新宿の夜空は赤くない ~コロナの日々でぼくたち/わたしたちは 2020・春~
新型コロナウイルスの感染拡大で急に小学校が休校になった夏樹。家が共働きで仕方なく祖母の家に預けられることになるが。
1
小学校が突然、休みになった。
新型コロナウイルスが流行り始めているからだという。
ぼくは、どっちかって言うと、――うれしかった。
学校には、シマピーとかトモちゃんとか、仲の良いともだちもいるけど、最近は、ケンタやイクヤが何かと仕掛けてきて、うざいし、嫌だ。
学校が休みになれば、あいつらと顔を合わせずに済む。
でも、ママはパニックになった。
ママは、ぼくが学校に行っている間、毎日、ドラッグストアにパートに行っている。そこでお金を稼いで、住宅ローン返済の足しにしていることを、ぼくは知っている。
それが、急に毎日、ぼくが家にいることになった。
「パートって言ったって、完全に店のオペレーションに組み込まれているんだし、急に調整なんかつかないわよ!」
と、誰彼かまわず、叫び散らしていたけれど。
いよいよ休校が本決まりになると、ついには、バーバ、つまりはぼくの祖母に泣きついた。ママは電話でバーバに頼んだ。
「お母さん、夏樹をしばらく預かってよ」。
バーバの家は、ぼくの家から電車で1時間ちょっとかかる。
少しだけ、田舎にある。
そこには、ぼくの母方の祖父と祖母、それに祖父のおかあさん、つまり曾祖母、ヒーバーバが住んでいる。
バーバは、まだギリギリ50歳代なので、元気はいっぱいだ。
バーバの家にはお正月には家族で出かけるけど、特に海や山があるわけでもない、ただの住宅地で、面白いところは何もなくって。それでも、ぼくが幼稚園とか小学校に入ったばっかりの頃には、ジージやバーバと積み木や電車のおもちゃで楽しく遊んだ(らしい。記憶はあまりない)。今は、行っても何もすることがない。
げ。と、ぼくは思った。
ぼくは、バーバの家に、「預け」られるのか。
なんだ、これじゃあ、ケンタやイクヤと顔を合わせなくなるだけじゃなくて、シマピーやトモちゃんとも遊べなくなる。
2
バーバの家に行ってから何日かは、ジージもバーバも、大騒ぎだった。
ぼくが、もういつまでも幼児ではないということは、さすがに分かっているようで、ボードゲームやトランプを持ってきて、夜も少し夜更かしして遊んだり。
ただ、すぐに分かっちゃうんだけど、結局、そういうゲームって、ゲーム自体の面白さも、まああるんだけど、それよりもむしろ、誰と遊んでいるかの方が大きいんだよね。
ぼくは、バーバもジージも大好きだけど、でも、シマピーやトモちゃんと遊びたい。
それに、何日かすると、バーバたちの方でも、大騒ぎに疲れてきたみたいだった。
あと、ご飯。
バーバは、ママと違って、昼ご飯をカップ麺や、買ってきたタコ焼きやハンバーガーで済ませたりはしないし、夜ご飯もスーパーの惣菜コーナーで買ったガパオライスやハンバーグ弁当で済ませたりはしない。
バーバは、一つ一つ、自分で作る。
それ自体に文句はないのだけれど、…味がね。味が、古風っていうか。はじめは、あ、なんか新鮮。おいしいかも、って思ったのだけれど、こればっかりずっと続いたら、なんか、刺激のない味付けばっかりで飽きてきた。
そう、ぼくは、バーバの家での暮らしに、すぐに飽きてしまったんだ。
そんなある日、昼間にぼんやりとテレビを見ていたら、コメンテイターという肩書のごま塩頭のおじさんが、喋っていた。
「学校をいきなり休校にするから、子供をおじいさん、おばあさんの家に預けている、こういうことが起きてしまうわけだけど、これってどうなんですかね?」
げっ、ぼくのことだ。
「この病気は老人が罹ったら絶対にいけないのに、これじゃ、子供を介して老人に広めているようなものでしょう」
ドキっとした。
グサっときた。
それから、ああ、そうかと思った。
ぼくがジージやバーバ、ヒーバーバに移して、みんなを殺してしまうかもしれないんだ。バーバはまだそんなにお年寄りではなくて元気だけど、でも、「バーバ」なんだから、だから。
ぼくは、そこまで考えたことがなかった。
ぼくは、バーバたちとトランプして遊んでいた。
