19 また行きましょうね
「月待さん、その……もしかして怒ってる?」
「……いえ、怒ってなどいません。そもそも怒る理由が私にはありませんし」
その割には言葉に刺々しさが含まれている気がする。
朝川ちゃんが帰ってから、月待さんはいつも通りにテキパキと何やら作業をしていたのだが、明らかに不機嫌であった。
おそるおそるその理由を尋ねてみるが返ってくる返答は同じものであった。
怒る理由がありません……。
確かにそう言われて見ると、今さらだが月待さんはなぜ怒っているのか疑問になる。
月待さんの性格からして、自分が狭いところに隠れている間に楽しく談笑をされていたからと言っても、彼女の性格からしてその程度のことで怒ったりはしないと思う。月待さんも俺にとっても非常事態であったことは分かっているだろうし。
そうなると、本当に月待さんが怒っている理由に見当がない。
「……………………」
座っている月待さんの様子を窺ってみれば、綺麗な瞳を忙しく動かしながら本を読んでいた。
これから出かけるって約束をしてはずだが……どうやらなかったことになったらしい。
沈黙だけが過ぎていく。
……このまま重い空気になったままでは日常生活に影響が出てしまう。
こういうのは俺の性分ではないが、月待さんのご機嫌をとらなければならない。
しかし、俺にはご機嫌をとると言っても、女性がどういう事で喜ぶのか全く想像ができない。
こういう時にあいつがいてくれれば助かるのだがいないのだから仕方ない。
出来る範囲で全力を尽くそう。
そうだな、月待さんの喜ぶこと、喜ぶこと……って、待て。
こうして改めて考えてみてわかったが、俺は月待さんとある程度一緒に暮らしているのに月待さんのことを全く知らないじゃないか。
どういう食べ物が好きで、どういう物が好きなのか、好きなスポーツはなんなのか、好きな音楽はなんなのか、そんなことさえ知らないでいた。
きっとこんなんだから、あいつに唐変木だとか言われるんだろうな。
とにかく月待さんの喜ぶことが分からないのなら、一般的な女性が好きそうなことをしてあげるに限る……って、待て!
俺はそもそも一般的な女性が何が好きなのかさえも知らないではないか。
なんということだ……これでは何もしてあげられない……。
『好きな食べ物とかあるの?』
ふと脳裏に浮かぶ上がった情景は、バイトの暇な時間に、朝川ちゃんと少し与太話をしていた時のことだ。
好きな食べ物……これはご機嫌をとるのにちょうどいいのではないのだろうか。
そうとなれば思い出せ、朝川ちゃんの思考は普通の一般女性の好きな部類からは外れていそうだが、朝川ちゃんも女の子だ。
あの子が好きなものなら、月待さんだって好きかもしれない。
思い出して、その食べものが売っているお店に月待さんを連れていってあげよう。
そしたら不機嫌な理由は不明だが、機嫌になってくれるかもしれない。
思い出せ、俺。
『何ですか、何ですか!? もしかして私にプレゼントしてくれるんですか!? あ、でも、誕生日は来月の末ですよ!』
いや、違う、ここじゃなくて、この後だ。
『単に好きな食べ物が知りたい? ……ですか。岡崎先輩、変人だとは思ってましたけどあまりにも唐突ですね。まあいいですけど、そうですねえ……私の好きな食べ物は……』
そうだ! 思い出した、あの時朝川ちゃんが言っていたことを思い出せた。
あれならきっと間違いはないんじゃないんだろうか。
朝川ちゃんの思考も偏ってなさそうだし、そうとなれば早速月待さんを誘おう。
「月待さん、せっかくの休みだし出かけない?」
あくまで月待さんは不機嫌である。なるべく優しい声音で誘ってみると、月待さんは水色の瞳を意外そうにこちらに向けた。
「いい……ですよ」
なんとなくだが仄かに月待さんから刺々しい雰囲気が消えて柔らかくなった気がした。
パタンと手を合わせるように本を閉じると、月待さんは探るように瞳を覗かせた。
「おでかけは私も賛成です……ですけど、どこに行くのかは決まっているのですか?」
真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
正直これから行こうとする場所、ものを……月待さんが好いてくれるか分からないので才先は不安だが静かに頷いた。
「友達が好きなお菓子屋さんがあってね。月待さんにも食べて欲しいと思ったんだ。ホント言うと俺も食べた事ないから自分もたべてみたいっていうのはあるけど……どうかな?」
「お菓子……ですか」
これは中々良い反応ではないか。
今まで幾度と声を掛けても素気ない顔色しか見せなかった月待さんが、ピクリと肩を震わせたのだ。
やはり、前のラーメン屋さんの件もあったが、女性という生物は食い意地が張っているらしい。うん、一つ学習した。
