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出立


「ヘルベルト様、馬車の方の支度が終わりました」


「ああ、わかった」


 ヘルベルトは出て行く前に、一度姿鏡を見て自分の姿を確認した。

 母に似た銀の髪に、父に似た意志の強い瞳。

 シャツをめくってみればそこにあるのは、しっかりと引き締められた肉体だった。

 一年前まで贅肉だらけのたるんだ肉体だったと言われても、信じることはできないだろう。

 わずかに六つに割れている腹筋から視線を上げれば、次に映るのは何度も何度もマメを潰すうちにガチガチになった指先だ。

 一年以上の時間をかけてやり直してきた己の肉体は、ヘルベルトにとっての誇りだった。


 ――鏡に映し出されている今の自分は、かつて……まだ小さかった頃の自分が思い描いていた、未来の自分そのままだった。


「ふっ」


 ヘルベルトは軽く笑うと、そのままゆっくりと歩き出した。

 姿鏡に映る彼が着用しているのは、リンドナー王立魔法学院の制服だ。


 正式なマナーとしては常に礼服で居た方がいいのだが、しっかりとした仕立ての礼服は非常に着心地が悪いし、いざという時に動きづらい。


 学生服で動くのに慣れていることもあり、ヘルベルト達は今回の道中、若干無作法であっても基本的には制服で過ごす予定であった(もちろん正式な場のための礼服もしっかり用意している。付け加えれば帝国ではあちらの貴族の顔を立てるため、改めて礼服を購入する予定もあったりする)。


 しっかりと身支度を整えたヘルベルトが向かうのは、両親の部屋だった。

 改めて別れの挨拶をするためだ。


 ヘルベルトが部屋に入れば、そこには父であるマキシムと母のヨハンナの姿があった。


「向こうで特に気をつけなければいけない貴族のリストには目を通しておいたか?」

「はい、ヴァリスヘイム家以外の公爵家の人間の名前は一通り覚えておきました」

「私が目星をつけておいた連中の名前もしっかり覚えておくように。可能であれば馬車に乗せているウンルー領の物産の目録と試供品を……」

「こらこら」


 スムーズに真面目な話をし始めたマキシムの頭を、ヨハンナがぽかりと叩いた。


 男の人はすぐに仕事の話をするんだから……と首を振ってから、彼女はヘルベルトへ近づき、自分よりも大きくなった息子の身体を、ゆっくりと抱きしめる。


「気をつけてね、ヘルベルト。お母さんはあなたの無事を祈ってるわ」

「――はい」


 ヘルベルトは軽く抱きしめ返すと、そのままこくりと頷いた。


 リンドナー王国は決して平和なだけの国ではない。

 隣国である帝国とは常に小競り合いをしているし、魔物被害も未だ多い。


 この世界における命は軽い。

 隣国への旅行となれば、いかが大貴族といえど命がけの大仕事だ。

 それが今もなお関係性が良好と言い切れない帝国となればなおさらのことだ。


 けれどヨハンナは決してヘルベルトを止めようとはしない。

 彼女は母であり、そして同時に公爵夫人でもあるからだ。


「では――行ってきます」


 二人に別れを告げ、ヘルベルトは馬車に乗り込む。

 ちなみにローゼア達の姿はない。

 彼らは今日予定があるということで、前日にお別れを済ませていた。


 ヘルベルトに続く形で、既に屋敷の前までやってきていたロデオとティナが馬車の中へと入る。

 今回の護衛である彼ら以外にも、公爵家の武官や文官、お手伝いなどを含めて合わせて三十人ほどの人員が同行することになっている。

 ちなみにだが、これでも大貴族の供回りとしてはかなり少ない方だ。


 出発した馬車がすぐに止まり、最後の同行者が中へ入ってくる。


「なんか悪いな、チャーターしたみたいで」

「別に、大した手間じゃない」


 やってきたのは、大通りで待っていたマーロンだ。

 彼は国をまたいでの旅行というのは初めてらしく、明らかにテンションが高かった。

 目の下には隈があり、一体何を持ってきたのか、足の上に置いているバッグはパンパンに膨らんでいる。


(結局ネルとは時間が合わなかったな……)


 ヘルベルトは馬車の外を見ながら頬杖をつく。

 二人の予定がなかなか噛み合わず、夏休みに入ってからネルと顔を合わせる機会を取れなかったのだ。


 外面に出すことはないが、実は内心では少しだけ凹んでいた。

 彼が心の中でずっと望んでいた声が聞こえてきたのは、スピネルの目抜き通りを抜けようとした、その時のことだった。


「ヘルベルトッ!」

「……馬車を止めてくれ」


 飛び降りるように馬車から下りれば、遠くに必死になってこちらに走ってくるネルの姿があった。

 恐らくだが馬車にあった家紋から、自分が乗っていることに気付いたのだろう。


 これからパーティーがあるからか、髪はしっかりとセットしており、身に纏っているのもシックな青のドレスだ。


「ネル……」

「ヘルベルト……」


 彼らは向かい合うと、どちらからともなく抱き合う。

 二人の間に、言葉はいらなかった。


「行ってくる」

「……どうか、ご無事で」


 ピッとキザったらしく指を立てるヘルベルト。

 彼が乗った馬車が駆けてゆくのを、ネルはその影が消えるまで、じっと見つめていた……。

 こうしてヘルベルトは予定外の出会いで心身ともに充足させ、王都を後にする。

 ヘルベルトの本当の夏休みは、ここから始まるのだ――。

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