31実力テスト
「デスクの上は……綺麗ですね。今後もこのようにお願いします」
「はい」
調査員が『整頓:デスク』に○を付けた。ネージュは淡々と返事をする。余計なことは言わなくていい。聞かれたことに答えていればいい、先達たちからそう教わっていた。
「保存設備の保守点検の頻度は?」
「三月に一度です」
調査員はネージュの回答に頷くと、調査票に視線を落とす。ペンを持つ手が○を書く動作をしたのをネージュは見逃さない。
ふと目を上げた調査員と、ネージュの視線がぶつかる。
「……」
「……」
一瞬の沈黙の後。「では次」と言って調査員は静かに調査を続ける。視線はもう合わなかったが、ネージュは調査員から目を逸らさなかった。
「床に物は……あらあの箱は」
作業場の隅に寄せられている箱を見つけた調査員の目が光る。指摘すべきものを見つけたのではないかというそのやる気に満ちた瞳は、まるで狩りをする獣のようだった。
「あれはリサイクルの金属片です。清掃前なのであそこに集めています」
「工房の規定には抵触しないはずだ」と言おうかと考えたが、ネージュは口を閉ざした。調査員ならば分かっていて当然だろう。余計なことは言わなくていいという助言がネージュを引き留めたのだった。
「……」
調査員はしばし考える素振りを見せたが、やがて「分かりました」と言って頷いた。ネージュは密かに息を吐く。
ドキリ、ドキリと体内で心臓が鳴っている。ネージュは涼しい顔でその音を聞いた。
淡々と設備チェックが進む一方、レシピの確認現場は少々荒れていた。
「これも、これもレシピの更新の日付が同じ年の同じ月なんだが?」
「何がおかしい」
「古いレシピは? 取っておいてあるんだろうな」
「無い」
自信満々に答えるエグゼルに、ソードが目を剥く。無いとはどういうことだと調査票に皺を作る。
「俺が(破り)捨てた」
その一言で、いよいよソードのこめかみに青筋が入る。
「施設長だろうが。それ以前に素材部に居たんだから規約は知っているだろう。過去のレシピの保存義務を」
「保存期間は五年だろ? 過ぎてたらいいんだろ?」
「それは五年間更新されてなかったということか?」
エグゼルは「そう」と肯定し、ソードは「おい」と顔を歪める。調査票の「レシピ更新頻度」を何と評価しようかと悩んだ。知ってしまったからにはそれなりに指摘しなくてはならない。
「定期的なレシピの見直しも義務だぞ」
「使ってなかったからなあ」
しれっとしながらエグゼルはここ数年のバンドーラ支部の出荷状況を仄めかす。半年前の報告書を見たのであれば、バンドーラ支部が黒色ガラス一色だったことは知っていよう。
「見直し頻度に規定はあったっけ?」
「……はあ」
具体的な頻度の規定は「ない」と分っていながら尋ねてくるエグゼルに、ソードは呆れてため息を吐く。
「それにしたって、五年は間隔が開き過ぎる印象だ」
「はい」
「しかし黒色ガラスだけだったのに、あの納品量か? どれだけ効率が悪かったんだ」
ソードの疑問は尤もだった。当初同じことを思ったエグゼルは何とも言えない気持ちになる。
「古いレシピを使っていた頃だ。あれはレシピが悪い。置いてった奴が誰かは知らない」
「……どうせでかい口叩く本部の任期付き赴任の奴だろう」
ソードが極めて小さな声で苦々しく漏らし、エグゼルはほくそ笑んだ。
「——とにかく、もっと定期的に見直すように」
「承知しました」
恭しく頭を下げたエグゼルが憎らしい。ソードは顔をしかめて調査票の次の項目へと進む。ソードとエグゼルの応酬は続いた。
——うるさいな。
作業場にて、隣から聞こえてくる上司やバンドーラ支部の施設長の声に、調査員のコイルは眉を寄せた。こちらは今慎重を期する作業の最中。コランダムの製作がどれ程繊細で集中力を必要とするか、彼らならよく分かっているはずではないか。
コイルは外野のせいで実際に現場で働く錬金術師がしくじるのは気の毒だと思う性質だった。それも含めて実力だと言う調査官も居るが、コイルは反対である。
何故なら、調査という事自体、普段とは違う状況なのだから。必要以上の緊張を強いているのだから。こちらも配慮すべきだというのが個人的な意見だった。