ああ、ぼくはバカだ。
ママやバーバは、考えたんだろうか。
大人なんだから、考えないはずがない。
でも、仕方なかった。
ぼくを家にひとりでは置いておけないから。
ぼくは感染しているのだろうか。
ぼくは、この家のみんなに、移してはいないだろうか。
それからは、ぼくは、意識してあまりバーバと遊ばず、テレビや携帯ゲームばかりするようになった。
バーバはそれがあまり気に入らないようで、いろいろ話しかけてきたり、一緒に買い物に行こうと言ってきたりした。
だって、移しちゃったらマズイでしょ、と言おうと思ったけど、何だか言えなかった。口にした途端、それがホントのことになってしまいそうだったから。
だから、ぼくはいつも、
「いい、ここでゲームしてる」
みたいな感じになった。
幸い、みんな元気なままで、毎日が過ぎていった。
ジージは、週に4日、仕事に出かけていて、バーバも家事があって、ヒーバーバの世話があって、次第に、ぼくたちはそこでの日常、みたいなのを過ごすようになった。
移しちゃいけない、そのキョーフとキンチョーが1週間たち、10日たち、少しずつ安心、そして退屈に置き換わっていった。それでも、なんだかよくわからない病気のせいで、全部が安心になることはなくって、それでよく嫌な夢を見た。どろどろした赤黒い魔物に追いかけられ、追い詰められ、飲み込まれる、みたいな。それをしょっちゅう、見た。
ただそれでも、それでも。それなのに、退屈はどんどんどんどん大きくなって。
それはそれは、退屈な。でも、不安な。
なんか、うわーっと暴れだしたくなるような感じと、そこにべっとりとくっついて離れない退屈と。
そしてその退屈は、ある日、突然、破られることになった。
バーバが、ギックリ腰になったのだ。
3
「どうすんのよ、こんな時期に、ギックリ腰になっちゃって!」
知らせを聞いて、パートを急遽、早引けさせてもらって駆け付けたママは、ベッドに横たわるバーバに向かって、なかなかにひどい第一声を放った。
「ごめんね。ちょっと、張り切りすぎたかなあ」
いつも元気なバーバも気弱になっている。ちょっと身体を動かすと、いたたたた、と顔をしかめる。
「あのね、お母さん」
ママは言い募る。
「今さ、ドラッグストアはさ、すごい、混んでるのよ。ほら、テレビでもやっているでしょ? マスクとか、アルコール除菌とか、それに、トイレットペーパーにティッシュ。訳わかんないけど、なんか、すごいのよ。だから、すごく忙しくて抜けられない。それに…」
それでママは少し声を落として。
「パパの会社、今回のコロナで、業績がかなり落ち込んでいて。ボーナスはダメだろうって。そうすると、住宅ローンのボーナス払いもあるし。わたし、だからいろいろあって、ちょっとアルバイト、抜けられないから」
「分かってる、分かってるわよ、がんばって早く動けるように」
でも、もちろん、バーバはすぐになんて動けそうにない。
となれば、行きがかり上、ぼくがこう言うしかないじゃないか。
「じゃ、バーバが動けるようになるまで、ぼくが何とかするよ」。
「バーバのギックリ腰サバイバル作戦」が、こうして始まった。
「定年延長」というので比較的自由が利くジージが、夜はかなり早めに、夕ご飯と、翌日の昼ご飯まで買って帰ってきてくれた。洗濯物は、バーバが動けるようになるまで、いけるところまで、貯めておくことにした。掃除もパス。何日か掃除しなかったくらいじゃ、死にやしないと、ジージは平気だった。バーバは嫌がったけど。
ただ1つ、そうやって先延ばしにできないことがあった。
それが、ヒーバーバの世話だった。
とはいっても、ヒーバーバは、トイレは一人で出来るし、お風呂はヘルパーさんが来てくれる。ただ、一人では歩けないので、食事を部屋まで持っていってあげること、クスリをきちんと飲ませること、デイサービスのお迎えバスまで連れていくこと、そういういくつかのことは、どうしても誰かがやってあげる必要がある。
