8 幻覚
「フェルト様、ご無事でした――か?」
仲間の無事な姿に安堵したイルゼは駆け寄りかけて、はたと足を止めた。
(果たしてこのフェルト様は本物なのだろうか)
イルゼはまだ幻覚の中にいる。それを解こうとしたタイミングで現れたのだから、どうしても疑わしい目で見てしまう。
イルゼはフェルトとの付き合いはとんでもなく短いのだ。馬は合うけれど、フェルトについて知っている事はほとんどない。
バーでお酒を飲んでいた時に、たまたま隣の席になって話が弾んで仲良くなったみたいなレベルである。もっともイルゼはまだお酒を飲める歳ではないけれど。
それはともかく、そのくらい付き合いが浅いので、目の前のフェルトが本物か幻覚なのかを判断する手段がない。
(あ、一個だけありましたね)
約束と言えるほどしっかりしたものではないが、似たような物が一つある。
ちょっとあれで試してみるかと思いながら、イルゼはフェルトに手を振った。
「良かった、お二人の姿がなかったので心配しました」
「僕もです。いやー、急に壁に襲われたじゃないですか? びっくりしましたよ~」
そんな話をしながらフェルトはイルゼの目の前までやって来た。
身長の具合は同じくらいだろう。顔立ちも、髪や目の色もイルゼが知っているフェルトの色だ。
身に着けているものも――細部まで覚えていないので、はっきりとそうだとは言えないが――同じ。
ひとまず容姿に違和感はなさそうだ。
「ですねぇ。ところでフェルト様。ルグラン団長はご一緒ではないので?」
「ええ。僕、あっちで目が覚めたんですけど一人でした。まぁ団長なら頑丈ですし強いので、しばらくは大丈夫そうだとは思いますけどねぇ」
「なるほど。ちなみに精神攻撃とかには?」
「ほどほどに強いんじゃないですかね」
「ほどほどかぁ」
ふわっとした返答に「ん?」と思いつつ、イルゼはとりあえず相槌を打つ。
イルゼとフェルトは同い年だが、彼はヴァーゲ王国騎士団の副団長の息子だ。そういう関係だからか、ルグラン騎士団長とは親しそうな様子があった。
そんな彼の口から「~じゃないですかね」という言葉が出た事に、イルゼは少々違和感を感じたのだ。
ただ、この辺りはあくまで少々だ。そういう現場に同行していなければ知らなくてもおかしくはない。
ひとまず違和感だけ覚えておいて、イルゼは次の“引っかけ”を出す事にした。
「何だかちょっと大変な事態になりましたねぇ」
「そうですねぇ。まぁ、何とかなるでしょう。するしかないです」
「ですね! ここを出ないとフェルト様とのお約束も果たせませんし!」
分かりやすいように声を弾ませて、イルゼは胸の前で手を合わせる。そしてそのままにっこりと笑いかけた。
「ほら、うちの領地に来てくれるってお約束ですよ」
「――ああ、ええ。覚えていますよ、もちろん! 領地を案内してくれるんですよね!」
ああ、別人。確かに領地を案内はするつもりだが、彼が喜んでくれたのはトレントボアの討伐に誘った事だ。
目の前のフェルトはフェルトではない。それがはっきり分かったイルゼは双剣を抜いて《フェルト》の首を刎ねる。何かを斬った感触はある。しかし血は出ない。
《フェルト》はぽかんとした顔のまま、ごとりと首を地面に落し、
「……ふ、ははは、あははは!」
その首が笑い出した。
「ああ、酷いな、イルゼ様。びっくりしたじゃないですか」
頭がそう笑っている間、身体の方がそれに近付き、ひょいと両手で持ち上げる。
そして頭を首に乗せると、その二つは何事もなかったかのようにくっついて、傷口もすうと消えた。
イルゼは警戒しながら《フェルト》からゆっくり距離を取る。
「思い切りがいいな~。生身の人間だったらどうするつもりなんです?」
「ダンジョン内で、他人のフリをして近づいて来る相手なら、人間であっても容赦はしませんよ。それにあなたがフェルト様でないのは分かりましたので」
