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鳥になりたかった少女4  作者: 葉里ノイ
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第八章『無』/終章

  【第八章 『無』】


 望遠鏡を覗いていたルナは、何も見えないことに安堵した。全て吹き飛んで欠片も残っていない可能性もなくはないが、吹き飛んだ肉片などを見ることにならなくて安心した。誤作動で爆発したか、人ではなく瓦礫が落ちてしまったとか、色々と考えられる。

 だがどれも確証はないので、結理の言う通り暫し様子を見ることにした。

 こういう時は慌てない方がいい。慌てると碌なことにならない。まだ焦る必要はない。ノイズを掻き消すくらいに大きく響く心臓の音を鎮めるように、ルナは鎌の柄を握り締めた。


     * * *


 玉城雪哉は妹のことが嫌いで、気持ちを誤魔化して異常に好きになろうとする。

 玉城花菜は兄のことが好きで、自分のことを嫌う兄に好かれようと無茶をする。

 それらを見ていた玉城稔は、その原因となったのが自分だと気づき、気持ちを抑えて逃げるように家を出た。



 目前に広がる地雷原を軽捷な身の熟しでテンポ良く駆ける紫蕗に続き、脚を負傷しているとは思えないほど軽い身の熟しで灰音が駆ける。その後ろを、負傷していない方の手で花菜の手を引き、彼女の速さに合わせながら稔も駆ける。そこには何もないとでも言うように迷いなく澱みなく閑地を行く。本当に地雷など埋まっているのかと疑うほど順調だ。

 だがその順調はいつまでも続かない。

 地雷原の外だと銃も届かないが、城に近付くということは相手の射程圏内に入るということ。しかもこちらに身を隠す場所などなく、無防備な状態を晒すことになる。

「そろそろか?」

 呟き、灰音は走りながら機関銃を形成する。相手の射程圏内ということは、こちら側にとっても射程圏内だ。

「防弾膜を張れ」

 紫蕗の指示で稔は防弾膜を展開。直ぐ様攻撃が飛んでくるわけではないので、多少もたつきつつも花菜も言われた通りに防弾膜を張る。

 一々親切ご丁寧に指示を出すのかと意外と世話を焼く紫蕗に灰音はげんなりするが、それも始めの内だろう。すぐにそんな余裕もなくなる。戦闘中に余所見などできない。

「おい紫蕗、私が銃撃するから脚の治療費をタダにしろ」

「額に見合う仕事をするなら考えてやる」

 よし、と灰音は脚を止めずに銃を構える。紫蕗は見たところ遠距離に放てる武器はない。ここで貸しを作るのも悪くない。

 城から見るとこちらは丸見えだが、地雷原から見ると城は壁やらゴミやらでゴチャゴチャと敵が見えにくい。その差はあるが、この距離だと防弾膜が弾を防いでくれる上に、発砲音と弾道で大体の位置は把握できる。それに実戦経験はこちらの方が上だ。

 銃口がブレないよう銃を身に押しつける。

「死ね」

 僅かな躊躇いもなく引き金を引いた。

 稔は『嫌なもの』が見えないように、自然に花菜を自分の陰へ遣る。

「死ねと言う割に脚だぞ」

「うるせぇな、まだ視界が霞んでんだよ」

 違界の空気は遠方まで見通せない。霧が掛かったように遠ければ遠いほど視界が悪い。

 次は当てる、ともう一発放つ。今度は頭部に命中した。

「……防弾壁に切り換えろ」

 指示通り、二人は防弾膜から防弾壁へ。

「私は防弾壁がない」

 銃に集中しつつ灰音はぼやく。ほいほいと簡単に言ってくれるが、防弾壁とは本来高価な機能なのだ。

「じゃあ下がれ」

「攻撃は?」

「城の攻撃が手薄だ。何か来る。俺が対応する」

「わかった」

 てきぱきと交わされる遣り取りを稔は見守るしかできない。花菜の手を引き、紫蕗の背後につく。ここで判断を誤れば命はない。それだけはわかる。花菜にそのことはわかっているのだろうか。

 視界が徐々に明らかになり城壁やゴミ山がはっきりと視認できる位置まで駆けた時、「思い切り跳べ」という紫蕗の言葉と共に視界が土煙と火柱に覆われた。轟音と地響き。視界が奪われ何も見えない。

 至近距離の爆撃。城からグレネードでも撃ち込んだか、周囲の地雷が一斉に爆ぜた。

 咄嗟に稔が花菜の腕を引き体を抱き上げ、花菜も釣られて慌てて地面を蹴ったが、どうやら全員無事のようだ。直前の説明では地雷は防げないとのことだったが、それは足が地面に接地している時だけだ。地面から両足が離れれば360度死角なく防御することができる。一瞬の適確な判断。声音は極めて冷静だった。これが経験から来ることなのか生まれ持った適性なのか、計り知れなかった。

 全員が跳んだ刹那で、全員を包み込む防弾室を張った。防弾室は重い。だから思い切り、全力で跳ばせた。

「お前さっき防弾壁と言った癖に、防弾室張ってんじゃねぇか」

「防弾壁でも少しは防げる。まさか壁も持っていないとは」

「喧嘩売ってんだろお前」

 土煙が徐々に晴れてくる。姿も朧気にしか見えなかった城は今や視界に収まりきらないほど大きく聳り立っていた。銃を構える者達もはっきりと見える。


 見えている。はずだった。


「花菜!?」


 何かに取り憑かれたように、花菜が走り出した。城を目前に気が急いたのか、双眸は焦燥に染まる。足下のことが頭から抜け落ちている。事故の時と同じだ。周りが見えていない。

