六十 ミャフス
門大は、顔を俯ける子猫の姿を見て、ゼゴットの、クラリスタは傷付いているという、言葉を、改めて心の中で繰り返してから、子猫を、クラリスタを、慰めてあげたい。けど、慰める為に、今の元気のなくなった様子について触れ、元気がなくなる原因となった出来事の話を、蒸し返す事で、子猫に、クラリスタに、逆に、気を使わせてしまうかも知れない。ここは、あえて、慰めないで、わざと、他の、今の子猫の様子や、元気がなくなる原因となった出来事の話とは、関係のない事についての話をしてみた方がいいのか? と思う。
「それにしても、この家、俺の世界の家っぽいな」
門大は、しばしの間、何も言わずに、慰めるのか、関係のない話をするのか、考えたが、結局、どちらにするのか、決められないままに、黙っている事に耐えられなくなり、頭の中に浮かんだ言葉を口にした。
「ミャ」
子猫が、短く、小さな、元気のない声で鳴き、顔を少しだけ上げた。
「このソファも、箪笥に、テーブルに、テレビとか、パソコンとかは、さすがにないみたいだけど、ある物は全部、やっぱり俺の世界の物っぽい。そっちはなんだろ?」
時間が解決するって事もある。焦って、クラちゃんの負担になるような話ばかりをしてても、しょうがないもんな。今は、とりあえず、クラちゃんに悟られないようにしながら、クラちゃんを元気付けてみよう。門大は、言葉を出しているうちに、そう考えるようになり、そうしようと決めると、子猫の方に目を向ける。
子猫が、顔を、先ほどよりも上に向け、どこか、遠慮をするように、門大の方を上目遣いで見た。門大は、子猫に向かって手を伸ばす。
「お風呂の場所を探しながら、少し家の中を見てみよう」
子猫が、顔をもう一度、俯けかけてから、また上目遣いで門大の方を見る。
「ミャミャミュ。ミャンミャミュウゥ。ミャミャミャ」
子猫が片方の前足を、門大の片方の手にそっと当て、何かを懸命に話しているかのように鳴く。
「クラちゃん。ええっと、ごめん。分からない。でも、大丈夫だよ。きっと、すぐに元に戻る。だから、今は、えっと、なんていうか、あれこれ、考えないで、この生活を楽しんでみないか?」
門大は、子猫の鳴き声の意味を、しばらくの間考えてから、駄目だ。分からない。と思い、そう言うと、子猫の様子を確認するように、子猫を見つめた。
「ミャミャン。ミュウ。ミャミャミュウゥ」
子猫が鳴き、どこか、しょんぼりしたような様子になって、門大の手から自分の前足を離した。
「ゼゴットがさ」
門大は、言いながら、子猫を抱き上げた。子猫が、一瞬、驚いたような顔をしてから、すぐに門大の手に、身を委ねて来る。
「ゼゴットがね。クラちゃんをもっと大切にしろって言ってたんだ。クラちゃんが子猫になっちゃって」
門大は、そこまで言って、慌てて言葉を切った。
失敗した。余計な事を言うところだった。いや。もう、ちょっと、言っちゃってた。と、門大は思いながら、子猫の顔を。改めて、恐る恐る見る。
子猫の目が潤み、目から涙が溢れ出す。
「うわっ。ごめん。泣かないで。今のは、そうだよね。 変な事言った。ごめん。本当にごめん」
門大は、涙で濡れてしまった子猫の顔を、触れればすぐにでも壊れてしまう物にでも、触れるような心持ちになりながら、指で優しく、そっと拭う。
「ミャミャミュミュン」
子猫が鳴いてから、門大の手の中から飛び出て、門大の体に飛び付いた。
「びっくりした」
門大は子猫を抱き直しながら言う。
「ミュウン」
子猫が、門大の顔を見つめてから、門大に甘えるように、顔を、門大の体に、ぎゅっと押し付ける。
「クラちゃん。お、こ、これは? これは? クラちゃんが、なんか、大胆になってる? これは、そうだ。あれだな。俺も、俺も、何かお返しをしないと。そうだ。じゃあ、そのかわいいお腹に頬擦りを」
門大は、子猫を持ち上げ、顔を子猫のお腹に近付けて行く。
「ミャミャ!? ミャ、ミャフス」
子猫が咄嗟に出した、片方の前足の爪が、門大の鼻先を突く。
