1退職ラッシュに乗り遅れ
室内ではブクブクと絶えず泡の立つ音がしている。しかし部屋に居る人々の耳に慣れ切ったその音は、もはや音として存在していない。
机には膨大な数の試験管やフラスコが並び、アタノールで熱せられている物質はゆらゆらと白いものを燻らせていた。
部屋の奥には頑丈な石組みで造られた場所があり、当工房自慢である大型の撹拌機と巨大なガラス器具を、幾人もの人が囲んでその実験の経過の記録を取っている。
ぼそぼそと話す声と、時折「シューッ」と空気が鋭く漏れる大きな音。それらを突然裂いたのは、「おい! 馬鹿か!」という慌てた人の声だった。
研究室に居た錬金術師たちはその声に一斉に顔を上げる。
「伏せろ!!」
次の瞬間。バリンバリンとガラスが割れ、異様な匂いが漂う。あちらからもこちらからも悲鳴が聞こえた。
◇◇◇
「……終わりました」
全く元気のない、どんよりとした声と共に箱詰めされたものが納品カウンターへと提出された。箱を受け取った女性が上に被さっていた布を外し、中身を確認する様子をカウンターへ寄りかかりながら眺める提出者。
フラニー・アボットはくたびれたエプロンを身に付け、疲れて淀んだ目をしていた。頭の高い所で結んでいるちぢれ髪が肩からダラリと垂れ下がる。毛艶が無く、ところどころ解れて傷んでいる髪を無意識に指先で撫でた。
「フラニー。お疲れ様、ええと、これで最後でよかった?」
「分かっていて聞かないでくださいよ。まだあと十五箱残っていますし、更にさっき追加の注文もあったのでしょう」
カウンター向こうにいる赤毛の女性——チーリは苦笑いを浮かべた。
「フラニーの分は終わったの? って聞いたつもりだったのよ」
フラニーは俯き、無言で首を振る。自分の分、などと言っている場合ではない。「あなたの分はわたしの分、わたしの分もあなたの分」精神で対応しなくては、納品に間に合わない。
見るからにぐったりしたフラニーにチーリは何と言ったらよいのか分からなかった。
「無理しないでねって言いたいところだけど、もう無理してるしね……」
「そう言っていただけるだけで十分です」
フラニーは重い足取りで納品カウンターに背を向ける。まだ、仕事は山程残っているのだ。背中から「後で差し入れ持っていくからー!」と声がかけられた。フラニーはちょっとだけ振り返り、力なく会釈をした。
素材部と書かれている木製のドアの前。フラニーは大きく息を吐いてからドアに手を伸ばした。重いドアを開ければ、作業をする音が聞こえてくる。数か月前は「終わらない!」とヤケクソに叫んでいたこともあったが、もはやそんな気力も無い。
ただひたすら、淡々と、終わることだけを信じて、いや思考すらも放棄して手を動かすだけ。
「戻りました」というフラニーの声に、部屋にいた二人の同僚は顔を下に向けたまま「はーい」「(ぉ)かえり」と小さく返した。
自分の持ち場に戻る前に、注文票のチェックをする。部屋を出たときより増えてはいないかと、怖くなったのである。見れば、依然として五枚の紙が紐に吊り下がっていた。フラニーは安堵のため息を零し、自分の器具の前へ向かった。
フラニーの属する素材部は、国内大手錬金ギルド『セル』の地方支部の内にある。調達部が仕入れてきた材料を専門の特別な技術である錬金術で以て別の原料・素材に変えるのが仕事だ。作られた素材は販売部によってそれぞれを原料とする職人たちへと卸されていく。
——錬金術。
その技術の真骨頂は貴金属の生成だが、その研究の過程で得たあらゆる植物・生物・鉱物の知識は他の素材作りに生かされ、錬金術師の作りだすものは多岐に渡る。
植物や生物、鉱物は太古から存在が確認されているものの他、後世に発見された原種とは構成の異なる体を持つ亜植物・亜生物と呼ばれるものが世界を作っている。
それらに精通しており、万物のスペシャリストと謳われるのが錬金術師である。
この世の中に無くてはならない仕事と自負する一方、錬金術師という技術屋の人手不足と業務量の多さに悩まされているのが、ここバンドーラ工房の現状であった。
毎日毎日、材料を熱し、分解し、冷やし、箱に入れ。その繰り返し。注文されるのは専らガラス粉やガラスの棒、塊。どうしてか分からないが、バンドーラ工房はガラス製品の受注が主だった。販売部がいつも受けてくるのはガラスばかり。
作っているのはただのガラスではなく、黒色ガラスと呼ばれる物。光を通しにくいという特性をもつ特殊なガラス。しかし、それが特別なものだったのは数年前のことであり、今や一般に普及している素材のひとつとなっている。近頃は錬金術師ではなく、一般のガラス職人の製品が出始めたと聞く。