 花菜の行動に稔も走り出す。足下には地雷が埋まっているのだ。無闇に走るのは危険すぎる。自分で、花菜を守ると決めたのだ。守るために行かなければならない。

「チッ」

 紫蕗が小さく舌打ちする。花菜の様子が性格という以上におかしい。違界に転送されてきた時のことを思い出す。彼女はすぐに違界の空気に倒れた。おそらく花菜は影響を受けやすい。違界の有害電波に蝕まれているのだ。もっと早くに気づくべきだった。

「彼女の脚を撃て」

「は?」

 想定外のことを言われ灰音は反応が遅れる。

「貸せ!」

 苛立ちと共に乱暴に銃を毟り取る。花菜は言葉で止められない。脚を撃ち動けないようにするしかない。

 敵に撃たれるが早いか地雷を踏むが早いか――結果から言えば、銃を構える動作から入った紫蕗は、間に合わなかった。


「雪兄ちゃあああああん!!」


 花菜が叫ぶのと稔が彼女を突き飛ばすのは、ほぼ同時だった。

 紫蕗から受け取った感知器で、花菜が地雷に足を掛けることがわかった。

 でも踏ませないようにする方法は咄嗟には思いつかなかった。防御も思考が追い着いてこない。

 爆発と共に地面が抉れ、稔の体は弾け飛んだ。

 衝撃で吹き飛んだ花菜の体は、ぐしゃりと地面に叩きつけられた。腕が別の地雷に叩きつけられ左腕が飛ぶ。虚ろな目は焦点が揺らぐ。

 それを皮切りに城の者達は我先にと一斉射撃。

 花菜達に気を取られ紫蕗も反応が遅れ防弾壁が間に合わない。がきんと硬い音がし、紫蕗の防毒マスクが割れた。

 狂いだした歯車に灰音は一度撤退した方がいいかと考える。ここまで来ておとなしく引き下がらせてもらえるだろうか。

 思考とは裏腹に歯車は速度を上げて狂いだす。いや、初めから歯車などなかった。

 紫蕗はぐしゃりと地面に伏す花菜の残っている右腕を引き、ずるりと持ち上げる。左腕の潰れた断面を慣れた手つきで止血。衝撃で焦点が定まらないようだが、設定しておいた痛覚遮断が自動的に作動している。朧に意識はある。

 次の行動を決め倦ねている灰音に花菜の体を投げ寄越し、紫蕗はゆっくりと顔を上げた。


「――――うっ……うわあああああ!! 害毒だあああああ!!」


 背を向けられている灰音から紫蕗の表情は見えないが、城の連中は一斉に戦慄の叫びを上げ何の統率もなく彼に向けて次々と発砲した。何故突然紫蕗に恐怖を表わしているのか、灰音にはわからなかった。だが城の者が口々に叫ぶ『害毒』という言葉だけは理解できた。

 防毒マスクを剥がされた紫蕗の片眼は、紫紺色の前髪から耿々と紅く覗いていた。濡れた紅玉のような、結理でなくとも美しいと言える、だが恐怖でしかない色。

 害毒。またはヴァイアラスとも呼ばれているが、違界で最も恐れられると言っても過言ではない、不治の病を持つ危険な生物兵器。

 防毒マスクをつけていたのは違界の有毒な空気を遮るためだけではなく、その目を隠すためでもあった。


「死にたければ、殺してやる」


 不快感を乗せた声色。

 強く地面を蹴り距離を詰める。銃よりも短い紫蕗の射程距離に一瞬にして入り込む。

 城へ手を伸ばし、横に一閃。

 一瞬糸のようなものが赤く光る。

 手を振る動きと共に音も無く次々と、ぼとりと敵の首が落ちた。

 静かな、だが圧倒的な力だった。背筋に冷たいものが走る。

 この世界で一番、敵に回してはいけないもの。そんな気すら覚えさせた。軽く相手をしていい人間ではない。

 断末魔と悲鳴が上がる。一方的と言えた。それでも彼らは逃げなかった。紫蕗よりも怖いものが彼らの後ろにいるとでも言うのか。

 放たれる銃弾と敵の腕や首を適確に滑らかに薙ぎ取っていく。

 強い。強すぎる――灰音は息を呑む。だがその強さは永続的なものではないと悟る。

(何だ……? 時折足元が覚束無い……ような?)

 この強さに何か代償を支払っている。そう思った。

 このまま紫蕗に任せておけばこの場を切り抜けられると思っていたが、そういうわけにはいかないようだ。任せたままではいけない。そう察した。

 灰音は花菜を背負い、片手でライフル銃を構える。放っておいてもいいのだが、紫蕗が投げ寄越してきたことに貸しも作っておきたい。この異常な人間に。まだ意識がある分、少し軽い。



 突然の轟音と地響きに司は少し考えた後、外の地雷が作動したのかもしれないと言った。

 城壁の周囲はゴミ捨て場になっているが、地雷の影響を受けず警備の巡回ができる何も罠のない空間がゴミ山の外周にあり、そこから先の地面は地雷原になっている。城の外に出る話をしている時に教えてほしかったが、忘れていたと司は言った。そんな大事なことを忘れるなと雪哉と千佳は思ったが、忘れていてもクロなら何とか回避する術を持っているのかもしれない。さすがにクロが地雷原のことを知らないはずはないだろう。クロに丸投げしたのだ。

 地雷は司の『前科』の後に埋められたものだ。即ち司の所為で城に近付くも離れるも地獄となったわけだ。それで何人の人間が吹き飛んだかは司の知るところではないが、興味もなかった。

