01 一階さん
「ごめんね、岡崎くん。そういう訳だから、悪いんだけどしばらくの間でいいから、ルームシェアを頼めるかしら」
俺の家の玄関の前で、申し訳なさそうな顔をした叔母さんはそう言った。
東京の中心から少し外れた場所に旧い二階建てのアパートがある。見た目は年季が入っており、実際にその通り築二十年ほど経過している。しかし、見劣りした外見ではあっても、アパート自体がかなり大きめに作られており、アパート内の一室はとても広くて、普通の部屋のアパートの二部屋分くらいの大きさがあるので、とても俺には良い。さらに、家賃は三万円と驚くほど安いので、俺は高校一年生の春から長くお世話になっている。
この叔母さんは、俺が借りている二階建ての、そのアパートの大家さんである。彼女の話を簡潔にまとめるとこうだ。
アパートの一階の一室に、どうやら生活面で支障をきたす欠陥ができてしまったらしい。大家さんもそれなりに、改善に努めるために動き回ったが、欠陥の工事をするにはしばらく時間がかかるらしい。
そうなると困ったと言うのが、一階のその部屋に住んでいた男の人の生活場所だという。なぜ男かと分かるかと言うと、このアパートは男女間の面倒ごとが起きないようにと、大家さんが女の人の入居を認めていないからだ。話は戻るが、その人の生活場所を大家として、責任を持って探していたのだが、財政面やタイミングの問題で見つからなかったらしい。
ここまでくれば、なんとなく分かるかもしれないがその想像通りだ。大家さんはその誰かも分からない男の人と、しばらくルームシェアをして欲しいと言う。
正直俺としてはたまったもんじゃない。高校に通いながらバイトをし、少ない生活費をやりくりして、食べていくのにはこのアパートの家賃に助けられている部分はとても大きい。そうはいっても、どこの馬の骨か分からない人物と、いきなり暮らせと言われるなど無理がある。
「すみません、それはちょっと……」
「断るって言うのなら、それでもいいのよ。実は最近このアパートの相場が上がってきていてね、駅から近いっていうこともあるし、入居したい人が多いみたいね。そうなった場合次月の家賃はどうなっちゃうのかしらねえ」
白々しく大袈裟に身振り手振りを交えて言う。
もしこのルームシェアの話を受けなければ、来月からの家賃を上げると言うのか。それは、非常に困る。今でもギリギリの食生活を送っているのに、これ以上家計に負担が掛かったら、マジで生きていけない。それに、今から転居先を探すのは無理がある。
というか、そもそもなぜ俺の部屋が選ばれたんだろうか。
「大家さん、その話は俺じゃないとダメなんですか?」
「だって、私が一番信頼、信用、できるのが岡崎くんなんだもん。こうしてよくお話もするしね」
お話っていうか、一方的に大家さんの世間話に、付き合わされているだけのような気がするけど。
「他の入居者さんたちとも、たまには話をするけど、皆素気ないのよねえ。でもその点、岡崎くんは、こんな叔母さんのつまらない話を、笑顔で聞いてくれているじゃない。問題行為を起こしたことも一度もないし、岡崎くんに頼むのが一番安心なのよ」
懇願するような瞳を向けてくる。さすがに俺も、ルームシェアは嫌だけど、大家さんにはいつもお世話になっていて、夕飯のおかずを『買い過ぎちゃったからこれあげるね』って貰っていたりする。そんな恩人からのお願いを断れと言うのか?
「あ、もしかして、ルームシェアするおん……男の子の心配をしているなら、安心して良いわ。その子は一〇二号室の子でね。あなたと同い年の子で、岡崎くん同様に、普段から叔母さんの話し相手をしてくれている良い子なのよ」
一〇二号室の子と言えば。朝出かける時には、一度も出くわしたことがなく。見かけた事はあるが、それはいつも俺の帰ってくる夕方の時間で、部屋に入ろうとしているところに、挨拶をしても、一度も返事をしてくれた覚えがない。さらに、いつも制服の上にフードのようなものを被って頭を覆っていた。不審者とまではいかなくても、少なくとも変な人だという認識があったので余計心配なのだが。
「良い子って言われましても」
「それにね、あの子。少し問題があってね。他の人に預けたらどんなことになっちゃうか心配なのよ。そういう意味でも、差別とか偏見とか持たない岡崎くんが良いって思ったのよね」
その言い方から察するに、普段フードで顔を隠していることと関係があるのだろうか。そう言われると、他の人に任せるのは心配な気がして来た。俺は挨拶を返してくれない子は苦手だけど、それはそれで、心配というかちょっと気になっていたんだ。
これも、乗り掛かった舟だろうか。
「半年とか一年って訳じゃないんですよね?」
「ええ、たぶん数ヶ月くらいじゃないかしら。受けてくれるの?だとしたら、叔母さん、凄く助かっちゃう」
偉くご機嫌になった叔母さんを見て、まあ仕方ないかと腹を括った。
☆☆☆
「岡崎、月待さんはなんでブルー入ってんだ?」
学校での授業と授業の間の休み時間、俺の前の席にいる男子生徒が、机に肘を乗っけてきて聞いてきた。
月待というのは、俺のクラスの女生徒のことだ。元気で明るく、素行も良く、容姿端麗な美少女である。クラスの中心的な存在で、いつも女子に取り囲まれる中で愛想を振りまいている女の子。そんな彼女が、本日はクラスメイトの女子に話しかけられても、うんとか、すんとかしか言っていない。
「俺に聞かれても分からないよ」
