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夜猫

作者: カワウソ

(音信不通とか、本当にあるのね)

鈴子はいつもの電車から見える風景を眺めながら、頭の中で呟いた。

冬も終わりを告げ、春にさしかかった空はもう、朝7時でもやわらかに明るかった。郊外から一時間半かけて銀座の会社まで出勤するので、鈴子の朝はいつも早い。電車は座れないが、混みあうこともない。ドア付近で壁にもたれかかりながら、流れてゆく民家や川やビルを眺める。奇抜なピンクと黄緑に塗られたラブホテル「モンスーン」をどうしても意識して見てしまう。


シュウから連絡が来なくなって一ヶ月が経った。


シュウにいくら連絡をとろうとしても、一切返事はなかった。メールをいくら送っても、返事はない。電話しても、出ない。思いつくかぎりの可能性を考えたが、納得しきれないストーリーしか思いつかなかった。喧嘩したわけでもない。最後のデートでは、あんなに笑って、強く抱きしめてくれたのに。本当に、急に、ぱったりと、シュウは鈴子の生活から消えた。

(まァ、それでも仕事に行くんだけどねー…ちゃんと)

 鈴子は大手電気機器メーカーで事務をしている典型的なOLだ。どんなにプライベートが辛くとも、大したことのない業務でも、仕事には行かねばならない。

シュウは仕事をしていなかった。

(働いてない人間なんて、そんなもんか)

ふっと周囲に目をやると、若い男から、くたびれた中年の男まで、グレーのスーツに身を包んで、目を閉じてじっと、電車に揺られている。ガタゴトという電車の音だけが響いて、本当に私たちは運ばれているなあ、と鈴子は思った。皆何を考えているのか。何も考えていないのかもしれない。

(シュウは何を考えていたんだろう)

鈴子には、わからない。



「おっつかれさまでーしたー!」

すっかり酔っ払った菅原は、上機嫌で叫んだ。もう十時である。夜の新橋には似たようなサラリーマンやOLがいっぱいだった。鈴子もほろ酔いで、楽しい気持ちだった。突発的に開催された飲み会に強引に誘われ、会社の人間と飲むのはあまり好きではないが、シュウのことを考える時間が少しでも減るので、行くことにした。実際、ひさしぶりに楽しいと思った。

 菅原は、若手の男子社員の首に手をかけて、絶好調だった。

「二次会!二次会行くぞ!明日は土曜だしな!」

「マジっすかぁ〜菅原さん、行きますか〜」

「今日は天竺までいくぞぉオラぁ!お前ら〜!」

天竺って。鈴子は思わず笑い、すっかり盛り上がっている、普段は口うるさいばかりの上司をなんとなく微笑ましく眺めた。若干頭が薄くなって、メタボ寸前体型を気にしているらしい菅原は、仕事には細かいが憎めなく、根は優しい人間だった。鈴子は嫌いではなかった。

「星山さんは、二次会行く?」

話しかけてきたのは先輩の安藤だった。二つ年次が上で、仕事をするチームが別のため、普段そんなに話したことがない。男性社員の中でも落ち着いていて、真面目な仕事ぶりに定評がある。「安藤さんって、なんか安定感っていうか安心感があるよネ」という、同期の言葉を思い出した。

「いいえ」

「あ、そう…」

「私、家、遠いんで。これで失礼します。安藤さんは行くんですか」

「僕はね。まあ、あの人がアレじゃあ、行くしかないでしょ」

安藤はそう言って、楽しそうな仕草で菅原をこっそり指差した。菅原は両手に男子社員を抱えながら、大声で長渕剛の「とんぼ」を歌っていた。

「じゃあ、また」

「お疲れ様でした」

そう言って、その場にいた人間はそれぞれの場所に散っていった。菅原についていったのは、ほとんど独身の男性社員ばかりだった。家庭がある人間や、独身の女性社員は、それぞれが自分の場所に帰っていった。




最寄り駅に着いたのは日付が変わる頃だった。鈴子の住む街はそれなりに活気があり、都心にはやや遠いが、住みやすい所だ。自宅のマンションまで歩いて十分程度だが、やはりこの時間帯だと、家に着くまでは不安になる。ショッピングモールもすっかり暗くなっているし、たまに酔っ払いが路上で眠っていたりする。最近あった事件では、住んでいる同じマンションの男に連れ込まれて、バラバラにされた女性がいた。確か粉々に骨まで刻まれてトイレに流されたのだ。自分の墓場が下水道になるなんて、考えただけでぞっとする。

