6 乱心
通路の向こうから、白い煙と何かが焼ける匂いが漂って来る。
火の魔法だとイルゼは確信した。音こそしなかったものの、恐らくこの先にアロイスがいる。
イルゼ達はその方向へと走った。
すると三人は先ほど見たのと似たサイズの大部屋に辿り着く。
「……ッ、これは」
大部屋の中を確認してイルゼ達はぎょっと目を剥いた。
その部屋が今まで一度も見ていないゼリーのような青い透明な物体で覆われていたからだ。
そのゼリー壁の一部に穴が空いていた。煙はそこから漂って来たようだ。
「これは……スライム……?」
ダンジョンで透明な軟体系の物体、と言うとまず浮かんでくるのはスライムだ。
しかし、そうであるならあまりに大きい。スライム同士が合体して大きくなるといのはイルゼも聞いた事があるが、それなのだろうか。
そう思いながら注意深く観察していると、穴の向こうに人の姿が見えた。
黒髪にアメジスト色の瞳、歳はイルゼと同じくらい。この国の王太子であるアロイス・ヴァーゲ、その人である。
「アロイス殿下! ご無事ですか!」
彼の姿に気が付いて、真っ先に声を掛けたのはルグランだ。
するとアロイスはハッと顔を上げる。
「その声……ルグラン、か……?」
「そうです、殿下。お迎えに上がりました!」
ルグランの言葉にアロイスは一度、安堵の表情を浮かべる。
しかし次の瞬間その顔は強張った。
「……い、嫌だ。戻ったら、また彼女達に追い回されるんだろう?」
そして彼はそう続けた。
彼女達、というのはアロイスの婚約者候補の事だろう。メリル・スコットとミレイナ・クルーガーを筆頭に、イルゼ以外の婚約者候補の多くは、アロイスに積極的に自分をアピールをしている。
可愛らしさを武器にする者。さながら営業のように自分のメリットを語る者。とにかく押せ押せで迫る者。色々だ。
アロイスにはどうやらそれが相当のストレスだったようだ。その事を思い出したらしく、頭を抱えてガタガタと震え出す。
「だったら私は、ずっとこの地下で引きこもっていたい。そこから王族の仕事をする」
「陛下、さすがにそれは限度があります」
「いや、出来るはずだ。転移魔法を改良して、多くの物を運べるようにして、投影魔法であちらとこちらの様子を映し合えば……」
アロイスは意外と具体的に引きこもる方法を考えていた。
一応、仕事はそれで何とかなるかもしれないが、問題はコミュニケーションだ。
魑魅魍魎が跋扈する貴族社会で、果たしてそれで何とかなるかどうか。
……と言うのは、まぁ、イルゼが考える事ではない。そこはルグランやアロイスの周囲の人間が何とかする問題である。
王族の婚約者にならないぞと心に誓ったイルゼだ。間違っても変な事は口走らないようにしなければ。
「……殿下のお気持ちは分かりました。しかし、さすがに何の蓄えもなく、このまま地下にというわけにはまいりません。一度、地上へ戻りましょう」
「……嫌だ」
「アロイス殿下」
「嫌、ダ……ワタシは、ここ、に、ヒキコモル」
するとアロイスの言葉が急に不安定になった
イルゼとフェルトが「んん?」と同時に首を捻ってアロイスの方をまじまじと見つめる。
「……あれ?」
見ていると、何だかアロイスの身体の周りに、青色の靄のようなものが漂い始めている気がする。
イルゼは隣のフェルトの腕を指でちょいちょいとつつく。
「フェルト様。アロイス殿下の身体、何か変じゃありません?」
「変ですね。あの青色の靄、何でしょう?」
そんな話をしている内に、青色の靄のようなものはどんどん増えて濃くなって行く。
それに合わせてアロイスの様子もよりおかしくなり始めた。
何と言うか、目が据わり始めているのだ。
「ワタシ……ヒキコモル……ジャマスルヤツ……モヤス……」
とんでもなく物騒な事まで言い始めた。
アロイスの身体の周りに今度はキラキラした光の粒――魔力の反応が出始める。
あっこれはまずいと、イルゼは咄嗟に口を開いた。
「アロイス殿下! そこで炎の魔法をぶっ放すと、周りのスライムみたいなものが焼けて、蒸気が出て火傷しますよ!」
「……っ!」
するとアロイスがびくりと身体を大きく震わせた。
イルゼの声に反応したようだ。そのとたんに青色の靄がサッと霧散して、アロイスは正気に戻ったような顔になり、
「じょ、女性……」
……今度はそう顔を引きつらせて、数歩後ずさった。
ゼリー壁越しだったので、姿があまり見えていなかったせいだろう。アロイスは今初めて、自分を迎えに来た中に女性がいる事に気付いたようだ。
彼はガタガタと震え出すと、
「くっ、来るなぁぁぁぁぁぁっ!」
悲鳴を上げて、イルゼ達がいる方とは反対側のゼリー壁に風の魔法をぶつけて切り裂くと、出来た穴からそのまま走り去ってしまった。
火の魔法を使わなかったあたり、イルゼの忠告自体はちゃんと聞こえていたようだ。
「あっ! アロイス殿下、お待ちください!」
ルグランが制止の声を上げるも、アロイスの耳には届かない。
