表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

梅雨に閉じた傘の下で

作者: 味噌汁の具

 六月の雨が街を濡らしていた。


 講義が終わり、キャンパスを出た僕は、灰色の空を見上げた。梅雨の季節特有の、どこか物憂げな空気が漂っている。


 折りたたみ傘を開き、いつもの帰り道を歩き始める。大学三年の初夏。卒業論文のテーマを考え始めなければならない時期だった。


 歩道の向こう側に見覚えのあるシルエットが目に入る。


 同じ文学部で、たまに同じ講義を取る小野澤千夏だった。

 彼女とは会えば挨拶を交わす程度の間柄だ。


 彼女の手には傘があるのに、閉じたままだった。

 雨は次第に強くなってきている。


「小野澤さん」


 思わず声をかけていた。

 彼女はゆっくりと振り返る。茶色の髪から水滴が零れ落ちる。


「あ、田村くん」


 彼女の目が、僕を認めて少し大きくなった。


「傘、閉じたままだよ」


 僕の言葉に、彼女は手に持った水色の折りたたみ傘を見つめた。


「うん、知ってる」


 そう言って、彼女は小さく微笑んだ。


「大丈夫?」


「うん、平気」


 そう言って微笑んだ彼女の表情には、どこか遠い場所を見ているような物憂げさがあった。

 そのとき、雨足が強くなった。


 パラパラとした音が、バシャバシャという音に変わっていく。


「これは平気じゃないよ」


 僕は自分の傘を彼女の方に傾けた。

 彼女は少し驚いたような表情を見せ、そして小さく笑った。


「ありがとう」


 雨の中、二つの影が一つの傘の下に重なる。


「帰り?」

「うん、今日はこれで最後の講義だったから」


「僕も。一緒に帰ろうか」


 いつもなら言えない言葉が、なぜか自然と口から出てきた。

 晴れの日とは違う、六月の雨の日が彼をそうさせていた。


 雨音を聞きながら、二人は並んで歩き始める。

 狭い傘の下で、肩と肩が時々触れる。


 彼女から漂う、かすかな雨の香り。

 普段は教室の反対側で静かに座っている彼女との距離が、急に縮まったことに僕は少し戸惑いを感じていた。


 しばらく沈黙が続いた後、僕は思い切って聞いてみた。


「なぜ傘を差さなかったの?」


 彼女はしばらく黙っていた。

 雨粒が傘を叩く音だけが、二人の間に流れる。


「……どうしてかな? なんとなくだよ」


 彼女の小さな声は、雨音にかき消されそうになりながらも、確かに僕の耳に届いた。


「なんとなく? 傘を持っているのに、差さないなんて変だよ」


 彼女は視線を落としたまま言った。


「差そうと思ったんだけど、なんだか……今日は雨に濡れていたかった」


 その言葉には、何か言葉にできない感情が隠されているようだった。


「少しわかるかもしれない……雨の日って、どこか切ないよね」


 僕は思ったことを口にした。

 彼女の瞳が、一瞬揺れた。


「そう、切ない……けれど私は雨の日が好きなんだ」


 彼女は空を見上げた。雨粒が彼女の頬を伝う。


「どうして?」

「雨の日は、世界が少し柔らかくなるから」


 彼女の言葉に、僕は何か胸の奥が震えるのを感じた。

 いつもは自分の殻に閉じこもっているような彼女が、今は不思議と饒舌だった。


 雨が彼女の何かを解放しているようだった。


「小野澤さんって、普段あまり喋らないよね」

「うん……人と話すのが得意じゃないから」

「でも、今は喋ってるね」


 彼女は少し照れたように微笑んだ。



「雨のせいかな」



 二人は再び黙って歩き始めた。雨の中、少しだけ寄り添うように。

 駅に着くと、彼女は立ち止まった。


「私はここで」

「うん」


 別れを惜しむように、二人は言葉を交わす。


「あの、もしよければ……」

 勇気を出して、僕は言った。


「また一緒に帰らない?」


 彼女の瞳が揺れた。そして小さく頷いた。


「うん、いいよ」


 彼女の髪から零れ落ちる雨粒が、ぽつり、ぽつりと地面に落ちる音が聞こえた気がした。



******



 あれから七年の歳月が流れた。


 僕と千夏は大学卒業後、それぞれの道を歩みながらも関係を続け、二年前に結婚した。

 今では彼女の実家があった神楽坂から少し離れた、小さな一軒家を借りて暮らしている。


 窓を叩く六月の雨音で目を覚ました日曜日の朝。

 僕は初めて傘を共にした日のことを思い出していた。


 キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。


「おはよう」


 千夏が朝食を用意している。窓の外では、相変わらず雨が降り続けていた。


「今日は何をしようか」

 僕が尋ねると、千夏は窓の外を見た。


「雨だね……」

 そして彼女は、ふと立ち上がり、玄関へ向かった。


「どこに行くの?」

「ちょっとそこまで」


 彼女は傘も持たず外へと向かった。


 僕は千夏は水色の折りたたみ傘を手に取った。今でも大切に使っている。

 そして彼女の後を追いかけた。


 僕は自分の傘を開き、彼女の上に差し伸べた。


「どこへ行くの?」

 千夏は振り返り、微笑んだ。大学時代と同じ、あの笑顔。



「雨に濡れていたくなった」



「あの日の続きを探しに」


 僕には彼女の言葉の意味がわからなかった。


 二人は肩を寄せ合いながら、雨の神楽坂を歩き始めた。かつて二人で歩いた大学への道とは違う景色だけれど、同じ雨の音、同じ傘の下。


 雨は優しく、私たちの傘を叩いていた。

 千夏の手が僕の手を握る。温かい。


「ねえ、悠一」

「なに?」




「なんであの時、傘を差さなかったかわかる?」



 ──雨音だけが響く静寂の中、『相合傘』で肩を寄せ合う二人の影が一つに溶け合う。



 最初の雨の日から七年。これからも雨の日には、二人で一つの傘を開いて歩こう。


 雨は、二人を祝福するように、静かに降り続けていた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