「ええ~? 僕はフェルトですよ。ちゃんと僕を見てください、イルゼ様」
《フェルト》はそう言うと、両手を軽く開きながらイルゼに近付いて来る。
にこにこと浮かべる笑顔はフェルトそっくりだ。しかし雰囲気はがらりと変わった。
何と言うか、節々から粘着質な性分が伺える。
「ねぇ、イルゼ様。そんなに離れていては分からないでしょう? 見えないでしょう? もっとこっちに近付いて来てくださいよ」
「遠慮します。私にもパーソナルスペースというものはあるので」
話しながらじりじりと《フェルト》は距離を詰めて来る。同じ分だけイルゼも下がる。
そうしていると不意に、トン、と背中に何かが当たった。反射的に目を向けるが、そこには何も見えない。雪原の空間が広がっているだけだ。
(たぶん壁)
やはりイルゼがいる場所は遺跡内だ。大きさは分からないが何れかの部屋だろう。
「どうしました? もう逃げないんですか?」
にこにこと《フェルト》は近づいて来る。
首を刎ねてもピンピンとしていたし、弱点もまだ分からないが倒すしかない。
イルゼがそう思った時、
「あ、ダメですよ」
《フェルト》が一瞬でイルゼの目の前まで跳躍した。
ぎょっとするイルゼ。横にスライドして逃げようとした時、ダン、と《フェルト》がイルゼの顔の横に手を突いた。
狭い空間に閉じ込められたイルゼを《フェルト》は笑顔で見下ろして来る。
「どいていただけます?」
「イルゼ様、好きです」
イルゼが睨むが、お構いなしに《フェルト》はそんな事を言いだした。
思わずイルゼは目を丸くした。
「……はい?」
「イルゼ様、好きなんです。僕とお付き合いをしてください」
うっとりとイルゼを見つめ、頬を赤く染めながら《フェルト》はそう告白して来る。
背筋がゾゾッとした。イルゼはフェルトの事は好意的に思っているが、目の前のフェルトもどきは別だ。まったく好意を抱いていない相手からの、こういう言動はとんでもなく気味が悪い。
思わず固まったイルゼを見て《フェルト》は何を思ったのか、殊更甘い笑みを浮かべて、
「イルゼ様、イルゼ様。どうか、僕と……この遺跡の中でずっと……一緒に……」
あろう事か顔を近づけて来る。
あ、こいつ、乙女になんて事をしようとしている。自分はファーストキスもまだなのだ。
何をしようとしているか理解したイルゼは、我慢していた何かがぷっつんと切れた。
「するかぁボケェっ!!」
そしてそう怒鳴って股間を思い切り蹴り上げた。
それは本当に反射的なものだった。普段であれば切り飛ばそうと思うところだ。
首を刎ねても生きている相手には大したダメージはない。だが、つい、自由に動く足が出てしまった。
とりあえずこのまま次の動作を――と我に返ったイルゼが考えながら《フェルト》を見る。
「あれっ」
すると、どうだろう。イルゼが蹴り上げた足が、予想外に上まで上がっている事に気が付く。
股間を越えて、何なら心臓あたりまで。足の軌道がそのまま綺麗に抉れている。
自分、結構上まで足が揚がるんだなと思いながら、イルゼはポカンと口を開けた。
何だこれはと驚いていると、その断面が青色のゼリーのようになっているのが見えた。
(あ、これ、もしかしてゼリー壁の)
そう気付いた直後、目の前の《フェルト》の身体から色が消えて、青色透明なゼリー状の物体になったかと思うと、その身体がぐしゃりと崩れ落ちた。
☆
《フェルト》の身体が崩れると、とたんに周囲の景色にも変化が訪れた。
ジジ、と景色がブレて雑音が走ったかと思ったら雪原が消え、イルゼがこれまでいた遺跡が現れる。
部屋の大きさは、雪原になる前よりは狭い。移動こそしているものの、やはり幻覚だったようだ。
「なかなかえげつない……」
