梅雨に閉じた傘の下で
六月の雨が街を濡らしていた。
講義が終わり、キャンパスを出た僕は、灰色の空を見上げた。梅雨の季節特有の、どこか物憂げな空気が漂っている。
折りたたみ傘を開き、いつもの帰り道を歩き始める。大学三年の初夏。卒業論文のテーマを考え始めなければならない時期だった。
歩道の向こう側に見覚えのあるシルエットが目に入る。
同じ文学部で、たまに同じ講義を取る小野澤千夏だった。
彼女とは会えば挨拶を交わす程度の間柄だ。
彼女の手には傘があるのに、閉じたままだった。
雨は次第に強くなってきている。
「小野澤さん」
思わず声をかけていた。
彼女はゆっくりと振り返る。茶色の髪から水滴が零れ落ちる。
「あ、田村くん」
彼女の目が、僕を認めて少し大きくなった。
「傘、閉じたままだよ」
僕の言葉に、彼女は手に持った水色の折りたたみ傘を見つめた。
「うん、知ってる」
そう言って、彼女は小さく微笑んだ。
「大丈夫?」
「うん、平気」
そう言って微笑んだ彼女の表情には、どこか遠い場所を見ているような物憂げさがあった。
そのとき、雨足が強くなった。
パラパラとした音が、バシャバシャという音に変わっていく。
「これは平気じゃないよ」
僕は自分の傘を彼女の方に傾けた。
彼女は少し驚いたような表情を見せ、そして小さく笑った。
「ありがとう」
雨の中、二つの影が一つの傘の下に重なる。
「帰り?」
「うん、今日はこれで最後の講義だったから」
「僕も。一緒に帰ろうか」
いつもなら言えない言葉が、なぜか自然と口から出てきた。
晴れの日とは違う、六月の雨の日が彼をそうさせていた。
雨音を聞きながら、二人は並んで歩き始める。
狭い傘の下で、肩と肩が時々触れる。
彼女から漂う、かすかな雨の香り。
普段は教室の反対側で静かに座っている彼女との距離が、急に縮まったことに僕は少し戸惑いを感じていた。
しばらく沈黙が続いた後、僕は思い切って聞いてみた。
「なぜ傘を差さなかったの?」
彼女はしばらく黙っていた。
雨粒が傘を叩く音だけが、二人の間に流れる。
「……どうしてかな? なんとなくだよ」
彼女の小さな声は、雨音にかき消されそうになりながらも、確かに僕の耳に届いた。
「なんとなく? 傘を持っているのに、差さないなんて変だよ」
彼女は視線を落としたまま言った。
「差そうと思ったんだけど、なんだか……今日は雨に濡れていたかった」
その言葉には、何か言葉にできない感情が隠されているようだった。
「少しわかるかもしれない……雨の日って、どこか切ないよね」
僕は思ったことを口にした。
彼女の瞳が、一瞬揺れた。
「そう、切ない……けれど私は雨の日が好きなんだ」
彼女は空を見上げた。雨粒が彼女の頬を伝う。
「どうして?」
「雨の日は、世界が少し柔らかくなるから」
彼女の言葉に、僕は何か胸の奥が震えるのを感じた。
いつもは自分の殻に閉じこもっているような彼女が、今は不思議と饒舌だった。
雨が彼女の何かを解放しているようだった。
「小野澤さんって、普段あまり喋らないよね」
「うん……人と話すのが得意じゃないから」
「でも、今は喋ってるね」
彼女は少し照れたように微笑んだ。
「雨のせいかな」
二人は再び黙って歩き始めた。雨の中、少しだけ寄り添うように。
駅に着くと、彼女は立ち止まった。
「私はここで」
「うん」
別れを惜しむように、二人は言葉を交わす。
「あの、もしよければ……」
勇気を出して、僕は言った。
「また一緒に帰らない?」
彼女の瞳が揺れた。そして小さく頷いた。
「うん、いいよ」
彼女の髪から零れ落ちる雨粒が、ぽつり、ぽつりと地面に落ちる音が聞こえた気がした。
******
あれから七年の歳月が流れた。
僕と千夏は大学卒業後、それぞれの道を歩みながらも関係を続け、二年前に結婚した。
今では彼女の実家があった神楽坂から少し離れた、小さな一軒家を借りて暮らしている。
窓を叩く六月の雨音で目を覚ました日曜日の朝。
僕は初めて傘を共にした日のことを思い出していた。
キッチンからコーヒーの香りが漂ってくる。
「おはよう」
千夏が朝食を用意している。窓の外では、相変わらず雨が降り続けていた。
「今日は何をしようか」
僕が尋ねると、千夏は窓の外を見た。
「雨だね……」
そして彼女は、ふと立ち上がり、玄関へ向かった。
「どこに行くの?」
「ちょっとそこまで」
彼女は傘も持たず外へと向かった。
僕は千夏は水色の折りたたみ傘を手に取った。今でも大切に使っている。
そして彼女の後を追いかけた。
僕は自分の傘を開き、彼女の上に差し伸べた。
「どこへ行くの?」
千夏は振り返り、微笑んだ。大学時代と同じ、あの笑顔。
「雨に濡れていたくなった」
「あの日の続きを探しに」
僕には彼女の言葉の意味がわからなかった。
二人は肩を寄せ合いながら、雨の神楽坂を歩き始めた。かつて二人で歩いた大学への道とは違う景色だけれど、同じ雨の音、同じ傘の下。
雨は優しく、私たちの傘を叩いていた。
千夏の手が僕の手を握る。温かい。
「ねえ、悠一」
「なに?」
「なんであの時、傘を差さなかったかわかる?」
──雨音だけが響く静寂の中、『相合傘』で肩を寄せ合う二人の影が一つに溶け合う。
最初の雨の日から七年。これからも雨の日には、二人で一つの傘を開いて歩こう。
雨は、二人を祝福するように、静かに降り続けていた。