「ちなみにそのお菓子屋さんというのは、何のお菓子屋さんなのでしょうか……?」
海色だった透明な瞳が、今はキラキラしながら俺に向けられている。もうお菓子が食べたくて食べたくて仕方ないのだろうか。
「……岡崎くん、おかしなことを考えていませんか?」
しかし困った。
聞かれてから思い出したが、あの時朝川ちゃんは俺の、君が好きな食べ物は何か? という質問に、ここのお菓子屋さんが大好きなんです! とてもオススメです! と言っていたのだ。
俺はそれを思い出してそこに月待さんを連れていこうと思ったが、何のお菓子屋さんなのか聞いていなかった。
「聞いてますか……? もう……」
今更期待の眼差しを向けられている状態で、知りませんなんて言い難いし適当に誤魔化しておこう。そう、なんといっても俺はそういうそれらしいことを言って場をやり過ごすのが大の得意なのだから。
「えーと、ついてからのお楽しみってことで……」
俺の言葉を聞いた月待さんは、目を見開いてから若干不服そうに眉を吊り上げて見せた。
「隠すようなことでもないではないですか……岡崎くんらしくないですね」
「そうだけど……それはほら……知らない状態で行ってから、ああこれだったんだ! ってなった方がドキドキして面白くない?」
割と上手く誤魔化せた気がする。どや顔になりそうなのを我慢しながら月待さんを流し見ると、納得がいかないというような顔でいた。
「……そうでしょうか? 私は事前に知っていて、楽しみにしながら道を歩き、期待に胸が膨らんだ状態で待っていたものを得た方が嬉しいとおもうのですが」
そう言われてみるとそうだ。
怒っているのか? わからないが、せっかくちょっと機嫌を直してもらえたのだ。こんなくだらないことをもったいぶって状況を悪化はさせたくはない。ここは正直についポッと思いついて誘ったことを自白したほうが賢明だ。
「実は……」
「……ですが、普段自分からなかなか誘ってくれない岡崎くんがせっかく誘ってくれました。私としてもお菓子が何か分からない状態でお店に行くのはわくわくするのは否定できません。分かりました、今からそのお菓子屋さんに一緒に行きましょうか」
なんだか上から物を言われているようでムッともしたが、話終えた後に見せた月待さんの笑顔を見ていると自然と相槌を打ってしまっていた。
「うん、そうしようか」
恐るべしクラスのカースト上位美人。
最初は人見知り……もとい警戒をして俺に話しかけてくることもなかったのに、気づいたら月待さんから声をかけられることが増えた気もするし会話のペースを握られがちだ。
なのだが、それもなんだかイヤじゃないとも思えていた。
「……楽しみですね、お出かけするの」
☆☆☆
朝川ちゃんは言っていた。
『学校に行く途中にある大きい階段があるんですけど、あそこって凄い階段の数なので見るのも嫌になるじゃないですか。なんですけど実はあそこの階段を上り切った頂上の先に細道がありまして、その細道を抜けた先の道角に小さなお菓子屋さんがあるんですけど、そこのですね、お菓子がとっっっっっっっっても美味しいんですよ。今度一緒に行きましょうね!』
とても愉しそうに朝川ちゃんがそう言っていた通りに道を来たのでここで間違いないだろう。
「着いた」
「こちらのお店ですか」
目の前には小柄ながらも、綺麗なお菓子屋さんがあった。外観はピンクの屋根のようなものと白い外壁で覆われておりお菓子屋さんというよりケーキ屋さんという感じだ。しかしガラス張りの中を覗いてみれば、街角のコーヒーショップみたいに座って食べる席まである。中では女性たちがケーキを摘まみながら愉しそうに談笑していた。
「思ったよりもちゃんとしたところだね」
「……はい、可愛らしいお店作りでとても良いと思います。まさか、あの階段を上った先にこんな大通りがあるとは思いませんでしたけど」
関心気に首を横に向けた月待さんの視線の先には、田舎よりの我が街では考えられないくらいの車が通っていた。実は、階段を上りきって細道を抜けた先の角に朝川ちゃんはお菓子屋さんがあると言っていたのだけど、お菓子屋さんは細道を抜けた先にある大通りに沿うように点在していたのである。
だがまあ本当に月待さんの言う通りである。まさかあの百段以上はある、誰も好き好んでいくことのない、近くの小学生の遊び場になっている長い階段の先にこんなお菓子屋さんがあるとは思わなかった。
「中で座って食べれるみたいですね、行きましょうか」
まじまじと大通りを眺めていると、月待さんが声を弾ませてお店を見ていた。月待さんの視線を追うと、店内の席はちょうど二人分空いていたので二人でゆっくりお菓子を食べながら座ることができる。内装もオシャレな感じなので、遠出はしてないが、したような気分になれそうでなによりだ。