ハニートラップとでも言うのだろうか。まさか自分がされる側になるとは想像もしていなかった。
「しかし何でまた私に?」
腕を組み、頭を傾げながらイルゼは足元へ目を落す。
そこには青色透明なゼリー壁の残骸が残っていた。瓶にでも詰めてインテリアにしたら綺麗かもしれない。しないけれども。
そうして考えていると控えめな靴音が聞こえて来た。魔物の足音ではないなと思いながら音の方へ顔を向けると、
「あ、イルゼ様だ」
再びフェルトが現れた。
幻覚が恐らく解けた状態でやって来たのだから、このフェルトは本物だとーーイルゼは思う。もちろん確証はないけれども。
「フェルト様、ご無事でしたか」
「ええ、何とか。いや、びっくりしましたよ。気が付いたら辺り一面砂漠なんですもん」
そんな事を言いながらフェルトは近づいて来る。
おや、とイルゼは片方の眉を上げた。
「そちらは砂漠でしたか。私の方は雪原でしたよ。それにしても、よく幻覚からお目覚めに」
「あはは。実はね、何か、すごい美人さんに迫られたんですけど」
「おや、羨ましい。でもくらっと行かなかったんですね?」
「行きませんでしたねー。美人さんから、あなたにずっと守られたいって言われたんですけど、僕は隣で魔物を斬り飛ばそうとしてくれそうな子が好きなので」
「あらま」
それはなかなか趣味が良いとイルゼは思った。
寄り掛かり過ぎず、寄り掛かられ過ぎず。そういうバランスの良い関係はイルゼも好きだ。
男女の場合はどうしても体格的な差が出来てしまうから、フェルトの言っているのは心構え・考え方の事だろう。
イルゼがくすくす笑いながら「残念でしたねぇ」と言えば、フェルトも「まったくです」と笑う。
「まぁ、前提としてどう考えても幻覚だったので、逆に冷静になって切り飛ばしました。イルゼ様の方はどうでした?」
「私もほぼほぼ一緒ですね。こちらの場合はフェ……」
フェルト様が、と言いかけてイルゼは口を噤んだ。さすがに本人を前にあなたが現れました、とは言い辛い。とても。
しかも股間を思い切り蹴り上げてしまったし……。
「……まぁ、なかなかのイケメンさんが現れましたね!」
なので、そう言い換えておいた。フェルトもイケメンなので間違いではない。
まぁフェルトとフェルトもどきでは、心情的には雲泥の差ではあるが。
「この流れだとルグラン団長も同じですかねぇ」
「まぁ団長は奥さんがいますからね。ハニートラップには引っ掛からないでしょ」
「ですよねぇ。……だけど幻覚の内容を、どうしてそれにしたんでしょうね? そもそものシチュエーションがまるでダメでしたよ」
ハニートラップを仕掛けるつもりなら、もっと雰囲気を大事にすべきだ。
あれでは役者と場面を雑に合わせた、演出家のエゴだけが押し通された舞台である。
(せめて綺麗な花畑とか、お洒落な舞踏会とか……)
告白するのに、そういうシチュエーションって大事ではないだろうかとイルゼは思うのだ。
そうだったら少しくらいは、イルゼもころっとなっていた可能性があるかもしれない。
(それにしても……)
基本的にハニートラップというのは相手から情報収集するための手段だ。
で、あれば、ローズは自分達から何かしらの情報を得ようとしていた……のかもしれないが、あいにくとイルゼは彼女が欲しがりそうな情報など思い当たらないし、そもそも持ってもいないと思う。
なのでイルゼだけは適当に食べてぽいっとしてもおかしくなかったのだ。
「目的は分かりませんけれど、とりあえずルグラン団長を探しましょうか」
「そうですね。現在地が分かりませんから、ちょっとマッピングしますか」
「ですねぇ。マッピングするとなると、本当に遺跡攻略って感じがしてきました」
「あー、分かります分かります」
そんな会話をしながらイルゼ達は、フェルトがやって来た方とは逆の通路へ向かって歩き出した。