第102話:結核療養所
八瀬の古寺を舞台に、永倉新八の孤独な戦いが始まります。
敵は、沖田総司を蝕む死の病「労咳」と、当時の常識。
未来の知識を駆使した隔離、衛生管理、そして栄養療法。
土方歳三の懐疑的な視線を背に、新八は必死に沖田の命を繋ぎ止めようとします。
京の喧騒が嘘のように遠のく、北東の山懐。八瀬の里に佇む、古びた一軒の寺が、俺たちの新たな戦場となった。戦う相手は、目に見えぬ病魔。そして、この時代にはびこる、凝り固まった常識そのものだった。
沖田総司を屯所からこの寺に移すまでの一連の騒動は、ちょっとした嵐のようだった。病人を動かすなど正気の沙汰ではないと息巻く隊士たち。俺のやり方に懐疑的な目を向ける幹部たち。その全てを、近藤さんの「新八を信じろ」という鶴の一声と、松本良順先生という当代随一の蘭方医の後ろ盾で、俺は半ば強引にねじ伏せた。
「……新八。本当に、こんなことで総司は良くなるんだろうな」
寺の一室、がらんとした部屋の真ん中で、腕を組みながら土方歳三が低い声で呟いた。その声には、苛立ちと、隠しきれない不安が滲んでいる。彼の視線の先では、数人の隊士が俺の指示に従い、慣れない手つきで部屋の隅々までを拭き清めていた。
「なりますよ、絶対に。まずは環境です。病魔が好む、淀んだ空気を追い出すんです」
俺は言いながら、水で薄めたアルコール(これも松本先生に頼んで何とか手に入れた貴重品だ)を染み込ませた布で、柱を一本一本丁寧に拭いていく。未来では当たり前の消毒という概念も、この時代では奇異な行動にしか映らない。
「チッ、潔癖症も大概にしろ。まるで女子供のままごとのようだ」
土方さんは悪態をつくが、その場を立ち去ろうとはしない。結局、彼は俺のやることなすこと全てが気に入らないと言いながらも、沖田のため、という一点でこの計画を黙認し、そして、誰よりもその行く末を案じているのだ。
俺がこの寺で始めたのは、未来で言うところの「結核療養所」の、ごく原始的な再現だった。
一、徹底した隔離と衛生管理。
沖田が療養する部屋は、母屋から少し離れた日当たりの良い一室を選んだ。看病に入る者は、俺と松本先生、そして土方さんが選んだ数名の口の堅い隊士のみに限定。部屋に入る前には必ず石鹸で手を洗い、俺が考案した「マスク」、つまり、鼻と口を覆うだけの簡単な手ぬぐいを着用させた。
二、日光浴と換気。
天気の良い日は必ず窓を開け放ち、新鮮な空気を取り込む。布団や衣類は毎日、日に当てて乾燥させる。紫外線による殺菌効果。これも、俺が持つ未来の知識の一つだ。
三、栄養管理。
屯中での雑な食事とはわけが違う。消化が良く、滋養のあるものを松本先生と相談しながら考え、専門の者に作らせた。鶏のささみや卵、野菜を煮込んだ汁物。最初は口にするのも億劫そうだった沖田も、少しずつ食べられるようになっていった。
四、安静の徹底。
当たり前だが、これが一番重要で、そして一番難しい。剣に生きる沖田にとって、ただ寝ているだけの生活は苦痛以外の何物でもないだろう。だが、今は耐えてもらうしかなかった。
「永倉さん、やりすぎだよ……。みんな、僕のために……」
治療が始まって数日後、布団の上で半身を起こした沖田が、申し訳なさそうに眉を下げた。彼の視線の先では、隊士が床板の隙間まで念入りに拭いている。
「いいんだよ、総司。これはお前のためだけじゃない。お前がここで元気になることが、新選組全体の力になるんだから。だから、今は甘えてろ」
俺はそう言って、彼の額に浮かんだ汗を拭った。まだ咳は出るし、時折、微熱も出す。だが、京の屯所で見た、死相すら浮かんでいた頃に比べれば、その顔には明らかに生気が戻っていた。
「……しかし、永倉君。君のやり方は、実に興味深い」
部屋の隅で、腕を組んで治療の様子を観察していた松本先生が、感心したように言った。
「消毒、換気、日光浴……。どれも、私が西洋の書物でかじった知識の、さらに先を行っている。特に、あの『青カビ』だ」
先生は興奮した面持ちで、小さなすり鉢を覗き込んだ。そこには、俺の拙い知識を元に、先生が試行錯誤を繰り返して培養しようとしている、青カビの塊があった。
「労咳菌そのものを殺す薬ではない、と君は言ったな。だが、この青カビの煮汁でうがいをさせ、部屋に噴霧し始めてから、沖田君の高熱が引いた。これは事実だ」
「ええ。弱った体に巣食おうとする、他の雑菌を青カビが退けてくれているんです。いわば、援軍を断って、敵を孤立させているようなものです」