期待に色を見せる月待さんに頷いて一緒にお菓子屋さん、『白兎屋』に入った。
内装は外から見た感じと同じで、ケーキ屋さんのようにガラス張りにされたケースに沢山の色とりどりのお菓子屋やお餅やケーキまでもが並んでいて、その女性を虜にするガラスケース以外は街角のコーヒーのお店みたいに落ち着いた丸テーブルを椅子が取り囲むようにしておかれていた。
「いらっしゃいませ。お二人のお客様で……!」
瞳を瞑りこれでもかというくらいに爽やかな接客スマイルをしていた店員さんが、月待さんを見て言葉を詰まらせた。
「ふぇ……………………あっ」
隣からハッとしたような吐息がもれた。
何だろうと思い隣を見ると、お姉さんがびっくりしていた原因がすぐに分かった。月待さんも分かっているようで恥ずかしそうに頬をピンク色に染めながら、パーカーの帽子を深く被った。
そう、普段出かける時、近くのスーパーに買い出しに二人で行く時は、学校の皆に二人でいると思われないように月待さんがパーカーを被っているのだ。それはいつものことで、月待さんにとってもなんでもない日常習慣になっていたのだが、スーパーの店員さんはいつも見慣れているから大丈夫だったのかは知らないが、パーカーを帽子を被って来ているのは、やはり世間一般から見ると変だったようである。
「すみません……」
申し訳なさそうに片目を眇めながら俺に謝る。
「全然」
パーカーを被るなら男の俺で言いだろうということで、前に月待さんに俺がパーカーを被ろうと言ったのだが、「それは恥ずかしいです……」と否定されてしまったことがあったな。
「あ、失礼いたしました。すぐにお席にご案内いたしますね。お客様はお二人でよろしいでしょうか?」
「はい。二人でお願いします……」
どうでもいいことを思案していると、こちらですよ、そう言って手を添えた店員さんに月待さんが頷いていた。
案内されたのは、端の方に空いていた二人掛けの席だ。俺たちはそこに向かい合うようにして腰をかけていた。
「当店はただいま絶賛食べ放題キャンペーンとなっておりますので、制限時間が一時間以内なら、どのくらいでもあちらにありますお菓子類が食べ放題となっております。なので、ご自由に好きなだけ取ってもらいましてお菓子の白兎店を満喫して頂けたらと思います。ちょうど一時間が経ちましたら呼びに来ますね。最後に注意点として、残してしまうとその分を計量させていただき、グラム数により返金してもらう形になっておりますので、そこはご承知おきください。それではごゆっくりどうぞ」
饒舌にそう言うと、訓練された兎の森の店員さんは線を書いたような斜め四十五度のお辞儀をしてから、他のお客様のところにいった。それを静かに見届けてから月待さんに向き直る。
「さてと、何か取りに行こ」
二人で来たのに分かれてお菓子を取りに行くのは変だ。なので二人で一緒に見ながら選ぼうと誘うために前に座っている月待さんに言う。
すると。なんだか物凄くそわそわしているではないか。
そりゃあもうこんな月待さん見た事がないくらいのレベルでそわそわしている。我慢ができないのかチラチラとガラス張りのケースの方を見ているし、目を輝かせながら、店内や店内にいる他の人に恍惚に近い瞳を向けている。
「どうしたの? もしかしてお菓子とか甘い物は嫌いだった?」
「そんなことないです。お出かけする前に言った通りに楽しみにしていたくらいなので嫌いなわけなく、むしろ好きです……」
やってしまったかと、額に冷や汗を感じながら問いかけた俺に、月待さんはそんなことないですよと大きく首を振って否定してくれた。
にしても、ここまで興奮している月待さんは珍しい。
不思議そうな目をしている俺の心情を悟ったのか、月待さんはやや恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに頬を綻ばせてみせる。
「岡崎くんなら知っていると思いますが、わたし……お金があまりないので……実を言うとこういう可愛いお店に来たことがないんです……。なので、何と言いますか、嬉しくて……」
顔を真っ赤にしながら恥じた事を言うように顔を顰める月待さんに、俺はなんだか思ったよりも意外で笑ってしまった。
「な、なんで笑うんですか……?」
おっと、しまった。つい本音が顔に出てしまった。
僅かに口許を尖らせたて睨んできていらっしゃる。
「いや、月待さんって学校ではいつもシャンとしてるからさ。なんだかこうほわわんとした月待さんを見るのは珍しくておかしかったんだ」
素直にそう言うと、月待さんはバツが悪そうに瞬きをしてから。