あっと言う間にその場からいなくなってしまったアロイスに、ルグランは頭を抱えた。
しまったとイルゼは口を押える。
「申し訳ありません。危ないと思ったら反射的に」
「いえ、イルゼ嬢の判断は正しいです。これがスライムだった場合、火の魔法を無差別にぶつければ部屋に蒸気が充満して、アロイス殿下が危険でした」
「アロイス様、まだ判断は出来るくらいの状態なのは良かったですね」
アロイスが走って行った方向を見ながら三人はそう話す。
とにもかくにも再び追いかけなくては。
「とりあえずこれを何とかしないとですね」
「アロイス様の魔法で切り裂けるのが分かったのはありがたい」
「ですね。それじゃあやりましょう、やりましょう」
風の魔法で切る事が出来たならば、剣もちゃんと効くという事だ。
三人はそれぞれの得物を抜くと目の前のゼリー壁の除去を始めた。
☆
ゼリー壁はその部屋の壁際をぐるりと囲む形で伸びていた。
青色透明の軟体。そんな見た目ではあるが、ここが遺跡の胃であると想定するならば、内臓の何かだろうか、なんて考えがイルゼの頭を過る。
「色が青で良かった……ついでに液体も出ないから良かった……」
しみじみとしたイルゼの呟きに、意味を理解したフェルトとルグランが「わぁ……」とゼリー壁から目を逸らす。
スライムも似たようなものではあるが、こういうのは気持ちの問題である。
と、まぁ、とりあえず。ゼリー壁はスライムらしい動作をして来ないので、魔物ではないだろう。
「それはそうと、アロイス殿下はまだまだ体力がありそうで何よりです」
「あのご様子を見る限り魔力はだいぶ消耗していそうですが、そうですね。それよりもあの青い靄は一体……」
「あれが出てから、アロイス殿下が変になりましたよね」
「そう見えました。何でしょう、精神に作用する何かなんですかねぇ」
うーん、とイルゼは腕を組んで考える。
イルゼも見た事がないし、ポミエ領で似た事例の報告もない。
ちらり、とイルゼはゼリー壁へ目を向けた。
「ルグラン団長。このゼリー壁、もしかして見た事がない奴ですか?」
「ええ、初めてですね。もっと昔の調査記録を調べれば、出てくるかもしれませんが」
「なるほど。ちょっと取って行きましょう」
そう言ってイルゼは双剣の片方を抜いて、ちょいちょいとゼリー壁を切り取ると、ハンカチに包んで腰につけたポーチに入れた。
全く躊躇う様子のなかったイルゼにルグランとフェルトが少し驚いた顔になる。
その反応はイルゼも何となく理解はできる。こういうのものは、ご令嬢はあまり触りたがらない類だろう。王都育ちの貴族の前でやれば大体ドン引かれる。
「なるほど、ありがたい」
しかしルグランから聞こえたのは、そんな楽し気な声だった。フェルトもニコッと笑っている。
あ、この二人好き。イルゼがそう思った瞬間だった。
「それでは行きましょうか」
それからフェルトがそう言った。
すると、その時だ、
「ちょっとぉー! なーにしてくれるのよー!」
なんて甲高い第三者の声が遺跡の中に響いた。
イルゼ達の顔がスッと険しくなり、それぞれが武器を抜く。
何だ、いまの声は。周囲へ鋭く視線を走らせながら三人が警戒していると、少し離れた場所に半透明な少女が現れた。
長い黒髪と金色の瞳、青薔薇のついた青色のカクテルドレスに身を包んだその少女。可愛らしい顔立ちをしており、歳はイルゼと同じか少し下くらいだろうか。
「ゴースト……?」
遺跡にはゴーストはいないはずだがゼリー壁の事もある。何が起こってもおかしくないのが、人喰いダンジョンだ。
イルゼ達が警戒していると、少女は宙に浮いたまま腰に手を当ててキッとこちらを睨んで来る。
「せっかくノーランの子孫を捕まえたのに! もうもうっ何て事してくれるのよっ!」
「……はい?」
少女はそんな事を言って急に怒り出した。
合わせてまったくの予想外の発言にイルゼ達の目が丸くなる。
「……って、あ、あら? そっちもなかなかイケメンじゃない。そうね、そうね、妥協してあげようかしらっ?」
そうしているとフェルトとルグランを見て、少女はポッと顔を赤らめた。
状況がよく呑み込めないが、少女の言葉で気になった点があったので、
「ちょっと待ってください。お二人のお顔は妥協なんてレベルではありません。オンリーワン。どちらも素晴らしいですよ」
とだけ訂正しておいた。するとルグランから残念なものを見る眼差しが向けられてしまった。フェルトは「褒められました!」なんて笑っていたが。
「あら、そうね。確かにそうね。失礼だったわ、ごめんなさい」
「お分かりいただけたら何より。……ところであなたはどちら様ですか?」
「やだ、私ったら、挨拶がまだだったのね。うっかりだったわ、ごめんなさいね?」
イルゼが尋ねると、少女は両手で口を押える。それからドレスの裾を両手それぞれで摘まんで、
「ごきげんよう。美味しそうな人間さん達。私はオオグライ。あなた達が言うところの、人喰い遺跡そのものよ」
なんて言って、にっこり笑った。