ショッピングモールを抜け、川に渡る橋を越えると、住宅街に入る。どの家々も電気が落ちて、眠りに入っている。錆付いた街灯が、蛾をとりまきにして、もったいぶって点滅している。ただ、歩く、家まで。家に着いたら明かりを点けて、お湯をわかしてお風呂に入ればいい。お風呂から上がったら、ウィスキーを飲もう。シュウは、お酒が飲めない人だったな…


「にゃあ」


唐突に、猫の鳴き声が、強く思考を遮った。

振り返ると、道路の真ん中に、黒猫が一匹、座っていた。

「にゃあーん」

若い黒猫は、また、鳴いた。黄金色の丸い目を見開いて、口を大きく開いた。尖った白い牙が、ぞろっと揃っていて、繊細に震えていた。鈴子は美しい黒猫に見とれ、緩やかに微笑んだ。艶やかな夜色の毛並みに、触れたいと思い、手を伸ばした。その瞬間、猫は言った。唐突に。

「この世には二種類の人間がいる」

猫はしゃべった。鈴子はきょとんとした。でも、猫は確かにしゃべった。黒猫は真っ直ぐに鈴子を見つめて、ゆっくりと近づいてきた。

「この世には二種類の人間がいる」

また、言った。黒猫は鈴子の足元で止まり、ゆっくりとした仕草で座った。

「何だと思う?星山鈴子」

問いかけにぽかんとしていた。どうして私の名前を知っているのか、いやどうして猫の癖にしゃべれるのか…

「何だと思う?」

よく分からないまま、ただ首を振った。黒猫は、笑った。猫が笑うことがあるのか、と思ったが、確かに口の端を吊り上げて、笑った。挑戦的で、鈴子をばかにしたような笑い方だった。しかし、次の瞬間にはその表情に湛える感情はすっと穏やかになって、鈴子の足元でしゃっきりと座りなおした。

「心に猫を飼ってる人間と、そうでない人間」

黒猫はそう言った。

「は?」

鈴子はすっとぼけた声を出した。

「正確には、心に猫を持ってる人間と、そうでない人間」

黒猫は、繰り返した。

「そして、俺はお前の猫なんだ」

「は?」

もう一度、すっとぼけた声を出した。黒猫は鈴子の脚に巻きつくように、擦り寄ってきた。

「俺の名前を、決めてくれ」

「は?」

「名前」

足元にからみつく柔らかい毛玉の塊に、鈴子は正常な判断ができないままでいた。酔いが残っている、そのせいかもしれない。猫がおかしな話をしている、私は本当におかしくなったのだろうか…。

「…夜」

「ヨル?」

「夜だから、今。若干頭おかしいのかも、私」

「ははぁ。じゃぁ俺は『夜猫』だ」

夜猫は、そう言って鈴子に寄り添った。頭は混乱していたが、そのままでいても仕方ないので、家に向かって歩いた。夜猫もついてきた。ときたま黄金色の爛々とした目をこちらに向けたが、また真っ直ぐに前を見て尻尾をぴんと立てながら、歩いた。鈴子の隣で。猫と二人で、帰った。


 夜猫は、鈴子の部屋のベッドで丸くなりながら、心地よさそうにしていた。まるで長い間暮らした家に戻ってきたようにくつろいでいる。狭いマンションの一室に突然自分以外の生命体があることに鈴子は違和感を感じつつも、何かこみあげる嬉しさに気づいていた。シャワーを浴びた後、ウィスキーの瓶を片手にロックを作り、裸同然の姿で夜猫の傍に座った。

「あんたなんで喋れるの。人間の言葉」

「言っただろ。俺はお前の猫だから」

「意味わかんないよ」

「お前の心に聞いてみたらいい。俺はお前の心に棲んでるから」

「意味わかんないよ」

しかし夜猫は何ももう言わず、黄金色の目を細めるだけだった。夜猫は美しい猫だった。脂肪の付き過ぎない優美なラインと、艶やかな毛並み、丸い黄金色の瞳、浮かべる表情はそこはかとなく憂いを湛えている。寂しそうな顔つきがなんとなく自分を見ているように、鈴子はふっと錯覚した。自分は本当に頭がおかしくなったのかもしれない。ウィスキーが、疲れた身体に浸透して意識が遠のく。