「先ほどの私は忘れてください……」
そう凛然とした言葉を残し。
さあ取りにいきましょうか、時間制限もありますし……そう小さな声で言って立ち上がった。
これもまたおかしくて笑いそうになったが今は我慢しておいた。
ガラスケースの方に移動して、二人で折り重なったお盆から一つをとり、その上にトングを置いて一緒にガラスケースを端から眺めていくことにした。
ガラスケース内は左から和菓子エリア、洋菓子エリア、ケーキエリア、ざっとそんな感じで色とりどりの甘そうなものが横並びになっている。ケーキエリアの発光色は色が鮮やかで、今時の言葉で言うと映えており眩しいくらいだ。
そんな可愛くて甘い物を前にしたら、普通の女の子なら理性を保っているのは無理だろう。少なくても腰をかがめてガラスケース内に吸い付くようになってしまうに違いない。
だから――
月待さんもそういう感じで、「これにします、これもいいですね、これも捨てがたいですね……」なんて言う風になりそうな気がするが、きっと恥ずかしがって控えめに出るのだろう。
そう思いながら、いつの間にかケーキエリアまで移動していた月待さんのお盆に目を向けたのだが……閉じていた口がポカンと空いてしまった。
「これにします、これもいいですね、これも捨てがたいですね……こちらも見た事がありません。こ、これは何ですか、このようなものがあるなんて信じられません、食べて見て毒見をしなければ……」
そんな冗談を言いながらトングをせっせと動かしている月待さんのお盆の上には、ぎっちりと隙間なくお菓子やらケーキが乗せられていた。
唖然とする俺に月待さんは気がつくと、一瞬ひどく動揺したようにトングをカチカチとさせてから、お盆を大事に持って慎重にトコトコとこちらに歩いて来た(ちなみに歩いてきている時にも一ついいものが視界の端にあったようで追加された)。
「か、勘違いしないでください……これは、その……食べ放題ということなので、できるだけ沢山の味を楽しみたいと……あ、いえそうではなくて……なるぼく元値がとれるようにと……いえ、これも違くて……」
永遠に言い訳しそうなので、ちょっと勘違いしているみたいなので、一言だけ言っておくとしよう。
「それ、食べきれるの……?」
「あ…………」
俺の確信をついた一言に、俄然を自らのお盆を見下ろしてから縋るような瞳でうるうると見てきた。
「とり過ぎてしまいました……こういうのって一度取ったら戻すのはダメでしたよね」
そんな顔で見られると見なかった事になどできない。
「……じゃあこうしようか。二人でそれを分けて食べよう。二人なら食べきれるし、その分一つ辺りを食べる量が半分こになるから、いっぱいの味を楽しめるね」
助け舟を出してあげると、ぱあっと月待さんは目を輝かせた。でも恥ずかそうにすぐに目を伏せた。
「あ、ありがとうございます……」
消え入るような言葉を聞いたのちに、あと何品かデザートをとって、二人で席に戻った。
「い、いただきましょう……」
「うん、美味しそうだね。いただきます」
いつになく、食べることにさえ緊張している月待さんを微笑ましく見守る。
手を震わせながらケーキをフォークで差して月待さんは口に運んでいく。けれどなるべく上品にしている。きっと俺に見られているからだろう。
パーカーをガッツリ被っている時点でそんなこと気にせずにがっつけばいいと思うのに……と思ったのだが、次に見せた満足そうな月待さんの表情に余計な考えはさっと引いて行った。
「……………………美味しいです」
それは、子供が「美味しい!」と元気に言う物でもなく、大人が「美味しいね!」というようなものでもなかったのだが、囁くような凛とした声音と、ケーキに向けられる慈しむような瞳で、それはそれはとても愛らしいものだった。
「本当に……美味しい、すごく甘い」
その後、パクパクと食べ進める月待さんは思ったよりも余裕そうで、全体の七割ほどを食べてくれたので、綺麗にお盆の上を片付ける事ができた。
月待さんは一息ついてから、手元にあった紙のようなもので口を拭いてから、今さらですけど、そう不安そうに口を開いた。
「お金は大丈夫なのでしょうか……?」
「うん、ここにバイト代を崩したお金が……」
懐から財布出して札束のスペースを広げる……広げる……広げる。
うん、ここにバイト代を崩したお金があったはずなんだけど…………。
はずなんだけど…‥。
ゆっくりと前を見ると、俺の焦った顔から何かを悟ったのか、血の気が引いて白い顔をした月待さんがいた。
「……岡崎くん」
「……月待さん」
二人して笑顔でしばらく見つめ合っていた。
すみません、途中の部からやり直させてください。
申し訳ありません。
よろしくお願いします。