3退職ラッシュに乗り遅れ
「長い間お世話になりました」と施設長は頭を下げる。素材部一同は揃って「ありがとうございました」ともっと深く腰を折った。
ついに来てしまったエルダー施設長最後の日。慕われていた上司は、大変な状況のまま残していってしまう素材部を気にかけながら、しかしどうしようもないままに去ってゆく。
「次来るのは大変優秀な人ですから」
人の良いエルダー施設長の事だ。後任が誰であろうと同じことを言っただろう。三人はそう思いながら空っぽの笑みを浮かべた。
「行っちゃったね」
「うん」
「……やろっか」
上司の異動イベントがあろうとも、各部署には仕事がある。特に素材部はあり過ぎる。ほんの五分程度で終わったエルダーの訪問の後、フラニーたちはまた一心不乱に素材の生成に打ち込んだ。
「また明日」
とっぷりと夜が更け、これ以上はもう無理というところまで働くと、次の日に跨っている本日の業務は終了。「今日はまだ今日?」という問いに「今日はもう明日です」と返す意味の分からなさ。
生きるために働くのか、働くために生きるのか。考えても、気分が落ちるだけである。
フラニーは施設長交代のこの日を迎えても二人が何も言わないことに少々の不安を抱く一方、大部分は安堵していた。上長が変わっただけで甚大な影響が出る程の大変さではもはやない。
(施設長には悪いけど、究極大事なのは現場だから……)
そんなことを考え、フラニーはいつも通り二人と別れた。次に会うのは数時間後。明日はいよいよガラスを終えて、純鉄に取り掛からなくてはならない。二人にはインゴットに集中してもらおう。
頭を占めるのは仕事のことばかり。フラニーは自嘲した。
(ああ、早く新しい人入ってこないかな)
疲れた頭と体はすぐに眠りに落ちる。卵はまだあっただろうか、洗濯物が溜まっていた気がする、という身近なことすら考えるには至らない。事実、部屋は大いに荒れていた。
『また明日』
『……じゃあね』
『じゃ』
最後に見た二人の曖昧な笑顔に意味があったと気づくのは、翌日の朝になってから。
◇◇◇
「う、嘘でしょ……」
フラニーは呆然と時計を見つめた。始業時刻になっても二人は現れない。今日休むと言っていただろうか。否。脳が直ぐに否定する。
もしかして、遂に体調を崩したのかも。これはあり得る。むしろいつあってもおかしくなかった。それにしたって、二人が一度に休むとなったら一日一人で回さなくてはならないということだ。
「え、ええと、二人のやっていた業務は」
バタバタと同僚たちのデスクに駆け寄ると、違和感を覚える。フラニーは息を呑んだ。
「無い……私物が……無い」
器具や器材は工房の備品。それらは依然として定位置にあった。しかし、時計やペン等個人の持ち物だった物がなくなっている。
(これは、本当にこれは)
ザっと青ざめたフラニーの脳内に浮かぶのは。
「の、乗り遅れた!!」
二人が辞めるならば自分もここには居られない、とかねてより強く思っていた。その時がいよいよ来たのだ。転がるように自分のデスクに戻り、フラニーは鞄を漁った。こんなこともあろうかと、辞表を用意していたのだ。
「あった!」
一通の封筒を取り出し、フラニーは息荒くソレを見つめた。できればこんなもの無駄にしたかった。けれど、ここに自分だけ残されるのは……。
(受理、受理されるかな……いやでももうこれ以上は普通に回らない)
新しい施設長のところに駆け込んで、勢いに任せてこれを提出しよう。捲し立てれば何とかなるかもしれない。フラニーは決意を固め、いざ行かんと部屋のドアの方へと振り返った。
「どうも」
「ぎゃあ!」
開けようとしたドアが反対側から開かれ、フラニーは驚いてはしたない声を上げた。ドアを開けたのは見知らぬ青年——と呼べるような若い容姿の男だった。自分といくつも変わらなく見える。
男は滑らかな金色の髪を耳にかけ、大ぶりのピアスを見せている。上着には金の糸の刺繍がふんだんにあしらわれた上、たくさんの宝石が縫い付けられていた。こんな豪華な格好をしている人間がこの界隈に居ただろうか、いや居ない。
何より、人形のように整った顔立ちにさっぱり見覚えが無かった。
フラニーの頭はひとつの答えに辿り着く。というか、状況からしてそれしかない。
「あ、新しい施設長さんですか」