俺の説明に、松本先生は深く頷いた。
「合併症の予防に効果が出ていると思われる。確かに、労咳で死ぬ者の多くは、最後には呼吸ができなくなり、高熱にうなされて逝く。あれは労咳そのものというより、肺炎の症状だ。それを防ぐだけで、これほど予後が変わるとは……」
もちろん、純粋なペニシリンの精製など望むべくもない。だが、この原始的な抗菌物質でも、二次感染を防ぐという目的においては、何もしないよりは万倍マシなはずだ。
「気休めかもしれませんが、やれることは、全部やりたいんです」
「いや、気休めなどではない。現に、沖田君の喀血は止まり、咳も明らかに減っている。これは、驚くべきことだ」
松本先生の言葉に、俺は固く拳を握りしめた。そうだ、間違っていない。俺の知識は、この時代でも通用する。運命は、変えられる。
その一方で、土方さんの態度は、依然として硬いままだった。彼は毎日、必ず一度はこの寺を訪れ、沖田の顔を見ては、すぐに屯所へと戻っていく。俺のやり方を認めたわけではない。ただ、沖田の回復という事実を前に、何も言えなくなっているだけだ。
そんな日々が二週間ほど続いたある日の午後だった。
その日も、土方さんは仏頂面で部屋に入ってきた。だが、布団の上で半身を起こし、俺と笑顔で言葉を交わしている沖田の姿を見て、彼の足がぴたりと止まった。
「……総司」
土方さんが、絞り出すような声で言った。
「顔色が、いいな」
「土方さん!ええ、おかげさまで。永倉さんが作る、妙な汁物を毎日飲まされているうちに、なんだか体が軽くなってきて」
沖田は、悪戯っぽく笑った。池田屋事件の後、失われていた彼本来の明るさが、そこにはあった。咳き込むこともなく、その声には張りがある。
土方さんは何も言わず、沖田の枕元に歩み寄ると、その痩せた肩に、そっと手を置いた。そして、俺の方を一度だけ振り返ると、ふいっと顔をそむけた。その横顔が、ほんの少しだけ、緩んだように見えたのは、俺の気のせいだっただろうか。
「……新八」
屯所へ戻るという土方さんを、俺は寺の門前まで見送った。
「礼は言わん。だが……」
土方さんは、気まずそうに視線を宙に彷徨わせた後、意を決したように口を開いた。
「……助かった」
それは、彼が最大限に絞り出した、感謝の言葉だった。
「いえ。俺は、俺がやりたいから、やっただけです」
「ふん、相変わらず可愛げのない野郎だ」
土方さんはそう吐き捨てると、背を向けた。だが、数歩歩いてから、再び振り返る。
「隊士たちの間でも、お前の評判は上々だ。沖田を救った、不思議な術を使う男、とな。まあ、俺は信じちゃいねえがな」
口ではそう言いながらも、その声には、以前のような刺々しさはない。沖田の回復という、誰にも否定できない事実が、頑なだった彼の心を、そして隊士たちの心を、ゆっくりと溶かし始めていた。安堵と、そして俺という異分子への、新たな信頼。それが、新選組という組織の中に、確かに芽生え始めていた。
「土方さん」
俺は、立ち去ろうとする彼の背中に、声をかけた。
「総司のことも、これで少しは落ち着きました。前に近藤さんにお許しをいただいたとおり、俺は、江戸へ行こうと思います」
「……そうか…… だが、何の為に行くのかは教えちゃくれねえのか?」
「かねてからの計画です。幕府の中枢に、俺たちの考えを直接伝える人間が必要だ。それに、会っておきたい男がいるんです」
俺の懐には、孝明天皇から賜った、直筆の紹介状が収められている。これがあれば、幕府のどんな要人とも会えるはずだ。目指すは、幕府軍艦奉行、勝海舟。あの男の知識と洞察力は、俺が目指す「徳川幕府の近代化」に、必要不可欠なピースだった。
俺の言葉の真意を測りかねるように、土方さんはじっと俺の目を見つめた。
「……好きにしろ。だが、必ず戻ってこい。お前がいなければ、総司の世話をする人間がいないからな」
それは、土方さんなりの、激励の言葉だった。
「はい。必ず」
俺は力強く頷いた。
夕暮れの光が、八瀬の山々を茜色に染めていく。沖田の命を繋ぎ止めたことで得た、確かな手応え。それを胸に、俺は次なる戦場、江戸へと向かう決意を固めた。
土方歳三の不器用な「助かった」の一言
現代知識に基づいた療養法は、沖田に劇的な回復をもたらしました。
近藤勇の信頼を背に、新八は一路江戸へ。目指すは軍艦奉行・勝海舟との会談です。