「あいた。くっそう。ミャフスがあったか」
「ミャミュミュミャ。ミャフミャフス」
子猫が鳴いて、両前足の裏を門大の方に見せて、爪をにゅっと出す。
「ミャフミャフスやばいな。凄く痛そう。でも、その格好は、かわいいから、こうしちゃおう」
門大は言い、子猫の頭をそっと優しく撫でた。
「ミュミュミュウゥン」
子猫が鳴いて、両前足を下ろす。
「お。ミャフミャフスが解除された。よーし。それじゃあ、改めて、部屋の中を見て回ろうっか」
なんか、どたばたで、かなり無理やりだったけど、今のクラちゃんの様子は、悪くないよな。クラちゃん、とりあえず、前向きになってくれたみたいだ。と思った門大は、言って立ち上がる。
「ミャン」
子猫が鳴きながら頷く。
「子猫のクラちゃんの反応は、全部かわいいな」
門大は言ってから、子猫のとか、って言って、その部分を強調して言ってしまった。これは、またやってしまったか? と思う。
「ミュミャ? ミャミャミュ。ミャッフン」
子猫が、顔をぷいっと横に向け、拗ねたような仕草をする。
おお。クラちゃんの反応が、さっきまでの落ち込むような物とは、違うぞ。ここは、クラちゃんのこのリアクションに合わせよう。……。いや待て。合わせようって、これ、どうすりゃいいんだ? 門大は、そう思うと、子猫の顔を見つめる。
子猫が門大の視線に気が付き、門大の方に顔を向ける。門大と子猫の目が合った。
「ミャ、ミャフ」
子猫が慌てたような様子で鳴いて、また、ぷいっと顔を横に向ける。
「あっ! ああー! いやいやいや。どっちのクラちゃんもかわいい。って、そういう事、なら、いいかな?」
門大は、もうなんでもいい。このまま何も言わずにいて、変な間を作って、折角のこの空気が白けてしまうよりはましだ。と思うと、咄嗟に頭の中に浮かんだ言葉を口にした。
「ミャフミャフミャフス」
子猫が両前足の爪を出し、口を開けて犬歯を見せる。
「三つも!! って、今のは、ほら、両方のクラちゃんを、褒めてたと、思うんだけど、駄目?」
子猫が、首を傾げてから、ミュ。と短く鳴くと、口を閉じて、両前足を下ろす。
「よかった。とりあえず、ミャフミャフミャフスじゃなくなって、よかった」
門大は、いいな。この雰囲気。クラちゃんが、子猫になる前の、クラちゃんが明るかった頃の、いつもの雰囲気に戻ったみたいだ。こんな時間を、もっとクラちゃんと、一緒に過せたらいいな。おっと。そうだそうだ。部屋の中を見るんだった。と思いながら、顔を巡らせて部屋の中を見回した。
「あそこに、ドアがある」
よし。あのドアを開けてみよう。お風呂があったら、すぐにクラちゃんを洗ってあげられるぞ。門大は、そう思うと、ドアに向かって歩き出す。
「なんだ。ここは、トイレか」
ドアを開けた門大は言って、開けたドアを閉めた。
「ん。トイレ?」
門大は、そう言葉を出すと、もう一度、トイレのドアを開けた。
「猫用のトイレがある」
「ミャミャミャミャーン」
子猫が、酷く、ショックを受けているかのような顔をしながら、大きな声で鳴いた。
「うーん、っと」
門大は、子猫の目をじっと見つめて、クラちゃんは、なんて言ったんだろう? と考える。数秒の後、門大の頭の中に一つの閃きが走った。
「クラちゃん。大丈夫。俺に任せて。俺、猫の世話した事あるから。猫トイレの交換くらいできるから」
「ミャミャミュミュ。ミャミャミャン。フシャアアアアアア」
子猫が早口で捲し立てるように鳴き、威嚇しはじめる。
「う、うわっ。なんで? なんか、間違てるっぽい?」
門大は再び考えた。閃光のように、一つの考えが頭の中を駆け抜ける。
「落ち着いて。クラちゃん。大丈夫。大丈夫だから。今まで、流刑地にいたから、トイレ行かなかったもんね。けど、あれだよ。もう随分と昔の事のような気がするけど、王都で、まだ、二人でクラちゃんの体の中にいた頃は、トイレとかお風呂とか一緒に入ってたじゃないか。だから、猫トイレを使うくらいなんでもないって。全然気にしなくても」
「ミャフミャフミャフス」