「そう。エグゼル・シュタインって言う。よろしく」
エグゼルは自信に溢れた表情で手を差し出した。フラニーは迫力に負けておずおずと手を取り、握手する。エグゼルは満足そうに数度頷いた。
エルダー施設長の後にしては、かなり年若い人が後釜に据えられたようだ。
(あ、でも問題を起こして左遷になった人なんだっけ)
フラニーが面食らってまごまごしている一方、エグゼルは部屋の中を見渡し、険しい顔になった。
「さて。じゃ、やるか」
「へ」
「へ。じゃない。お前一人しかいないんだろ。やるぞ」
エグゼルはずいずいと部屋に入ってくると、上着をバサッと脱ぎ、近くにあった椅子の背にかけた。次いでシャツの袖を捲りながら発注票を眺める。
「おい、何突っ立ってる」
エグゼルは振り返り、未だにドア付近で固まっているフラニーに咎めるように声をかけた。
(い、いや私も辞職を……)
フラニーの戸惑いを、ただ驚いているだけだと解釈したエグゼルは再度「やるぞ」と促す。
フラニーはドキリとして瞬いた。頭の中には色々な疑問が飛び交う。
そもそも、施設長が腕まくりをして「やるぞ」とはどういうことだろうか。そしてその強気な態度は何だろう。この人手で、その発注量に簡単に対応できるはずがないのに。
「あ、あのう」と完全に怯みながらエグゼルに近付く。エグゼルの青い瞳がフラニーを捉えた。その強い光に圧倒される。
「ガラスばっかだな。聞いてた通り。そっちは任せる。俺は純鉄とインゴットをやる」
「え。え」
「なんだその顔は。人手が無いんだからやれる奴がやるんだよ」
さっきまで辞めるつもりだったというのに、どうしてかフラニーはすんなり「はい」と頷いてしまった。そんな自分に、他ならぬフラニー自身が驚いた。
(何故……? あれ? あれ?)
「こっちの炉借りるぞ」
「は、はい」
あれよあれよという間に、気が付いたらフラニーはいつもの自分の作業の用意をしていた。あまりにエグゼルがやる気なので「あのう私も辞めようと思って」と言う隙もなかった。
「…………」
フラニーが黒ガラスの原料を溶かす隣にエグゼルが座る。温度の高い方の炉をエグゼルが使うのは当然なのだが、隣で作業を見られると思うと、フラニーは非常に居心地が悪い。
(でも、この人は一人で純鉄やマール製のインゴットを作れるということだよね)
横目で新上司の作業を盗み見る。エルダー前施設長も錬金術師だったが、こうして作業する姿は見たことが無い。
施設長というのは、てっきりもう事務仕事にかかりきりになって現場は遠慮した人ばかりかと思っていたけれど、このエグゼルという人はそうではないらしい。
人手が無いという緊急事態ではあるのだが、それでも率先して素材作りをやろうとする姿が純粋に意外で、フラニーは突然現れたエグゼルという上司に興味が湧いた。
そんなことを考えながらいつも通りの行程を踏む。毎日毎日何度も繰り返してきた作業は、考えるよりも先に手が覚えている。
(次はこれ)
フラニーが脇に常備している粉に手を出し、窯の中に放り込もうとした矢先。隣から鋭く「おい!」と非難めいた声が飛ぶ。
フラニーはビクリとして固まった。見ればエグゼルは「何やってんの」という怪訝な顔。
「は、はい!?」
「何。何でそんなもの入れるの」
エグゼルが指差す先にはいつも通り投入しているリチウム。フラニーは間違ってはいないはずだと思いつつ、酷く不安になった。それほどエグゼルの顔が怖かったからである。
「えと、レシピ通りですが」
小さな声で答えると、エグゼルが「は!?」と立ち上がった。見下ろされる形で、フラニーは圧に耐える。何を言われているのか分からなかった。
「レシピ見せろ。全部見たいけど、今は黒ガラスだけ」
「早く!」と叱られ、フラニーは混乱しながら慌てて転がるようにレシピを取りに行く。なぜ、あんなに怒っているのだろう。あんなに蔑んで人に見られたのは初めてで泣きそうになる。
部屋に置かれているレシピ集からガラス類のものを探し、エグゼルに恐る恐る見せる。すぐさま上司の顔が歪んだ。鬼のようであった。そして。
ビリ!!
「あ!?」
鬼は手にしていたレシピを躊躇いなく破り捨てた。フラニーの目が、クワッと開かれる。
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