第10話:鬼の副長と未来の参謀
旗本との一件で永倉栄吉の異質な才覚に気づいた土方歳三。
彼は栄吉を呼び出し、その正体を鋭く問いただします。
未来の知識を持つ栄吉は、核心を隠しながらも、自らが抱く強い信念を「鬼の副長」に語り始めます。
旗本とのいざこざから数日が過ぎた。
あの一件は江戸の街の喧騒にかき消され、試衛館の日常は何も変わらぬように見えた。相変わらず道場には朝から門下生たちの気合の入った声が響き、近藤さんは鷹揚にそれを見守り、沖田君は楽しげに竹刀を振るっている。
だが、俺を見るある男の視線だけは、明らかにその色を変えていた。
その日の夕稽古が終わり、皆が汗を拭い、道場を後にする頃合いだった。俺も汗まみれの稽古着を脱ぎ、井戸端で水を浴びようかと考えていた矢先、背後から低い声がかかった。
「永倉」
振り返ると、そこには腕を組み、壁に寄りかかるようにして土方歳三が立っていた。夕暮れの赤い光が、その整った横顔に深い陰影を落としている。彼の目は、獲物を見定めるかのように鋭く、俺を射抜いていた。
「少し、付き合え」
有無を言わせぬその口調に、俺は黙って頷いた。
彼が向かったのは、道場の隅にある物置小屋の裏手だった。人目につかず、二人きりで話すにはうってつけの場所だ。
俺たちがそこに立つと、しばしの沈黙が流れた。土方さんは何も言わず、ただじっと俺の顔を見ている。まるで、俺の心の奥底まで見透かそうとするかのように。
やがて、彼はゆっくりと口を開いた。
「この間の件だ」
やはり、その話か。俺は覚悟を決めた。
「てめえのやったこと、俺は評価している。力ずくで斬り伏せるのが、常に最善とは限らねえからな」
意外な言葉だった。彼ならば、あの場で斬り捨てなかったことを「甘い」と断じると思っていた。
だが、彼の言葉は続く。
「だがな、あの手際は、ただの剣客のそれじゃねえ。相手の懐に潜り込み、一番痛いところを突き、戦う前に心を折る。まるで、修羅場をくぐり抜けてきた老獪な博徒か、人の心を操ることに長けた公家のやり口だ」
彼の声は、温度を感じさせないほどに静かだった。しかし、その静けさこそが、彼の内にある強い警戒心を表していた。
「単刀直入に聞く。永倉新八、てめえは一体何者だ?」
来た。
核心を突く質問。俺の正体、俺の目的。それを、この男は疑っている。
俺の脳裏に、官僚として過ごした日々と、この幕末の世の未来を記した「詳説日本史研究」のページが、同時にフラッシュバックする。
嘘はつけない。この男に、下手な嘘は通用しない。
かといって、すべてを話すわけにもいかない。「未来から来た官僚です」などと言えば、頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。
ならば、どう答える?
俺がこの世界で成し遂げたい、たった一つの目的。それを、俺自身の言葉で伝えるしかない。
俺は、土方さんの目をまっすぐに見据え、静かに、しかしはっきりと告げた。
「俺は……ただ、皆に生きていて欲しいと願う者です」
「……何?」
土方さんの眉が、ぴくりと動いた。
俺は続けた。
「近藤先生が夢を語るのを、この間聞きました。あの人の夢は、俺の夢でもある。だが、夢を追う道は、血に塗れている。俺の知る限り、多くの仲間が、志半ばで死んでいく」
俺の声が、自分でも気づかぬうちに震えていた。それは、史実を知るがゆえの、どうしようもない罪悪感の発露だった。
「俺は、それが我慢ならない。近藤先生も、土方さんも、沖田君も、他の仲間たちも……誰一人として、犬死になんてさせたくない。できることなら、全員が畳の上で、笑って大往生する。そんな未来が見たいんです」
「……馬鹿馬鹿しい」
土方さんは、俺の言葉を鼻で笑った。
「武士が死を恐れてどうする。夢を追うなら、死ぬ覚悟なんざ、とうにできてる」
「覚悟と無駄死には違います」
俺は、彼の言葉を遮って言い切った。
「死なずに済むなら、その方がいいに決まっている。死なずに勝てるなら、それに越したことはない!一人でも多くの仲間が生き残ること、それこそが組織の力になる。俺は、そう信じています」
俺の言葉に、土方さんは再び沈黙した。彼は俺の目を覗き込み、その奥にあるものを探っているようだった。俺の目が、本気だと告げていたのだろうか。あるいは、この言葉の裏にある、何か別の意図を読み取ろうとしていたのか。
やがて、彼はふっと息を吐き、壁から背を離した。
「……なるほどな。お前のあの奇妙な立ち回りは、そこから来てんのか」
彼は、納得したような、それでいて呆れたような口調で言った。
「あの時、あの旗本の供回りに何を囁いた?」
「『ご家名に傷がつきますぞ』と」
「……!」
土方さんの目が、わずかに見開かれた。