この家に来て、ぼくはヒーバーバにはあまり近づいてはいけないことになっていた。ヒーバーバは、すごいお年寄りだから、健康に気を付けなくてはいけないから、とママたちは言った。ぼくはその理由が、正確には、ヒーバーバは、コロナが移ると死んでしまう可能性が高いから、ということは分かっていた。でも、バーバもママも、そこまでは言わなかった。ぼくのことを、まだ子供だから怖がらせないでおこうとでも思ったのかもしれない。
それが、いよいよ、そうも言っていられなくなった。たぶん、ぼくがバーバの家に来てから、無事にだいぶ日にちが経っていたこともあり、「セニハラハカエラレナイ」、ママとバーバは口を合わせてそう言った。
マスクをして手を洗って、十分に気をつけて、ヒーバーバの世話は、ぼくの仕事になった。
4
ヒーバーバは89歳になる。
僕の10倍近い年月を生きている。
お正月に来る度、挨拶はしたけど、あまりちゃんと話をしたことはない。
顔をよく見るのも初めて、――とは言わないまでも久しぶり。
それで、あれ? こんな顔だったっけ? と思う。
すごいシワシワだ。
腕とかの皮膚がたるんでいて。
それで、喋るのはゆっくり。
ぼくが早口で言うと聞き取れないみたい。
それから、おんなじことを何度も繰り返すから、ちょっとくどい。
あと、カタカナに弱い。
ヒーバーバは、コロナウイルスのことを「コレラウイルス」と言う。
ぼくが全然違うよ、と笑って説明すると納得する。
でも、翌日はまた、「コレラウイルス」と言い間違える。
そんな感じだ。
「わたしも随分長い間生きてきたけど、伝染病が流行って外に出られなくなるなんて、こんなの、初めてよ」
とヒーバーバは言う。
ご飯を持って行くとき、食べ終わった後でそれを下げるとき、それからそれから細々とした用事もあって、バーバが動けなくなってからは、結構しょっちゅう、ヒーバーバの部屋に行った。
ヒーバーバは笑って、必ず、「ありがとう」と言った。
悪いわね、と言った。
何日かすると、ぼくは、ヒーバーバの生きるスピード感に、だんだんに慣れていった。
それと同時に、ヒーバーバの部屋にあるいろんなものが目に入るようになってきた。
仏壇の横にある、白黒の古い、とてもとても古い写真。そこには、すっきりと微笑む、髪の短い若い男の人が映っている。
「ヒーバーバ、これは誰?」
と聞いてみる。
「お兄さんよ」
とヒーバーバは答える。
「お兄さん?」
この、二十歳くらいの男性が、ヨタヨタになっているヒーバーバのお兄さん?
「ヒーバーバに似ているでしょう?」
言われて見比べてみるけれど、全然、分からない。
ぼくが首をひねっていると、
「ふふふ」
とヒーバーバは小さな女の子のように笑った。
それで、仏壇の引き出しから、1枚の写真を取り出した。これまた、古い古い、とてつもなく古い、白黒の写真だった。
そしてそこには、ぼくと同い年くらいの女の子が映っていた。女の子は、写真の若い男の人によく似ていた。
それだけじゃない、ほかにも、誰かに似ていた。ええと、誰だろう?
あ、ぼくだ。ぼくに似ている。
「これ、ヒーバーバの子供の頃。もう、こんな昔の写真は、これと、あと2、3枚しか残っていないわ」
ヒーバーバだって、子供の頃はあった。
それくらい、ぼくにでも分かる。
ただ、実感が湧かなかった。
それが、目の前の写真で、あ、ホントのことなんだと急に思えてくる。
「ヒーバーバのお兄さんは、まだ生きてるの?」
「死んだわ、戦争で」
今から何十年も前に、日本がアメリカと戦争していたことは知っている。原爆や空襲があったことも知っている。アニメで見た。
「戦争、たいへんだった?」
ぼくは、いくつかのアニメを思い出した。原爆で身体が溶けたり燃えたり、何年経っても血がだらだら止まらなかったり。あるいは、空襲で落ちてきた爆弾で腕が吹き飛んだり。――どれも怖かった。小さかったぼくは、何度も泣きそうになった。
でもヒーバーバはぼくの質問には答えずに、
「家族みんなで疎開したのよ」
と言った。
「お兄ちゃんは兵隊に行ってしまったけれど、身体の弱かったお父さんは兵隊には取られなくて、それで、お父さんの実家のあった東京都下の、いまの調布市のはずれに、家族で引っ越したの。そうやって疎開したのに、――でもヒーバーバは、小学校からの帰り道に、何回か、アメリカの爆撃機に狙われたことがあるのよ」
えっ?
