2退職ラッシュに乗り遅れ
次の日の朝。新たな注文票が追加されていないことを祈りながら工房のドアを開け、素材部へと顔を出すと、まだ二人は来ていなかった。
「あ、良かった。新しいのは増えてない」
吊り下がる注文票は四つ。昨日のうちに一つやっつけたので、悪い状況の中でもまだマシと思える。
フラニーが作業の準備のために器材を出したり、ザっと掃除したりしている間に同僚二人がやってきた。
「でさ、昨日お義母さんについに言われたって。もうそろそろ」
「実は私もさあ」
二人はフラニーの顔を見ると、パッと会話を断ち「おはよう」と挨拶をした。
(私の前では、控えてくれているけれど)
彼女たちを家族を省みないと言って責める人がいる。仕事と家族、そもそも天秤にかけるべきものなのか。独り身のフラニーでさえも「両方取れるようにしておくべき、雇用側が」と思うので、彼女たちの会話が退職を仄めかす内容だったとしても、特別責める気にはなれない。
(でも、もしも辞めるのだったら、私も一緒に……)
一人だけ残されるのは勘弁だ。これまで一緒に頑張ってきたのだから、辞めるときもご一緒させて貰いたい。
フラニーは胸の内だけに秘めている意思を飲み込むと、二人に「おはようございます」と挨拶を返した。
三人がいつも通りてんてこ舞いで黒ガラス粉の大量生産に取り組んでいると、「どうですか」と穏やかな物腰の男性が部屋に入ってきた。
「施設長」
「こんにちは」
バンドーラ工房の施設長、エルダーだった。各工房にはまとめ役として施設長が置かれている。
エルダーはフラニーの入職より前からここに勤めている古株だ。和やかな人柄で、激昂することはなく、また部下の話をよく聞いてくれるため、素材部では慕われている人物である。
フラニーたちが職を辞すことを躊躇う要因のひとつとして、エルダー施設長の存在は大きかった。
「どうなさったんですか」
「いや、忙しい素材部の様子を見に来たんです」
エルダーはよく各部署に顔を出した。人によっては施設長室から全く出てこないのだが、当施設長は人と話すのが好きな質なのか、しばしば素材部にも現れる。自身も錬金術師だからか、「ここが一番大変だから」と労うことをいつも忘れない。
「忙しいです。人が、人が足りません」
同僚がいつものように訴えれば、エルダーは苦しそうに眉を寄せた。
「本当に、そうですよね。募集はかけているのですが、人が来なくて。皆さんには苦労をおかけして申し訳なく思っています」
「どうして来ないのでしょう……」
「常に、錬金術師は不足しているのです。皆さんはご優秀なので、ちゃんと資格をお取りになられていますが」
慢性的な錬金術師不足。国家資格を認定された者しか錬金術師を名乗ることはできない。学校や弟子入りで学ぶのが一般的だが、その道を歩むものは多くても、試験の難しさ故に合格者が少なく、どの工房も競ってこの人材を確保しとうとしている。
「早く、誰か入れてください」
切実な思いを施設長に告げ、丁寧に頭を下げる。
「尽力します」
優しい上司はそう残して素材部を後にした。
「あの人がこうやって話を聞いてくれるから、まだ働けてる」
同僚の一人が呟く。フラニーは「そうですね」と言って開けっ放しだったドアを閉めた。
そんな素材部に激震が走ったのは、一週間後のことだった。
「ちょっと! 聞いた!? エルダーさん、来月異動だって!」
カラン。バサリ。飲み物を買いに行った同僚が息を荒くして戻ってきた。フラニーともう一人はそれぞれ手に持っていた物を取り落とす。
「な——何ですって!」
「嘘でしょ!」
「いや、さっき総務部の子から聞いたのよ」と取り乱した同僚は部屋に駆け込み、作業台に手を付いて項垂れた。フラニーの胸の中に得も言われぬ不安が立ち込める。同僚たちの顔を見れば、当然、青褪めて絶望していた。
「か、代わりに来る方がいらっしゃるということですよね……?」
フラニーが恐る恐る尋ねると、項垂れていた同僚は「それよ!」と血走った目で叫ぶ。
「本部から来るらしいけど、なんか、問題起こした人だって」
「実質左遷なんじゃないかって」と付け加えられる。フラニーは衝撃だった。
(ここって、左遷先にされるようなところなの!?)