「なるほど。主人本人ではなく、家名を重んじる供回りの忠誠心と保身を突いたわけか。確かに、それならあの状況で刃傷沙汰を起こすより、主人を連れて退くことを選ぶだろう」
彼は、まるで詰将棋の手順を確認するように、俺の行動を分析していく。
「だが、なぜそこまで確信が持てた?相手が逆上して斬りかかってくる可能性もあったはずだ」
「官僚組織の力学です」
「……かんりょう?」
聞き慣れない言葉に、土方さんが首を傾げる。
しまった、と思わず口をつぐんだが、もう遅い。
「……役人の世界の話です。巨大な組織では、個人の感情より、組織の体面や規則、そして何より『責任の所在』が物事を動かす。末端の役人ほど、自分の判断で組織に迷惑をかけることを極端に恐れる。武家社会も、ある意味では同じ巨大な組織。ならば、同じ理屈が通用するはずだと考えました」
俺は、現代知識であることをぼかしながら、自分の思考の根源を説明した。
俺の話を聞き終えた土方さんは、しばらくの間、何かを考えるように押し黙っていた。そして、やがて低い声で呟いた。
「……面白い。てめえ、実に面白い」
その言葉は、もはや俺を警戒する響きではなく、純粋な興味と、そしてある種の期待を含んでいるように聞こえた。
「近藤さんは、良くも悪くも真っ直ぐすぎる。曲がったことが大嫌いで、常に正道を往こうとする。それは美徳だが、それだけでは大きな組織は率いれん。時には、俺みてえな嫌われ役が、力ずくで連中を従わせる必要もある」
彼は、自嘲するように言った。
「だが、力だけでは人の心は動かせねえ。法度で縛り、剣で脅しても、腹の中じゃ何を考えてるか分かったもんじゃねえ。俺は、そういう小難しい駆け引きは好かねえし、得意でもねえ」
そこで、彼は再び俺の目を見た。
「てめえは、俺たちにねえもんを持ってる。剣の腕だけじゃねえ。組織を、人を、違う角度から見る目だ」
土方さんの言葉に、俺は息を飲んだ。
彼が、俺を認め始めている。俺が持つ、この時代には異質すぎる知識と経験の価値を、誰よりも早く見抜いている。
「鬼の副長」と呼ばれることになるこの男は、ただ冷徹なだけではない。組織にとって何が必要かを見極める、恐ろしく冷静な経営者の目を持っているのだ。
「永倉」
土方さんの呼びかける声に、俺は顔を上げた。
「試衛館は、今、人が増えすぎている。近藤さんを慕って集まってくるのはいいが、食わせるだけで精一杯だ。道場の月謝だけじゃ、到底追いつかねえ」
それは、俺も薄々感じていたことだった。近藤さんの人柄が、良くも悪くも人を引き寄せすぎて、組織の規模が実情に合わなくなってきている。
「俺は、入門希望者を断るか、あるいは月謝を大幅に上げるしかないと考えている。だが、それをすれば近藤さんは悲しむだろうし、門下生たちの不満も募るだろう。……てめえなら、どうする?」
それは、試されるような、そして助けを求めるような問いだった。
俺は、一瞬考える。官僚時代に培った財政再建の知識、組織改革のノウハウ。それらを、この試衛館という小さな組織に当てはめてみる。
「いくつか、やりようはあります」
俺は、即座に答えた。
「例えば、門下生を実力や熱意によって階級分けし、それぞれに合った稽古内容と月謝を設定する。あるいは、近隣の裕福な商人や大名の下屋敷に、我々の腕を『警備能力』として売り込み、用心棒の仕事を請け負うのはどうでしょう。安定した収入源になりますし、我々の実戦経験も積める」
「……警備を、売り込むだと?」
俺の突拍子もない提案に、土方さんは虚を突かれた顔をした。
だが、彼はすぐにその意味を理解し、その口元に獰猛な笑みを浮かべた。
「なるほどな……。道場の看板を、ただの剣術指南所じゃなく、もっと実利のあるもんに変えるってことか。面白い……実に面白いじゃねえか」
彼は、俺の肩を強く叩いた。その手は、驚くほど熱かった。
「永倉、これから試衛館の運営について、てめえの知恵を借りる。俺の隣で、俺にねえ知恵を出せ。それが、てめえの言う『皆が生き残る道』に繋がるかもしれねえのならな」
その瞬間、俺は確信した。
歴史の歯車が、今、俺の手によって、わずかに軋みながら動き始めたのだと。
「鬼の副長」と、未来から来た「参謀」。
水と油のように相容れないはずの二人が、一つの目的――「組織の生存」のために手を組んだ、最初の夜だった。
俺たちの前には、まだ血塗られた京の道が続いている。だが、今は不思議と、絶望だけではない、確かな手応えを感じていた。
栄吉が示した未来の組織論と具体的な財政再建策は、土方の心を強く捉えました。
剣の腕だけではない、組織を動かす参謀としての価値を認めた土方。
ここに「鬼の副長」と「未来の参謀」という、試衛館の未来を大きく左右する関係が生まれます。