 外が騒々しい。壁際に待機していた雪哉達には、外の音はよく聞こえた。微かに叫び声も聞こえる。

「様子を見る」

 そう言って壁の外へ向かうクロに雪哉と千佳も続いた。

 司の用意した通路を使い、ゴミ捨て場に出る。

「ひっ……!?」

 そこに広がっていたのは無数の人間の首や腕、バラバラになった体だった。

 褪せた視界に夥しい量の血の赤が鮮明に映る。

 その向こうに血の赤に劣らないほど鮮やかに浮かび上がるものがあった。人の目だと気づくのに少し時間が掛かった。

「これ、何っ……」

 口元を押さえ、搾り出すように千佳が呟いた。

 ふらつく瞳がゆっくりとその紅い目の向こう側を捉える。女性に背負われている虚ろで蒼白な顔をした少女を。

「たっ、玉城君! あれ! あのっ、あれ! あそこ!」

 写真で見た雪哉の妹である少女がそこにいた。

「う、腕が……」

 片腕がないことに動揺しながら雪哉の袖を引く。千佳は久慈道琴実(くじみちことみ)のことを思い出し、がちがちと唇を震わせる。

 声に気づいたのか、花菜は顔を上げ虚ろな焦点を何とか合わせる。

「雪……兄、ちゃん……」

 震える唇で紡がれた懐かしさを覚える言葉は、兄に届くことはなかった。


「誰、だ……?」


 記憶にない者に、呼ばれた。だから誰なのか尋ねた。ただ、それだけだった。

「稔兄、ちゃん……も、一緒に、ね……」

 残っている腕を雪哉の方へよろよろと伸ばす。その腕は稔の血にべったりと染まっていた。

「稔……? も、誰か……」

 わからない。

 目の前で自分に手を伸ばす少女も、少女の口から出た名前も、呼び方も、何もわからなかった。

「かえ、ろ……」

「わ……わからないんだ。手を伸ばされても、誰なのか!」

「私も……わかんない。今、両手を……伸ばしてる……けど、左手が……見えない……の」

「!」

 腕がないことに気づいていないのか。更には、稔が庇ったことも、わかっていない。

 目前に新たに現れた人物を、花菜の言葉から、捜していた兄だと察し、紫蕗は一歩後退する。雪哉達は城の者達を挟んだ向こうにいる。城の者達を少しでもこちら側に近付けようと下がったのだが、それがいけなかった。

「っ!」

 踏ん張っていた足が少し蹌踉めいた。

 その隙を見逃さず、残っている敵が引き金に掛けた指をじりじりと引く。

 体勢を立て直さなければならない。一人なら何とかなるが、この場の全員を守らなければならない。

「私、駄目だから……雪兄ちゃん、私のこと、わかんないって、忘れちゃっ……め、なさい……ごめん、なさい……ごめ、なさい……」

 ぼろぼろと涙を零す。

 言葉を掻き消すように銃声が鳴り響いた。

 体勢を崩しながらも紫蕗は腕を振り弾を切る。だが対応しきれない。

「くっ……」

 掠る程度の弾なら流すか、と思った瞬間、風がすぐ横を切り走り抜けていった。

「っ!」

 巨大な鎌だった。

 一瞬だが顔が見えた。見覚えのある顔だった。

 大きな鎌を最善手へ、刃の峰で敵を薙ぐ。殺すつもりはないのか刃を当てていない。尤もあの大きさでは峰で殴られただけでも衝撃は計り知れないが。

「花菜!?」

 それに続き、青年に背負われた両脚のない少女が悲痛に叫ぶ。少女の双眸は見る見る赤く染まっていく。鎌で取り零している者を両手の銃で撃ち抜いていく。

 形成が一気に傾く。

 紫蕗は周囲を見回し、数を確認。

「壁際にいる人間! 記憶がなくても構わない、こっちに来い!」

 視界が眩んできた紫蕗は腹から声を搾り出す。

 壁際にいる三人――一人は違界人だ。残りの二人は青界の者だろう。花菜も彼を兄と言っていた。

 二人と共にいる違界人は近くにいた敵を長い棒状の武器で打ち、二人の背を押した。

 千佳は雪哉の腕を掴み、泣きそうな顔で紫蕗達のもとへ駆ける――と言うには些か足が遅いが、何かを気遣うように走っている。ナイフをブンブンと振り回し時折敵に当たり慌てたように手を引いている。その仕留め損ないを雪哉が刺していく。