ショックだったのはフラニーだけではない。それぞれ険しい顔で黙り込み、部屋に息苦しい程の沈黙が訪れた。
「じゃ、お疲れ様」
「お疲れ様です」
その日は一日、殆ど誰も口を聞かなかった。各々思うことがあったのだろう。フラニーにはずっと嫌な予感が付き纏った。二人が、もし、何か、決断をしたのならば、言ってくれるだろう。嫌な思考から逃げる様に、そう自分に言い聞かせた。
「私達、ここで」
フラニーは一人、帰り道で分かれた二人の背を見つめた。近く身を寄せて、何かを話しているようだった。
フラニーがいつ、どこで二人に切り出されるかと気を揉みながら二週間が過ぎた。エルダーが居なくなるのは週が明けてから。こんなにギリギリになっても何の音沙汰もないのだから、二人が居なくなるかもしれないと思うのはフラニーの杞憂に終わるのだろうか。
(まだ、迷っているという可能性もあるけれど)
フラニーの意向としてはこうだ。二人が居てくれるならば、まだここで働ける。まだ殆ど黒ガラスしか作ったことのない、勤務年数にしては経験の浅い自分が、突然他所の工房で働くことを想像するのはフラニーには途方もなく不安なことだった。
可能であればこの工房で働きたい。しかし、一人は流石に無理。想像もしたくない。
(どうかどうか、二人とも辞めないで欲しい)
しかし、フラニーのその思いを彼女たちに強く押し付けることも憚られる。幼い子供の顔も満足に見ることが出来ない生活を送っていると知っていれば、尚更。
どうしたものか、どうなるものかと販売部帰りのフラニーがとぼとぼ廊下を歩いていると「よ。お嬢さん」と知った顔が向かいから歩いてきた。調達部のカリムだった。
カリムとは年が近く、また仕事で顔を合わせることも多いため、フラニーにとって話しやすい人物の一人である。
「なあ大丈夫か」
「どれのことでしょう。施設長が変わること?」
「は? 施設長? いや。あ、まだ見てないのか」
フラニーは「まだ見てない」の言葉にぎくりとした。
「ま、まさか……? 新しい発注?」
顔を引きつらせるフラニーからカリムは視線を外した。
「ああ、うん。そんなとこ」
(やっぱり! ついに来た! 追加注文!)
フラニーは心の中で頭を抱えた。
「ど、どれだけ作ればいいのですか。どれだけ材料を調達したのですか」
詰寄って来るフラニーを躱し、カリムは気まずそうに頬を掻く。
「ガラスじゃないみたいよ?」
「は?」
思わず、フラニーの口から半ギレの声が飛び出る。
「げ、どうしよ」
フォローの仕方の分からないカリムは逃げる様に去って行った。その背を見送る暇もなく、フラニーは鬼気迫る勢いで素材部の部屋に駆け戻った。
「…………」
フラニーが素材部に帰ると、殆どお通夜の空気が部屋に流れていた。もはや何も聞くまい。フラニーは無言で発注票を見てひとり絶望する。
「純鉄」と書かれた紙が確かに増えていた。
(な、何でガラス以外が)
普段はどうして黒色ガラスばかり引き受けるのだと批判していたのに、いざガラス以外を求められると、背筋が凍るような感覚を覚えた。
しかし、もはや「どうして」と考える余裕はフラニーにはない。注文が来たからには、納品しなくてはならないのだ。ここに居る、自分達が。
純鉄。フラニーは頭の中にある知識を引っ張り出し、製法を思い出そうと頑張った。
ひとり発注票を睨んでいるフラニーに同僚がおずおずと尋ねた。
「フラニー、分かる? 作り方。あなたここに来てから殆どガラスしか作っていないでしょう」
「……はい。ええ、うん。大丈夫です。器材もありますし」
難しい顔でフラニーが頷けば、同僚たちはホッとして息を吐いた。ガラスだけでもまだ相当量をこさえなくてはならない。一番下のフラニーに製法を手取り足取り教えられる時間は無いのだ。
(大丈夫、まずはガラスを終わらせて、落ち着いて、復習してやれば)
カラカラカラカラ。
フラニーが自力で何とかしようと決意した瞬間。あらたな発注票が吊り下げられた紐が回ってきた。
「……い、インゴット。マール製のインゴット。十本」
読み上げ、そろりと振り返ったフラニーは見た。他の二人の顔から、何かが無くなったのを。
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