そんな中、「ここはガラス工場か!」と叫んだ同僚は三カ月前突然退職した。
「万物のスペシャリスト」である錬金術師としては、既に普及された素材は専門職に任せ、もっと仕事の幅を広げたい。それにこんなに過酷な労働状況には耐えられない。
それらが退職の理由だったそうだが、フラニー及び後に残された人々は「ごもっともだ」と彼を責めることはせずに頷いた。追うようにして更にもう一人、職場に現れなくなった。理由は聞いていないが想像はつく。
——にも拘わらず、人手不足となった現場に人員が補充されない。各々の事情で退職するのは仕方がない、が、代わりの人が来ないのは困る。
勿論上には何度も訴えているが、一向に新たな人材がやってくる気配はない。
「地方とは言え、国でも有数の錬金ギルドでこれはどうなの……!?」
夕方、命を繋ぐための食事を摂りながら、同僚の一人が低く呟いた。フラニーはビスケットの最後の欠片を口に放り込むと、心の底から同意して頷いた。もう一人の同僚も「おかしい」と顔を歪める。
「今何連勤ですかって」
「分かんない」
三人はカレンダーを見た。最後に職場に来なかったのはいつだっただろうかと考えてみる。しかし二週間より前の記憶があやふやで、具体的に思い出せない。
ひと月は超えていることは確かとは思うのだが。フラニーたちは自分たちの認識力の低下を嘆いて「やばい」と口にした。
ビスケットの包みの紙屑や茶渋の染みついたカップを片付けると、三人は重い腰を上げて作業を再開した。最後にいつ休んだかなんて、考えければ良かったと思った。
街の灯が消えてしばらくした頃、星明りの空の下で工房のドアに鍵がかけられた。三つの影が揃って動く。ここのところの定時の帰宅である。
「お子さんまだ小さいでしょう」
「ダンナに頼りきり。はあ。最近子供の寝てる顔しか見てない」
「ああ、それは辛いよね。うちも似たようなもん」
家族のある同僚二人の悩みが深い。独り身のフラニーはこういった話を聞くと、自分が一番手が空いているのだから頑張らねばと思ってしまう。
「フラニーも、恋人と会えてるの」
(ああ……アランか……)
言われて思い出す恋人の顔。
フラニーは無言で首を横に振った。三人体制になった三カ月前から、いやそれよりも前から、忙しさを理由にデートはおろか顔も見ていない。
最後に会ったのはいつだっただろうか。休み同様やはり思い出せなかった。彼とまだ続いていると言っていいのかどうかも、自信がなくなってきていた。
(自然消滅、とされていてもおかしくない)
遠い目をしているフラニーを同僚たちは哀れむ。
「今あなたいくつだっけ」
「21です」
「若いのに」
「今が一番楽しいのにねえ」
フラニーは「それは残念ですね」と他人事のようにポツリと答えた。同僚二人の可哀想なものを見る目を避けるように、フラニーは空を仰いだ。
それ以上三人は言葉を交わさず、すっかり夜に浸かった街の中に消えていった。数時間後、また会うことになるのだ。寂しいとか、名残惜しい気持ちはお互い微塵も無い。
フラニーは二人と別れると、大きな建物の横にある細い道へと入った。建物は街の図書館である。灯りは無く真っ暗な闇の中、脇にある関係者用のドアから中に入り、音を立てないように石造りの階段を上る。
図書館の上階は司書や事務員の宿舎になっている。フラニーは図書館員ではないが、入職前にアルバイトをしていたツテで一部屋貸してもらえている。
ここにやってきたばかりの時は——まだ働き始めたばかりの頃は、仕事を終えて夕方部屋に戻ると直ぐに階下の図書館に行っていた。その時の様に、読みたい本がすぐ近くにあるという贅沢な環境を満喫する余裕は今や少しもない。
せっかくこんなに優遇された部屋を借りていながら、本当に寝るだけにしか使っていない。時折、フラニーはここに住んでいて良いのだろうかと思うことすらある。
周りの部屋の人を起こさないよう、そろっと自分の部屋に入り、荷物を置く。夕方のビスケットは既に消化され、お腹が空いたような気もしたが、眠たさの方が勝る。
灯りをひとつだけ点けると顔を洗いに洗面台に向かった。鏡に映る自分の顔。栄養も睡眠も足りていないので当然だが、荒れている。頬骨が目立つようになったのは気のせいではない。
「痩せた!」と喜べるような気軽さも持ち合わせていない。
フラニーは適当に顔を洗うとベッドに直行した。体を洗うのは明日の朝にしよう。
(毎日同じことを思って寝てる)
ということこそ、毎日思っていることだと自分でツッコみを入れている間に、フラニーは意識を手放した。
朝日がフラニーを起こすまで、あと三時間。
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