「鎌も下がれ!」

「!」

 紫蕗はばらりと掌ほどの装置を形成し散蒔いた。

 鎌を持つ人間は、指示通りに鎌を一度振って牽制した後、身を引く。

 全員揃っていることを確認し、紫蕗は装置を作動させた。

 それは全員を元の世界に帰すための転送装置だった。


     * * *


 最初の爆発では、人の姿はなかった。

 一度望遠鏡を下ろしたが、やはり気に掛かってしまったので、もう一度望遠鏡を構えた。

 望遠鏡をきょろきょろとさせていると、動くものを捉えた。今度こそ人だった。しかも。

「!!」

 見知った顔だった。

「梛原さん、ここって……地雷原なんだよな……?」

 改めて確認をする。

「ええそうよ。たとえ赤ん坊であっても容赦なく吹き飛ぶわ」

「だったら、あれ、やばいんじゃ……」

 地雷原に足を踏み入れた者達から目は離さずに、ルナは椎に望遠鏡を差し出す。椎は怪訝そうに渡された望遠鏡を覗き「あっ」と声を上げた。

「灰音だ!」

 そこにいたのは灰音と花菜、稔、そしてもう一人……これは見覚えがないが、防毒マスクをつけていて顔が見えない。

「俺達と同じで、技師を探しに来たってことか……?」

 結理は椎の覗く望遠鏡を引っ掴み、目を細める。

「無知な馬鹿なのかしら」

「でも灰音は地雷のことは知ってるはずだよ!」

「なら、それでも進むことを選ぶ、選べる理由……地雷を回避できる何かを所持している……? もしくは捨て身?」

「灰音達の所に行かなきゃ!」

 椎は立ち上がろうとして、両脚がないことを思い出す。

「結理! あそこまで転送して!」

「馬鹿なことを言わないで」

「こいつ一人じゃ動けないだろ、オレも行ってやる」

 椎の焦燥を感じ取ったのか、ラディも賛同した。その傍らでモモも、私もとばかり手を上げている。

「馬鹿を言わないで」

「梛原さん一人じゃ……」

 ルナも結理を見る。結理が一人で城に転送し事に当たる予定だったが、一人であの四人を安全な所へ連れ戻すことは難しいだろう。ルナ達も行くことは危険だということはわかっている。だがこの状況を見て見ぬフリはできなかった。灰音達にどんな作戦があったとしても、たった四人で、しかも内の二人は戦闘ができない、そんな人間を連れて正面突破を選ぶのは正気ではない。灰音は一見冷静だが、椎が絡むと視野が狭くなる傾向もある。灰音はきっと椎を捜しているのだ。

 ルナに見詰められ、結理は目を逸らせない。結理の持つ転送装置は一人用だ。無理に二人を転送しただけで気分が悪くなるのだ。なのに今度は二人ですらない。五人だ。両脚がないと二分の一とカウントされるのだろうかとか、幼い子供なら二分の一人としてカウントされないだろうかとか、ぐちゃぐちゃと頭の中を巡る。転送に失敗すると、体の何処かの部位を置き去りにしてしまうこともあると聞く。結理の転送装置は腕の良い技師に作ってもらったものだ。然う然うのことは起こらないかもしれない。だが気分は悪くなってしまったのだ。失敗の可能性だってないとは言い切れない。

 だがそれ以上に。いやそれが結理には最優先事項だった。

「私は……青羽君の目に見詰められたら、拒否なんてできない……!」

 もし転送に失敗すれば、一番影響を受けるのは自分だろう。それでも結理は、ルナの瞳が好きだった。

「青羽君……青羽君が死んだら、その両眼を私にちょうだい……私が死んだら、その両眼を私と一緒に埋めて」

 縁起でもない要求をする。

「ぜ、前者は考えておくけど、後者は辞退させてほしい……」

 それでも結理にとっては進展したと言える。前者ですら渋っていたルナが、一考の余地ありと返答したのだ。これで奮起せず何で奮起すると言うのか。

「わかったわ。青羽君が真っ直ぐ目を逸らさず私を見詰めてくれるのだから」

 私に触れて、と結理が手を差し出すのと、二回目の爆発は同時だっただろうか。



 無理矢理な転送で、二人の時とは比べものにならない吐き気が結理を襲った。胃の中が掻き回されるような程度ではなく、内臓も共に吐き出しそうな程の吐き気。転送後結理はばたりと地に倒れた。動ける状態ではなく、口元を押さえて丸くなり肩で息をする。外傷はない。

 倒れた結理に少し酔ったらしいモモをつかせ、ルナ達は目前の惨状を目にした。

 人間が飛び散っている姿を見るのは二度目だった。カイの時のように、いやそれよりも酷い。灰音に背負われている花菜も腕が片方無い。先程望遠鏡で見た時はそんなことはなかったのに。鎌を握る手に力が籠もる。

 なんて残酷な世界。

 ルナの思考が透き通るように雑念が消える。ヘッドセットのサポート機能がまた勝手に作動したのか、鎌の振り方が、頭で考えるより先に手が動く。手足も強化のサポートがされているようだ。

 でも殺したくはない。

 その感情を読込んだのか鎌の刃ではなく峰が敵を薙ぐ。

「花菜!?」

 花菜の凄惨な姿を見、椎は何かに支配されるような感覚を抱く。前にもあった。イタリアでルナ達が死んでしまったのではないかと不安になった時だ。

 目の前が赤く染まるような、そんな感覚。動くべき道筋が見えるような、レールに従って動かされるような。

 ルナの鎌で捌ききれなかった敵を椎は迷いなく適確に撃ち抜く。動かなくなると安心できた。

「壁際にいる人間! 記憶がなくても構わない、こっちに来い!」

 その言葉で、城壁の近くに知った顔が立っていることにルナと椎は気づく。

『記憶がなくても』とはどういう意味だ? と思ったが、そこに雪哉と千佳がいる。そのことだけで今は充分だった。

 呼び掛けに二人は必死に持っているナイフを振り城から離れる。ルナと椎はその援護に回った。

「鎌も下がれ!」

「!」

 これは自分のことかと、ルナも鎌を一振りして威嚇し身を引く。

 先程は防毒マスクをつけていた者――紫紺色の髪の少年が、何かを形成し散蒔くのが見えた。

 この少年の顔に、ルナは見覚えがある気がした。

 そう思った瞬間、目の前が暗転した。


     * * *


 長いようで短く、短いようで長く、一夜が過ぎた。

 ここで待てと言われ、だが待ち続けるには雪の中は寒く、宰緒は斎の家に泊まった。その間も苺子は律儀にそこで待ち続けていた。夜は何処で寝たのだろうか。

 雪も大分溶けてしまった。

 廃ビルの壁を背に座り、宰緒は頬杖を突く。

「待つのはもう斎だけでいいんじゃね?」

「面倒臭がる宰緒にしては辛抱してるとは思うけど、待ってなかったら梛原さんに何か言われるよ」

「結理は別にどうでもいいけど」

 この会話も何度目だろうか。そしてピシリと立って待つ苺子に目を遣る一連の繰返し。誰も見ていないのにあそこまで真面目に立って待つ苺子を見ていると、何だか待たないわけにはいかない。