俺はイケメンでもなければ、明るくもなく、部活にも入っていないし、クラスでの存在感も薄い。そんな女子との会話さえする機会がない俺が、クラスのカーストの頂点に立つ、女の子の不機嫌な理由など知る由もないのだ。
「ちょっとは興味もてよ。あんなに可愛いんだぜ?」
月待さんを流し見ながら言ってくる。釣られて見るが、確かに可愛い。艶々した長い紫色の髪は綺麗だし、肌も白くて滑らかで、長い睫毛は上向いているし、水色の蒼い瞳は哀愁さえ誘われる。
彼女の風貌に気を惹かれたのか、クラスでもかなりイケメンなやつが声を掛けて、月待さんはそいつにも、笑顔でいた。
「可愛いな」
「月待さんを見た感想がそれだけかよ」
そうは言われても、俺にはそれ以外の感想がない。今は女の子が可愛いとか、言っている余裕がないんだ。なにせ、今日の夕方に俺の家に、一階の誰かさんが来るのだから。
「他に何て言うんだよ」
「そりゃあお前。友達になりたいとか、恋人になりたいとか、手を繋ぎたいとか、キスをしたいとか、デートしたいとか、結婚したいとか、子供を作りたいとか、子供は男の子と女の子が一人ずつ欲しいねとか月待さんと話したりしてさ……ふへ、ふへへ」
不気味に笑いながら、浮かれた顔をしている。
「そこまででいいよ、お前がどんだけ彼女が欲しいのか分かったのと、お前の妄想をそれ以上聞くのは怖い」
てか、月待さんでそこまで考えているとか、我が友ながらストーカー気質とかありそうで怖い。こいつが犯罪を起こさないように気をつけて見張っておこう。
とは言っても、俺も思春期の高校生だ。可愛い子を見れば、見惚れるし、手を繋いだり、一緒に話している場面を想像したりはする。だから、月待さんみたいな子に、自分から声を掛けて、尚且つ月待さんに、笑顔を向けられている男子生徒が、凄く羨ましくも感じられた。
『じゃあ、ルームシェアの件。よろしくね、岡崎くん』、不意に昨日のことを思い出すと気分が悪くなってきた。
「てかなんだ、岡崎も今日は具合悪いのか?」
「具合は悪くないけど、分かるのか?」
「そりゃあ一年の時からの、長い付き合いだからな。まああれだ、力にはならねえけど、困ったことがあったら相談してくれ」
どこまで本気かは分からないが、一階の誰かさんが怖い人だったら、こいつの言葉に甘えて、家にお邪魔させてもらって、しばらく泊まらせてもらおう。
☆☆☆
ピンポーン。甲高いチャイムの音が鳴った。
ついに来たか。一階さん。ドキドキと心臓は煩く、額に汗なんかも浮かんでくるが、立ちあがって玄関へと向かった。
ガチャリとドアを開けた。
「うわっ!」
びっくりした。俺の声に驚いたのか、相手も少しだけ肩をピクリと震わせた。というか、びっくりするだろう、家の前にフードを深くまで被ったやつがいたら。今まで近くで見た事がなかったから、気づかなかったが、下はジャージを履いているようだ。
「……こんばんは」
目の前のフードを被った一階さんは、萎れたような、低い声でそう呟いた。俺を警戒しているのか、ある程度の距離を取っているようにも見える。
控え目に言って、めちゃくちゃ挙動不審だ。しかしまあ、手には大きな手提げバッグを持っているので、ルームシェアをするという話は本当のようだ。
「話は聞いてます。一階の……」
そういえば、この人の名前は何て言うんだろう?表札は廃れていたから、苗字を知らない。
「……あの、お話なら、中でさせていただいてもいいですか?」
「構わないですけど……」
変だ。丁寧なしゃべり方もそうだけど、やけに声音が優しいというか、声の質が高い。まるで、女の子の声みたいだ。
「そうですね、これから一緒に暮らすことになったので、とりあえずは上がって話をしましょう……」
「……どうも」
俺が入るように言うと、フードの一階さんは、ペコリと一度綺麗にお辞儀をしてから、俺の部屋に上がった。廊下を突き進んで部屋にたどり着く。フードの一階さんはキョロキョロと部屋を見回してから、持ってきた大きな手提げ鞄を畳の上に置いた。
「何もない部屋ですみません……」
「……いえ、私こそ」
俺の部屋には最低限の物しか置いていない。部屋の真ん中に足の低いテーブルと、部屋の隅に冷蔵庫とタンスがあって、残りの生活必需品は押し入れの中などに入っている。
「そうだ。とりあえず、自己紹介でもしましょうか」
「……はい」
テーブルの前に正座で腰を下ろした。向き合うように、一階さんも同じように腰を下ろした。
クーラーなどはついていないので、外から嫌と言うほどの熱気と、ミーンミンミン、ジジジジジジジジー、という蝉の声が癇に障る。
フードを被っていて熱くないのだろうか。
「自己紹介の前に、フードを取ってもらってもいいですか?大丈夫です、大家さんからは事情があってフードを被っている、というのは聞いてますから。安心してください」
「…………」
しばらく経ってから、一階さんはスッと徐に立ち上がった。
「どうしたんですか?」
「……気づかないんですね」
気づかない?何のことだ。疑問の眼差しを向けていると、一階さんは勢いよくフードを取った。今まで見た事のなかった、一階さんの素顔が露わになった。
「き、君は……」
信じられない。大家さんは事情はあるって言ってたけど、まさかこんな事情があったなんて……
「……自己紹介をさせていただきます、岡崎葵くん。はじめまして、というべきですかね。月待美桜です」
そこにいたのは、今日の休み時間に、体調が悪そうだったクラスメイトの月待さんであった。
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