「ねえ」

「何だ」

鈴子は猫に手を伸ばした。艶やかな毛並みを撫でながら、

不思議な生き物をじっと見つめた。

「私、あんたのこと好きかも」

「当たり前だよ」

…何が当たり前なのだろう。鈴子は猫の態度に複雑な気分になった。本当はこの猫を追い出してしまわないといけないんじゃないだろうか?惹かれてはいけないんではないか…なんとなく咎められるような、自己嫌悪に近い感情が、鈴子の心を曇らせた。

「この世には二種類の人間がいる、って言ったよね」

「言ったよ。心に猫持ってる人間と、そうでない人間」

「…シュウは?シュウも猫持ってたんかな」

夜猫は少し、黙った。

「ソイツのこと好きなの?」

「すごく好き。とっても好き。」

「どういうとこ好きなの」

「顔とぉ…煙草吸う仕草と…珈琲飲む仕草と、優しい笑い方と、頭いいとこ、本いっぱい読んでるとこと、…」

「セックスしたの?」

「…してない」

猫の癖に、ストレートな問いに鈴子は戸惑った。けど、この猫に恥ずかしがる必要なんてないと言い聞かせ、答えた。

「なんで?」

「…すごく好きだったから。こわかった。待ちたかった。簡単に渡さないようにした。大事にしようと思ったの」

「そうしたら、連絡こなくなったのか」

「うん」

「あ、そぉ」

夜猫は寝そべっている鈴子のお腹に座って、丸くなった。猫の体温がいやにリアルで、鈴子は性的な興奮を微かに覚えたが、振り払って目を閉じた。ぐるぐると酔いがまわり、忘れそうになるシュウの顔を忘れまいと、強く思い出した。私はシュウが好きだ。この気持ちは嘘なんかじゃない。シュウ。会いたい。

「セックスしなくて、お前はおりこうさんだったと思うよ」

気持ちを遮るように、夜猫は、言った。

「そいつ、たぶん猫飼ってるよ」

ああ、やっぱり。私とシュウは似てたもの。

「猫持ってる人間同士ってな、やっぱなんかうまくいかんのよ、鈴子」

続く猫の言葉に、鈴子はぐらぐらする視界から目を見開いた。

「相手の人間のことよりも、自分の猫のほうがかわいくなっちまう。どうしても」

鈴子はそれに答えなかった。そんなことは分かっていたからだ。ただ、それでも、鈴子が欲しいのは猫ではなかった。そうできると思っていた。はらはらと意志とは関係なく、涙が流れた。夜猫はざらざらした舌で、その涙拭った。

「あんたなんて、嫌い」

「さっき俺のこと好きだって言ったじゃないか」

「あたしはお前の事なんか好きじゃない」

「それでもいいよ。それでも俺は鈴子のものなんだ」

「痛いよ、痛いから、お前の舌」

涙がとめどなく溢れ、夜猫はそれを拭い続ける。塩っ辛いだろうなと思いながら、鈴子は声を押し殺して泣き続けた。夜猫は、ざらざらと目尻から顎にかけて、涙を拭うように舐め続けた。



 目が覚めたら夜猫はいなかった。もう昼過ぎだった。夢だったのかもしれない、と思った。喋る猫なんているわけないじゃないか、きっと酔っ払いすぎていたのだ。実際、二日酔いで頭がぐるぐるする。こめかみを押さえながら、珈琲豆を挽いた。シュウが好きだったモカ・マタリがまだ残っている。早く飲んでしまいたい。香りというのは、人の記憶にどうしてこんなにも残るんだろう。

 珈琲用のお湯のために薬缶に火にかけ、豆を挽き続けていると、携帯が鳴った。新着メールが一件。「昨日は菅原さんに付き合って四次会までありました(笑)最後はカラオケだったんだけど、とても菅原さんが楽しそうで僕としても嬉しかった。でも、星山さんがいなくて少し残念でした。今度また、皆で飲みましょう」

安藤からだった。


安藤は、いい人だ。本当に、いい人だ、きっと。

(ただ、安藤さんは、きっと猫を持ってない)

馬鹿げた夢の中の猫の言い分を信じている。

珈琲豆の立ち上る香りを嗅ぎながら、不思議な黒猫を思い出す。

そして、シュウのほっそりした後姿を思い出す。まるで猫のような優美な後姿。


もう一度、もう一度だけ、彼に逢いたい。


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