 その日も夕刻が訪れようという頃、漸くその場に変化が起こった。

「あ」

 冷たい地面の上に、何人もの人間が一斉に忽然と現れ、ばたばたと地に倒れたのだ。

 待ち人ではあったが、様子が狂っていた。

「え……どういうこと……?」

 誰のものか、呻き声も聞こえる。

 纏めると、青羽ルナと知らない奴が肩で息をして倒れている。椎の両脚は無い。玉城花菜の片腕も無く、気を失っている。他に知らない男の腕も片方無い。梛原結理も怪我でもしているのか気絶しているのか伏せたまま動かない。灰音も脚を負傷している。玉城雪哉は状況が呑み込めていないのか辺りを見回している。小無千佳ともう一人知らない幼い少女は無傷のようだが、こちらもきょろきょろ。

「……地獄絵図かよ」

「あー! さっちゃんといっちゃんだあぁ! 戻ってこれたっすぅぅ!」

 宰緒と斎の姿を見つけ、千佳は駆け寄って抱き締めた。随分と懐かしい、そんな気がした。

「一番元気そうだな」

 事実一番元気かもしれない。

「ゆっ、結理先輩……!?」

 苺子も気絶している結理を見つけ駆け寄る。

「あ、あのっ……誰か、説明が可能な……方は……」

 見回すが、この状態の誰がこの状況を説明でき次の行動を指示できるのか、苺子には判断できなかった。

 もう一度見渡し、宰緒は千佳を引き剥がして倒れているルナの傍らにしゃがんだ。

「生きてるか?」

 息はしているが。

 顔色が悪い。焦点もふらついている。

「鼻血出てるけど」

 よろよろと鼻に手を遣ったので、生きていると確認できた。良かった、何とか無事なようだ。

「……休ませて、おいて、やれ」

 頭を重そうに持ち上げて手で支えつつ、近くに倒れていた見知らぬ少年がゆっくりと身を起こす。目を伏せているのではっきりとはわからないが、目の色が左右で異なっていた。

「お前も相当顔色が悪いぞ」

「俺のことはいい……それより、ここは……人払いは……」

 言葉に敏感に反応し、苺子は結理の傍から少年のもとへ駆け寄ってきた。

「あの、あなたが……その、説明……できますか……? 人払いは今はしてませんが……することはできます……」

「違界の、人間か……?」

「はい……私は、違界の人間です」

「……俺が、全員を転送させてきた。治療、できる場所……あと、地面に張りついている奴を休ませられる場所、あるか?」

「それは……はい、では……結理先輩が拠点としている家へ……結理先輩の部屋なら、先輩の許可なく誰も立ち入らない……はずで……その、広いですし……」

 緊急事態だ。結理の住んでいる家は一部屋一部屋が広く、ここにいる全員が余裕で収まることもできる。結理が気を失っている以上、この場で判断を下せるのは苺子しかいない。そう言い聞かせる。

 それにこの全員を転送してきたという少年は、きっと凄い技師だ。苺子はそう確信する。その上治療まで申し出てくれているのだ。医師の腕もあるのだ。断れるはずもない。

「わかった。その家の座標は……わかるか?」

「はい。何度も、訪れたことがあります……」

 座標。再びこの全員を纏めて転送させるのだ。苺子はすぐに察し、頷く。なんて心強い少年なのだろう。

「では、これで、その家に転送を。お前が」

「は、はい…………え?」

 大きく頷いたが、少年がバラバラと小さな装置を形成し散蒔いて寄越すので、苺子はきょとんと聞き返した。

「私が……?」

「そうだ」

「……私が、あなたに……座標を送信して……あなたが、装置を、では……」

「俺の体は今、酷使できる状態じゃない。お前は今、体調が万全だろう? だったら問題はない」

「こ、こんな多人数を……こんな小さな、装置で……?」

「安心しろ。これは使い捨てだが、俺の作った装置だ。数は多いが、大丈夫だ」

 会ったばかりの人間に自信満々に装置を託され、宥められた。

 少年は苦しげに俯いたまま、よろよろと取り出した眼帯を目に当てる。この人は目を怪我しているのだ、と苺子は思った。こんなに苦しそうで、怪我までしている少年に更に頼ろうと言うのはいけない……苺子は心の中で反芻し、決心した。

「わかりました……私、やってみます……!」

「ああ。転送の有効範囲に全員入れろ」

「はい!」

 あ、これ、この少年が違界から転送してきた時より人数が多いな。と気づいた時には、装置は既に作動していた。



 気を失っている者や動けない者はベッドを借り、無傷の動ける者には紫蕗が『用意してほしいもの』を伝え、てきぱきと指示を請け負う。ベッドが足りないので床にも布団を敷き、紫蕗も一度横になる。

