そんな話、幕府の誰も、いや、この日の本の誰も考えちゃいねえ。海軍の重要性は俺も訴えちゃいるが、それは黒船を打ち払うための、いわば『飛び道具』としての発想だ。だが、おめえさんの話は違う。国づくりの根幹に海軍を据えるって話だ。大きさが、違いすぎる……」
「俺は、ただの剣客です。ですが、幸運にも、世界の情勢を学ぶ機会に恵まれました。そして、憂いているのです。この国の未来を」
「……」
勝は腕を組み、深く沈黙した。部屋に、重い沈黙が流れる。やがて、彼は顔を上げ、ニヤリと笑った。その顔には、先ほどまでの険しさはなく、面白い玩具を見つけた子供のような好奇心に満ちていた。
「面白え!実に面白え!永倉とやら、気に入ったぜ。おめえさんの話、もっとじっくり聞かせてもらおうじゃねえか。そうだ、おめえさんに会わせたい奴がいる。そいつも、ちいとばかり頭が固えが、おめえさんの話を聞けば、ぶったまげるに違いねえ」
その男が、後の俺の盟友、小栗忠順であることを、この時の俺はまだ知らなかった。
勝との面会を終えた頃には、江戸の空は茜色に染まっていた。有益な会談だった。勝は俺の構想に強い興味を示し、明日、勘定奉行の小栗忠順に引き合わせることを約束してくれた。
(まずは、第一歩か……)
京での戦いが、目の前の敵を斬り伏せる「武」の戦いだとすれば、ここ江戸での戦いは、人の心を動かし、国を動かす「知」の戦いだ。俺の本来の土俵。だが、その重圧は、京の死線とはまた違う種類の息苦しさを伴う。
宿に戻る前に、少しだけ夜風に当たりたくなった。情報収集も兼ねて、夜の江戸の町を歩く。活気はあるが、どこか殺伐とした京とは違い、人々の往来には穏やかな日常が流れている。
ふと、懐かしい場所の名が目に留まった。
「玄武館……」
神田於玉ヶ池。かつて俺が剣を学び、汗を流した千葉周作の道場だ。試衛館の天然理心流とは流儀こそ違えど、剣の道を志す者たちの熱気は変わらない。何かに引き寄せられるように、俺は道場の門をくぐった。
夜だというのに、道場の中は凄まじい熱気に満ちていた。数十人の門弟たちが、竹刀を打ち合う音が、地響きのように腹に響く。その中心で、一際、目を引く試合が行われていた。
片方は、筋骨隆々とした男。大上段から、嵐のような打ち込みを繰り出す。対するもう一方は、男よりも一回りも二回りも小柄な影。だが、その影は、柳のように猛攻を受け流し、閃光のような鋭さで的確な一撃を返していく。
その剣捌きに見覚えがあった。いや、忘れるはずがない。しなやかで、一切の無駄がなく、それでいて鋼のような強さを持つ剣。
(まさか……)
試合が決したのは、一瞬だった。男が渾身の力で振り下ろした竹刀を、小柄な影は紙一重で捌くと、流れるような動きで相手の胴に突きを叩き込んだ。
「そこまで!」
審判役の声が響き、道場に静寂が戻る。面を外したその人物の顔を見て、俺は息を呑んだ。
長い黒髪を一つに束ね、汗に濡れた白い肌が、道場の灯りに照らされて艶めいている。数年前の少女の面影を残しながらも、その瞳には、幾多の修練を乗り越えてきた者だけが持つ、凛とした光が宿っていた。
「佐那さん……」
思わず、声が漏れた。その声に、彼女がはっと顔を上げる。大きく見開かれた瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。
「永倉……様?」
千葉佐那。
玄武館の鬼才・千葉周作の娘にして、俺がかつて、胸に秘めた淡い想いを寄せた女性。数年ぶりに再会した彼女は、俺の記憶の中にいた可憐な少女ではなく、一本の研ぎ澄まされた刀のような、美しく、そして気高い女剣士へと成長していた。
京での死闘。帝からの密命。勝海舟との出会い。目まぐるしく回転していた俺の頭の中が、彼女の姿を見た瞬間、真っ白になった。ただ、呆然と、その場に立ち尽くす。
佐那が、ゆっくりとこちらに歩み寄ってくる。その足取りに、戸惑いと、そして確かな喜びの色が滲んでいた。
「本当に、永倉様なのですか……?夢では、ありませぬか?」
「……ご無沙汰しています、佐那さん。見事な、腕前でした」
やっとのことで絞り出した言葉は、ひどく掠れていた。懐かしさ、驚き、そして、胸の奥から込み上げてくる、名状しがたい熱い感情。
江戸での戦いが、今、始まろうとしている。だが、この再会は、その戦いに疲弊していくであろう俺の心を、そっと支えてくれる一筋の光になるのかもしれない。
俺は、目の前に立つ凛とした女性の姿から、目を離すことができなかった。
かつての修行の場・玄武館。
そこで繰り広げられる熱気あふれる試合の中に、彼は懐かしい「千葉の鬼小町」こと千葉佐那の姿を見つけました。
彼女との再会がもたらすものは?




