救済
暗いワンルームの片隅で虫のように蹲る。薄い窓の外をけたたましい蝉の声が埋め尽くしている。腹が減ったが、どうせ冷蔵庫には何も無い。金が無い。
ただ毎日を無為に過ごし、時間を浪費し、悪い妄想から逃げ続ける。そんな日々のひとかけらに過ぎない。
ぴんぽん。
「……」
ぴんぽん。
「……」
ぴんぽん。
「……」
無視を決め込んでも、ちゃちな玄関チャイムは鳴り続ける。きっと隣人だ。だが、余計なトラブルに巻き込まれたくはないので無視をする。
ぴんぽん。
「……」
どんどん。
「……」
どんどんどんどん。
やけに切迫した感じでドアが殴打されている。まるで警察だ。かなり出てきてほしそうだ。
俺はほぼ床同然の布団から飛び起き、立ち眩みで目の前を真っ暗にしながら壁伝いに玄関までたどり着く。
覗き穴から、拳を振り上げる女子大生の姿が見えた。
どんどんど……。
「はい」
「あ、すみません突然。隣の丸谷の同居人です」
がぱりと開いた入り口から、真夏の熱気が押し寄せた。くらっとするものを感じながら、俺は靴箱に手をついたまま立ち続ける。
女子大生はちょっとびっくりしたような顔で立ち尽くしている。ちなみに、丸谷という隣人はここから二駅の私立大学に通う男子大学生で、引き笑いが特徴的だ。
「……どうしました」
「実は、お願いがありまして」
そう口にする彼女の眼は妙に夢見心地で、俺を見ているのに俺の向こうに焦点を当てているかのようだった。この顔つきには見覚えがあった。昔鏡で散々目にしていた、全てを投げ出して頭で考えず動くだけのからっぽの顔だ。
「はあ」
「小説家なんですよね? 以前玄関で話されていたのを立ち聞きしてしまったんですが」
脈絡のない会話も、自分の行動を通すことしか見えていない証拠だ。この手のは話の腰を折ったりせず、さっさと用件を言わせるに限る。
「まあ、そうですけど」
「良かった」
彼女は心底ほっとした顔で言う。
「死ぬつもりなんです。近々」
「……」
「書いてくれませんか」
「何を」
「死ぬまでの私のことを」
「何故」
「美しいままで存在し続けたいから」
「……死んでも存在したい、とはまた」
「生きている限り、衰えます。醜くなります。特に私は。社会に合わない人間なので」
他人事みたいに蝉の声がする。炎熱の中、ぼーっとする思考はともすれば蝉たちにかき消されそうだ。
「どうでしょうか」
「自殺は否定しないですけど、小説の件は無理です。そんな暇無いので」
「否定しないんですね」
女子大生は薄く笑った。瞳は、一歩踏み込んだら無限の暗闇が広がっていそうな、宇宙の瞳だ。
「ありがとうございます」
「……」
もう限界だ。夏の外気に耐えられない。
「それじゃ、すみません」
「待って」
閉めようとしたドアを強引に掴まれる。必死に突っ張る腕を見て、俺は今すぐ部屋に逃げ込みたくなった。
「助けて下さい」
女子大生の眼に光が灯る。それは生物が眼前の欲求を満たすために全存在を集中させるような、根源的な光だ。
「私を助けて下さい」
その時やっと気づいたのだ。
ずっと救いを待っていた。いつか報われるんじゃないかと頭の片隅で思っていた。だから周りのせいにしてずっと狭い巣穴に閉じこもっていた。
だが俺はもうとっくの昔に、救われる側では無くなっていたのだと。