 大規模な転送を行った苺子も少し疲労はあるようだが大事はないようで、少し休んだ後に紫蕗の指示を聞いていた。

「結理先輩は……このまま寝かせてあげるだけで大丈夫でしょうか……」

「一人用の転送装置で無茶な人数の転送を行ったようだな。馬鹿のすることだ。転送可能な人数以上の転送を行えないようリミッターでも付けてもらえ」

「は、はい! お伝えしておきます……!」

 ルナも少しは動けるようになり、だがまだ布団で横になりつつ、与えられた苦いダークチョコレートを齧りながら紫蕗の袖を引く。

「……それ、貧血?」

 紫蕗が咥えている紙パック飲料の『鉄分たっぷり!野菜ジュース』を指差す。

「…………」

「城の所で、害毒って言われてるのが聞こえたんだけど」

「……お前、違界人とのハーフらしいな。右手の調子はどうだ」

「!」

 話が噛み合っていないが、最後の一言にルナはがばりと身を起こした。

「やっぱり! 公園で俺の手を治してくれた……うぅ」

 まだ頭がふらつく。

「あまり動くな。考えるな。その頭の装置はお前の物ではないんだろ。他人の物を使い続けると脳が疲弊する。お前は特に使いすぎだ。後でお前に合わせてカスタマイズしてやるから、おとなしく休んでいろ」

「お前も貧血のくせに」

 ぼそりと言う。

 紫蕗も休むべきだろうに、紙パックのストローを咥えながら椎の義足を修理している。修理と言うには損壊が激しく、新たに作り直していると言ってもいいくらいだが、紫蕗の手は澱みなく動いている。両脚を失った椎には申し訳ないと思いつつ、天才技師と言われる手際を間近で見られることは、ちょっと面白い。申し訳なさはあるので、『ちょっと』だ。

 チョコレートを咥えながら興味深そうに真剣に、何処か楽しそうに手元を凝視する視線に紫蕗は少し遣りにくさを覚えつつ、自分も幼少の頃はこんな風だったかもしれないと思い出し黙って手を動かす。

「知識もないのに修理したと聞いたが、駄目だな。これでは上手く動かなかっただろ」

「う……」

「ここはこっちの線と繋ぐ。これではない」

「似たような線が多すぎて……」

「初心者にしてはよくやっている方だが、ここのプログラムも違う」

「そっちは俺じゃなくてサクが……」

 初心者にしてはと褒められているが、あの時は違界人の黒葉の助けもあった。全てをルナ一人で直したわけではない。

 それを一人で黙々と修理していく紫蕗を、ルナは純粋に『凄い』と思った。

「……玉城の腕も義手になるのかな」

 今も気を失ったまま目を覚まさない花菜を一瞥し、ぽつりと漏らす。

「雪哉さんも様子がおかしいし、お兄さんは……」

「前者は転送負荷による記憶喪失だ。違界から戻っても記憶が戻っていないようだが、これから記憶が戻る可能性はある。高くつくが、俺が脳を診てやってもいい。後者は諦めろ。転送の有効範囲にいながら転送されていない。『物』は転送されない。あれは死体だ」

「玉城の前ではそんなはっきり言うなよ。家族のことは……俺もまだ呑み込めてない」

「義手は可能な限り生身に近付ける。だが接続後暫くは継ぎ目は残る。馴染むまでは安静だ。お前の手もな」

 話しながら、流れる動きで袖を捲る。

 淡々と小さなナイフを取り出し、自分の白い腕を傷つけた。

「っ……!? それ、何を……?」

 あまりに躊躇いのない動作に、ルナは一瞬反応が遅れる。

 白い腕に赤い血が伝う。冷めた紫の目が見詰める。

「あまり他人に言いたくはないが、最初に害毒のことを訊いたな」

 ぽたりと義足に血が滲む。

「うん……」

「害毒は、違界の異常な病を生まれながらに所有している者を言う。全てではないが、多くは赤い目を持っている。色々な型があるが、俺は血液に異常のある汚染型だ。こうして無機物に含ませると、意の儘に操れる」

「え……じゃあ、技師としての技術じゃなくて、その血が天才……?」

「見縊るな。血を使わなくても義足くらい作れる。ただ、血は俺の体で生成されるものであって、材料を揃える必要がない。材料が浮く分安くできる。代価が支払えるよう単価を下げてやってるだけだ」

 本当は他に理由があったが、誤魔化した。

「でも人の血が入れられてるって、怖……。病って言うなら、人体に何か害はないのか?」

 言っていることは理解できるが、見ていると怖い。椎の義足が破壊された時に出血があるのも、これの所為なのだろうか。

「これは椎には黙っていろ」

「気味が悪いからか?」

「違う。少し気になることがある」

「気になること……?」

「俺の血が操れるのは無機物だけだが、稀に……目が赤く変化する、と言うか……」

 歯切れが悪い。

「感情が激しく高ぶった時、なのか、何かに取り憑かれたような……いや、まだよくわからない。わからないから検証がしたい。同調するという噂が立っていたが……このことなのか……」