そんなコイルは当然、隣からの声が作業に徹しているフラニーの邪魔になってはいないかと案じた。フラニーの様子を窺い、息を呑む。
「……」
聞いていない。そう断言できる程、フラニーは自分の作業に集中していた。もしかしたら、コイルの存在すら忘れているのかもしれない。
「——っ?」
突然、何か鋭い気配を感じ、コイルは再びデスクの方に視線を遣る。すると、ソードとやりあっている施設長の目がこちらを向いていることに気が付いた。
その時コイルは自覚した。気を取られているのは自分の方だと。
「……」
作業場に心地の良い緊張感が漂った。フラニーの丁寧な手付き、見ていて安心する落ち着きぶり。コイルは今度はそれらに見入っていることに、気が付くことはなかった。
火が熱い。空気が暑い。何も聞こえない。
フラニーは目の前の窯と一対一で向き合った。幾度も練習した。エグゼルと、ネージュと三人で。最初はネージュの方が上手かった。けれど二日前、彼は言った。
『フラニーさんの方がいい』
エグゼルはそれに直ぐ同意した。
『段々精度にムラがなくなってきてる。自分で分かるだろう?』
嬉しかった。確かに、何かを掴めた感覚があった。
『やれるな?』
『……はい!』
信頼されている、と思った。エグゼルにも、ネージュにも。それが自分の背中を支えてくれている。フラニーは余計なことを考えずに、作業のことだけに集中していればいい、と思った。他のことは、二人に任せて。
何も気にならない。傍に自分を見張っている調査官が居ようと、後ろでどんな話をしていようと。
ただ、コランダムの紫を目指して手を動かすのみ。
(次。配合は上手くできたから、結晶化)
温度を徐々に下げていく。ここでしくじると、全てが水の泡となる。
「……」
流れる汗もそのままに、フラニーは慎重に適切なタイミングを見計らって、コランダムの素が変質するよう誘導した。
「……できました」
フラニーの作業が全て終わるころには、すっかり陽は傾き、他の調査も終了していた。エグゼルの担当したレシピ関連は更新頻度を上げること、という指摘のみで終わり、ネージュは静かな攻防を繰り広げ、指摘無しという輝かしい結果を出した。
調査官含め、エグゼルとネージュはフラニーが黙々とコランダムの作成を進めていくのを見守っていた。
「お願いします」
フラニーが調査官に、黒地の小さなクッションに載せてコランダムを見せる。
その周りを一同が取り囲んだ。
「……これは」
調査員の一人が小さく漏らす。フラニーはキュッと口元を結んだ。
指定されたのは紫。出来上がったコランダムは些か青が強いように見える。
(配合は正確だったはず……表面の方に青が強く出た……?)
フラニーの表情は晴れない。けれど、これが今日の成果だ。あとは調査員がどう判断するか、委ねるしかない。
「……」
エグゼルもネージュも、そして調査員たちも。静かにコイルの言葉を待った。
コイルは「失礼します」と言ってクッションごとコランダムを持ち上げ、色んな角度から眺め始めた。
「長さ三センチ」
「直径八ミリ」
「透明度は……」
淡々と上げられるコランダムの特徴。果たしてそれが可なのか不可なのか分からないフラニーは、固唾を飲んで待った。
やがて全て確認し終えたのか、コイルは優しくコランダムを作業台に戻す。そして。
「コランダムとしては申し分ありません」
「——!」
フラニーの目がカッと見開かれる。
「指定の紫に関しては、少々色味が惜しいという印象です。が、狙ってここまで作ることも非常に高度なことと心得ています」
「……」
コイルは強張った顔で自分を見てくるフラニーに、フッと笑みを浮かべた。
「○を付けさせていただきますね」
(う、うわあああああん!)
「フラニー!」
顔を覆って崩れ落ちたフラニーにエグゼルが駆け寄る。
「偉いぞ!」
抱えられてぐしゃぐしゃと頭を荒々しく撫でられ、フラニーは感極まってすすり泣いた。「よくやった」と間近で聞こえる嬉しそうなエグゼルの声が、一層フラニーの涙を誘った。
「……君の工房は大したものだな」
「……」
少し離れたところでソードがポツリと話しかける。ネージュは柔らかく微笑むと、誇らしげに頷いた。
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