「ぎゃああああああ。なんか、また間違ってたのかああああ」
子猫の、ひっかくひっかく噛むという、三段攻撃を受けて、悲鳴を上げている門大の手の中から、子猫が抜け出る。
「ク、クラちゃん?」
「ミャミュウ。ミャフミャフミャフス」
床の上に降り立った子猫が、後足だけで、立ち上がり、門大を襲うような格好をした。
「え? ええー?」
門大は、声を上げながら、思わず後ろにさがる。
「ミャッフ」
子猫が鳴くと、トイレの中に入ってドアを閉めた。
「ああ。なんだ。トイレしたかったのか」
「ミャフミャフミャフミャフミャフミャフス」
トイレの中から、子猫の明らかに怒っている鳴き声が、聞こえて来る。
「ええ? なんで? 怒ってる? しかも、それって、何回ひっかかれて嚙まれるの?」
門大は、怯えながら声を上げた。
「ミャミュミャ」
子猫が、怒っている鳴き声で、門大の言葉に答える。門大は、さっきの、ミャフ一個が一回と考えて、ミャフが六個あったから、六回かな? 六回はやばいな。なんてたって、あのツルギアラシを、倒したクラちゃんの攻撃だもんな。などと、トイレのドアを見つめつつ、思う。
トイレの中から、水の流れる音が聞こえて来る。
「そういや、この世界のトイレって、俺のいた世界にあったのと同じ、洋式便器で、そんでもって、水洗だったんだよな。こういう所は、あれなのかな。神様がゼゴットだから、普及させたとかなのかな」
門大は、水の流れる音を聞いて、ふっと思った事を、なんとなく、そのまま呟いた。
「ミュミュ」
ドアが開き、子猫が出て来る。子猫の表情は、どこか、晴れやかだった。
「クラちゃん。なんか、すっきりした顔してる」
「ミャフミャフミャフミャフミャフミャフミャフミャフミャフミャフス」
「もう、すぐには数えられない!?」
門大は、慌てて子猫から離れた。
「ミャンミャー。ミャンミャミャ。ミュ」
子猫が鳴いて、後足で立ち上がると、洋式便器を片方の前足で指し示し、もう片方の前足で、レバーを動かすような動きをする。
「えっと、自分で、こっちのトイレで、できるって、事、かな?」
「ミャー。ミュミャン」
子猫が後足で立つのをやめ、両前足を床につくと、溜息のような息を吐きながら、鳴いて、頷いた。
「そうなんだ。クラちゃんは凄いな。俺だったら、できなそう。でも、無理そうな事とか、できなそうな事とかが、あったら、俺がやるから。そういう事があったら、遠慮しないで、俺にやらせて。猫トイレの交換だって、俺、猫トイレの交換結構好きだったし。猫の健康状態とか分かるからさ」
「ミャフスン?」
子猫が再び後足だけで立ち上がり、爪と犬歯をぎらりと光らせる。
「あ、ああー。分かった。分かりました。猫トイレの話は、やめろって、事だよね? でも、まあ、それはともかくさ、本当に、何かあったら遠慮しないでいいから。こういう状況だし、しょうがないんだからさ。何か、危ない事とかがあって、クラちゃんが怪我とかしたら、嫌だしさ。クラちゃんが元に戻るまでは、俺がなんでもやるから」
門大の言葉を聞いた子猫が、目を大きくする。
「ミャーン。ミャミャッミャ。ミャウゥン」
子猫が鳴いて、お座りをし、顔を俯ける。
「クラちゃん」
また落ち込ませてしまった。謝って、……、いや、ここで謝ったりしたら、俺が気を使ってるって、クラちゃんが思って、逆効果化になるかも。今は、謝ったりしないで、さっきと同じように、あえて、関係のない事を、別の事をしてみよう。門大は、そう思うと、子猫に向かって手を伸ばす。
「おっと。そうだった。続き。部屋の中を見よう。お風呂の場所もまだ分からないし」
門大は言って、子猫を抱き上げる。
「ミャアーン。ミャミューン」
子猫がしょんぼりした様子で鳴いたが、その身を門大の手に委ねて来る。
「こっちは、何かな?」
門大は、言って、トイレのドアの隣にあったドアを開けた。
「ここは、脱衣所? 奥にあるのは、お風呂場か。おお。お風呂発見」
門大はそう言うと、お風呂場の手前にある脱衣所の中に入った。