 紫蕗自身、まだはっきりと答えは出ていないようだ。だが言葉の印象は、不穏。黙って血を流させるわけにはいかない。思わずルナは声を荒げてしまう。

「は? それ大変なっ」

 ばちんと平手が口を塞――いや叩かれた。

「えほっ、げほっ」

 咥えていたチョコレートが口内に刺さるかと思った。

「ゆっくり食べないと駄目じゃないか」

 紫蕗の所為だと言うのに、しれっとそんなことを言う。

 荒げた声に意識のある雪哉などがこちらを見るが、何もないとわかると視線を戻す。

「検証って……要は実験だろ!?」

 また叩かれないように今度は声量を落とす。

「全てに症状が出るわけじゃない。激しく感情が高ぶることなどそうないだろう。俺はこの症状をもう少し知っておきたい」

「お前……!」

「俺もあの時の椎を見てやっと気づいた。血の相性の問題かもしれない。青界人への影響はわからないから玉城花菜の義手には血を使わない」

「椎の義足にはまだ血を使うんだな」

「彼女の症状は自我の残っている割合が大きいと判断した。敵を選んで撃っていただろ?」

「いや、それでも……」

「不満ならお前が義足を作ってやればいい。きちんと動く脚を」

「…………」

 咥えているジュースごと紫蕗を叩き返してやろうと腕を振ったが、ルナに見向きもせずにあっさりと躱された。

「……その貧血、たくさん血を使ったのか」

「あの時は俺も少し焦った。ほんの少しだが。自分の武器に血を流して反応速度を上げただけだ。健全な使い方だろ」

「あの場ではお前が一番の戦力だったみたいだし、お前がいなかったらもっと被害が大きかったかもしれないし、それは別に……いいけど」

 貧血でフラフラになるくらいだ。結構な量を消費したのだろう。後でジュースを奢ってやろうとルナはこっそり思った。

「――完成だ。次は義手を作る」

「椎につけないのか? 義足」

「先につけると動き回る。もう少しおとなしくさせておく」

 椎は今、両脚をまた失ったことを灰音に説教されてベッドに沈んでおとなしくしている。

 次は腕を作るのかと思うと、花菜には申し訳ないがルナはちょっとわくわくした。申し訳なさはあるので、『ちょっと』だ。




  【終章】


 その日はとても良く晴れた。

 沖縄の青い空が眩しい。

 違界から戻ってきてからは目紛しかった。

 母リリアの葬儀を営むために、各所への連絡に追われた。

 父はリリアの出身地だと思っているイタリアの葬儀について調べていたようだが、日本の葬儀屋に連絡すると、やはり日本式になった。教会に連絡すべきだったかとうんうん唸っていた。

 それでも花だけは用意できると、一面の白ではなく色取り取りの花々を用意した。これと言う一番好きな花は聞いたことがなかったが、どんな花でも嬉しそうに見ていたと、色々な花を集めた。違界には植物はほぼ無い。単純に花が珍しく、そしてここが違界ではないことを確認できる平和の象徴だったのだろう。

 リリアの体は結理と苺子が自然死に見えるよう偽装したそうだ。父は酷く驚いた様子ではあったが、不審がられることはなかった。

 葬儀にはイタリアからアンジェとヴィオも飛んできた。黒葉は来なかった。

 アンジェとヴィオはバタバタと深刻な顔をしてやってきて、ルナの姿を見つけるや「日本のお葬式ってどうしたら!?」と質問攻めにした。

 日本のと言うか、花は色取り取りだし線香はキャンドルだし、何やかんや混ざっている。

「玉の腕輪持ってないんだけど、大丈夫?」

 アンジェも珍しく緊張しているようだ。そういえばアンジェもヴィオも日本に来るのはこれが初めてではないだろうか。

「玉……数珠のことか? いいよ気にしなくて。父さんもイタリア式と日本式混ぜてるし、ああ……これは二人に言っておいた方がいいかな」

「?」

 何か重要なマナーを告げられるのかと耳に神経を集中させる二人。次のルナの言葉は二人にとって予想外すぎる突拍子もないことだった。

「母さん、イタリア人じゃなかった」

「え……?」

 二人はきょとんと互いの顔を見合わせる。

「じゃあ日本人……でもないよな?」

「ルナと同じで、ハーフだったとか?」

「いや……違界人だった」

「!?」

 驚きと、人に聞かれては不味いのではないかと、ヴィオはルナの首に思い切り腕を回し物陰に引き摺り込んだ。アンジェも慌てて身を隠し、三人でしゃがんで頭を寄せる。

「いやいやいやいや、え!? マジ!? あのおっかない奴みたいな!?」

「ルナのお母さんはおっかなくない!」

 アンジェは真剣なヴィオの肩を思い切り叩いた。

「でも、どういうこと? 何でわかったの?」

「あの時みたいに違界の人に襲われて……」

 あの時とはイタリアでの一件のことだ。その時のことを思い出し、アンジェとヴィオは息を呑んだ。

「俺を庇って戦って、母さんは死んだ。それで、母さんが違界人だってわかった」

「!」

 アンジェは何も言わずルナを抱き締めた。泣きそうになりながら、だが目には強い光が宿っている。

「……弱さの辛さは私もわかる。辛いね、ルナ」

 アンジェも事故で両親を失っている。その痛みが、手に強く籠もる。

「アンジェ……い、痛い……」

 ぎちぎちと頭を締め上げていたことに気づき、アンジェはすっと座り直した。「ごめん」

 解放された頭を摩りつつ、ルナは苦笑する。

「だから、まあ……母さんはイタリアも日本のも知らないと思うから……気にしないよ」

 先のルナの言葉の意味を二人は漸く理解する。それを言われると、確かに、としか言えない。

 こそこそと身を寄せ合っていると、ルナを捜しに来た父が三人のいる物陰を覗いた。

「ああ、ここにいたのか」

 ルナは慌てて父に見えないように口元に人差し指を当てる。アンジェはすぐに、母親が違界人だということは秘密、と意図を察し小さく頷いて立ち上がった。それに倣ってヴィオも慌てて立ち上がる。

「Mi dispiace molto. Sono veramente sorpresa da questa notizia」(本当に残念です。知らせを聞いて驚きました)

「Mi sento vicino a te in questo momento di dolore」(この度のご不幸は悲しみに耐えません)