さらっと言うけど、マジかそれ。
「そのとき、何歳?」
「10歳くらいかしらね」
いまのぼくより、ほんの少し、年上なだけだ。
「怖かったでしょ?」
「怖かったわよ。だだだだって、爆撃機から機関銃の弾がヒーバーバをめがけて飛んできて、それで、慌てて麦畑の中に飛び込んで隠れたの。そうしたら、爆撃機はそのまま飛んで行っちゃった。――その後しばらくは、なんか、魂を抜かれたみたいになって、ぼんやりとその爆撃機が飛び去って行くのを見ていたの。真っ青な空に、いくつか白い雲が浮かんでいる、その中を爆撃機は遠ざかって行って、それで見えなくなった」
ぼくもまた、麦畑の中で、その飛行機を、青空を、眺めたような気がした。
少ししてから、ヒーバーバはちょっとため息をついた。
「もうその頃には、お兄さんは南の国の戦場で死んでいたんだわねえ。戦死が知らされたのはもっとずっと後のことだったけれど。――ねえ、夏樹ちゃん、お兄さんにお線香あげてくれる?」
ヒーバーバがマッチで火を点ける。
ちょっと、あぶなっかしい手つき。バーバは、危ないからヒーバーバにはライターを使ってほしいようだけど。ライターを置いておいても、ヒーバーバはマッチの方を使ってしまうのだ、習慣だからって。
それで、ヒーバーバが線香にマッチを近づける。
線香の先が小さく赤く灯るまでの間、火が燃え続ける。
火を近くでじっとみることなんて、あまりない。
なんか、どきどきする。
ヒーバーバなんて、爆撃機に襲われたっていうのに、ぼくはまったく小心者だ。
やがて線香から煙が昇り、マッチが消され、線香が立てられる。
ぼくたちは、仏壇に向かってじっと手を合わせる。
「空襲があるとね、防空壕に入るの」
ヒーバーバは仏壇の方を向いたままで、でも、視線はもっと遠くに向けながら、話した。
「空襲はしょっちゅうあって。――新宿に爆弾がたくさん落ちた夜があってね」
高層ビル群や、電器屋さんや、日本で一番かもしれない、派手やかな新宿に、昔、爆弾が落ちた。
「爆撃機は、ヒーバーバのいた調布のあたりは通り過ぎて行って。みんな、新宿あたりまで飛んで行って、そこで爆弾を落としたの。たくさん。すごくたくさん。それで全部焼けて、焼け野原になった。――あの夜、ヒーバーバは、防空壕から少しだけ顔を出して、外を見ていたの」
「そんなことして、大人に怒られない?」
ぼくは、びっくりして尋ねた。
「うーん、怒られた記憶はないわね。こっそり覗いたから、見つからなかったのかしら。でも、外が見たくて、それで覗いたの」
物静かで大人し気なヒーバーバが、そんなことをしたのは、意外だった。
「そうしたら、調布からだったけど、新宿までよく見えたの。あの頃は、高い建物なんて、何にもないから。――新宿の空がね、赤いの。街が空襲で燃えて、真っ赤。夜の暗い空がね、真っ赤だったのよ。」
赤い夜空なんて、ぼくは見たことがなかった。
世界が壊れて、宇宙も壊れて、ものすごい高温のマグマみたいなのが噴き上がって、それで全部が溶かし尽くされて、みんな燃えて死んでしまう。ぼくが見ていた悪夢みたいな。ヒーバーバは、そんなふうには思わなかったんだろうか。怖くて怖くて、普通だったら絶対に、外を覗くことなんで出来ないんじゃないだろうか。ヒーバーバは、もしかして、すごい勇敢な女の子だったのではないか。
「ヒーバーバは怖くなかったの?」
「怖いはずなんだけど、怖さもどこかに行っちゃっていたのね。それでただ、わたしは、あの夜は、ずっと空を見ていたの。ずっとその赤い、闇とまじって赤黒い、それから、もっといろんな色も混じった、その新宿の夜の景色を見ていて、それで、その時のことを覚えているのよ。それを、何十年経っても覚えている。いまでも、はっきり覚えているの」
ヒーバーバは、仏壇の前から離れて、よいしょっと掛け声をかけながらベッドの端っこに座った。あーくたびれた、と表情が語っていた。
「それで、今みたいに、思い出すの?」
「そうね。いろんなときに、ふっと思い出すの、あの新宿の夜空の赤いことを」
「怖い思いをした時とかに思い出す?」
「それもあったかな」
「え? じゃあ、楽しい時も?」
「それもあったかもしれない」
「悲しい時は?」
「それもかしらね」
「じゃ、どんな時でも?」
ヒーバーバは、そこで、魔女みたいに笑った。たぶん、悪い魔女じゃない、良い魔女だよ。でも、何百年も生きてきた魔法使いの微笑み。
「そう、どんな時でも。――これからボケていっていろんなことを忘れてしまうのかもしれないけれど、なんだか、あの空の色だけは忘れないような気がするの。最後の最後までね」
5
バーバのギックリ腰はそれから数日もしないうちにだいたいよくなって、ぼくのヒーバーバのお世話係は終了した。それで、ぼくは、ヒーバーバとそんなに話をすることもなくなった。
そのうち、ジージが会社には行かずに家で仕事をするようになった。「ザイタクキンム」だ。
そして間もなく、今度はパパも、1週間の半分は会社ではなく家で仕事をするようになり、となれば、ぼくをバーバに預けておく必要もないということになった。合計1か月弱で、ぼくのバーバの家での生活は終わりを告げることになったのだ。
家に戻っても遊びに出てはいけないと言われた。でも、バーバの家での毎日には退屈しきっていたから、正直、ぼくはほっとした。バーバは、ぼくの去り際には、ちょっと涙ぐむくらい寂しがったけれど、まあ、ぼくの方としてはちょっと申し訳ないけれど、やれやれというところだ。
帰ってくる日、ジージは出勤でいなくて、ヒーバーバは、さよならをしにいったら、小さく手を振ってくれた。
そして、パパとママの待つ家に戻ったら、そこはそこで、また、かなりへんてこな毎日が待っていた。
日中、パパがリビングを占拠した。パパには自分の部屋がないので、ここを使うしかないのだと、威張っていた。まあ、仕方ない。それで、パパが仕事をしている間、ぼくは、去年もらったばかりの自分の部屋に引っ込んだ。
お昼ご飯は、カップラーメン、インスタントのホットケーキ、レンジでチンのチャーハンやスパゲティとか、そんなのの繰り返し。それをパパが作って、一緒に食べる。
ママは、夕方、パート先のドラッグストアから帰ってくると、ものすごく丁寧に手洗いして、うがいして、わがままな客と、従業員のことを考えない店長の文句を機関銃のようにぶっ放す。
パパは慣れたもので、ママの機関銃を聞いているような聞いていないような対応。でも、パパも時々、会社の「クソ野郎」な課長さんや、「ツケアガッテイル」後輩や、「ゴーマン」なお客さんのことを、機関銃で一斉射撃する。
そうするとぼくは、ああまあ、いろいろ大変だよねえと、窓を開ける。
窓の外、昼間なら、気の抜けたようなのんびりした春の青空には、幸い、アメリカの爆撃機はいない。
夜でも、新宿方面の夜空は街の灯で明るいけれど、空襲で赤黒く染まっている、なんてことはない。
ヒーバーバ。それから、ヒーバーバのお兄さん、新宿の夜空はまだ今のところは赤くないよ。
学校がいつ開くのか、パパのボーナスがちゃんと出て住宅ローンが払えるのか、伝染病がいつ収まってくれるのか、いまのぼくには何にも分からない。
でも、ぼくたちは運がよかった。ヒーバーバが、小学校からの帰り道、爆撃機の銃弾に当たらなかったように、ぼくは感染していなくて、バーバの家に預けられていた時も、ヒーバーバたちに移すこともなかった。どこかで一つ、違っていたら、どうなっていたか分からない。
この先のことは分からないけどでも、まだ、新宿の夜空は赤くないよ。