 落ち着いた声色で言ったアンジェに続き、ヴィオも言葉を掛ける。

 言葉を受けた父は、目が泳ぐ。

「あー……ちょ、ちょっと待って! Aspettate un attimo! 辞書! Dizionario! 持ってくるから!」

 父はイタリア語があまりわからない。会話は母の日本語に頼りきりだったからだ。ルナが日本の中学校に上がるまではイタリアに住んでいたので、簡単な文章ならわかるのだが。

 バタバタと急いで去っていった父の背を見送る。悲しむ余裕は今はなさそうだ。

 後ろ姿を神妙に見詰める二人に、ルナはしょうがないものを見るような目を向ける。

「二人共、日本語喋れるのに」



 葬儀は蕭やかに執り行われた。父はパイプオルガンの荘厳な音色を流すべきか悩んでいたが、日本の葬儀屋を更に困らせそうだったのでルナはそっと引き留めた。

 入口近くにラディとモモがこっそり座っていたが、違界でも葬儀など行うのだろうか。

 三人は葬儀の後、海岸を歩いた。黒い服は着替えて、今は日常の色に溶け込む。

「日本の海も綺麗だね」

 太陽に照らされ、海は蒼く蛋白石のように輝く。

「私、日本語は結構喋れる方かなーと思ってたんだけど、全然わからなかった」

「あ、オレも。オレはそんなに日本語喋れない方だけど」

「あれは俺も……沖縄弁は難しい」

 葬儀中はルナも涙を堪えていたが、今は大丈夫そうだ。数日で色々あったようで、目紛しく自分を取り巻くものが変化し覆され参っているのではないかとアンジェは思ったが、今の様子だと大丈夫そうだ。

「あー、あと……」

 ルナがくるりと振り返る。釣られてアンジェとヴィオも振り返ると、ぽつんと一人、フードを被った誰かが立っていた。フードを被っていると言えば二人の脳裏に真っ先に思い浮かぶのは宰緒だが、この人物は彼より背が低い。宰緒も参列していたが、式が終わるとすぐにふらりと帰ってしまった。

 ルナが振り返るとゆっくりと歩き出したが、十メートルほど手前で、フードの人物は再び歩を止める。

 来いってことか。

「ちょっと待ってて」

 二人に断り、フードに駆け寄る。

 フードの下にキャスケットを被り眼帯をつけている。初めて会った時と同じ出立ち。紫蕗だ。

「――あれ? 髪、そんなに白かったっけ?」

 深い紫紺色だと記憶していたが、今はもっと……いや完全な白と言っていい。フードの隙間から僅かに見える髪は白かった。

「目敏いな。環境によって色が変わるだけで害はない。気にするな」

 こういう特異体質は違界では然程珍しいわけではないと教えてくれた。

「お前に合わせてカスタマイズしておいた」

 手にヘッドセットを形成しルナの手に置く。確かな重みと懐かしい形。

「負荷が掛かりすぎる無駄なサポート機能も外した。焼き切れて使い物にならなくなっていた転送装置も外した」

「ありがと……」

 転送装置という言葉に、鮮烈な記憶が走馬灯のように駆け巡る。これが引き金となって、多くのものを失った。

「これがお前用の腕輪」

 かしゃんとヘッドセットと共に手に載せられる違界の華奢な腕輪。

「鎌も中に入っている。お前が使っていた仮の腕輪も返しておく」

「うん……」

「通常はセットで作るものだから、今回はサービスで、お前用の首輪」

「えっ」

 更に細い首輪を載せられ、落としそうになる。

「それと」

 まだ何かあるのかと思ったが、載せられたのは見覚えのない鍵だった。今度こそ落としそうになり、慌てて掴む。

「これは?」

「ヘッドセットの中を開けたら出てきた。何の鍵かは知らないが、渡しておく。こんなものを入れてるから装置が狂うんだ」

 傍迷惑なと言わんばかりだ。

「もう一つ、お守りの装置の方だが、あれは転送の座標として使われた転送補助装置だ。一緒に、付近の違界の者を感知する装置もあった。後者の装置は実験的なのかかなり拙いもののようだったが……共に修復不可能なほど焼けているから、お前が必要なければそのまま捨てていい」

 死んだ母から貰ったお守り。と言うことに気遣ってくれているのか。ヘッドセット等と共に渡したはいいがてっきり処分されると思っていた。

「ヘッドセットに追加の機能を付加してほしければ言え。ここからは別料金だが。安心しろ、日本円で請求してやる」

「ああ……うん」

 しっかりしてるなぁ、とルナは感心する。ルナ用に、とは言うが、今後違界に行く予定はない。何処でも自分の好きな場所へ一瞬で行ける転送装置はちょっと惹かれるが、また暴発でもしたら大変だ。

「後ろにいるのはお前の仲間か?」

「え?」

 渡されるものに集中していたが、言われてハッと振り向く。

「うわっ」

 十メートルの距離が詰められていた。

「それ……」

 不安そうに見詰めてくる。アンジェの目はルナの持つヘッドセットに落とされている。

「これは母さんのだよ。この人が修――ぐっ」

 思い切り脛を蹴ってきた。話すなと言うことか。

「結構乱暴だなお前!」

 ヘッドセットや鍵を新しい腕輪に収納し、脛を押さえて睨む。忽然と物が姿を消すことに、アンジェとヴィオはもう驚かない。

「大丈夫か……?」

「仲良いんだね」

 仲良くはない。


「お。ルナじゃん」


 道の反対側から、今度は雪哉が現れた。手に紙袋を持っている。

 雪哉の記憶は、違界から戻って数日もすれば全て元通りになると思っていた。だが実際は殆ど戻ることはなかった。家族のこともルナ達のことも忘れたままだ。

「どうしたんですか?」

「いやぁ、思い入れのある場所に行けば何か思い出すんじゃと思ったんだが、何処に思い入れがあるか思い出せなくて、もはやただの散歩」

「この人、大丈夫なのか?」

 ヴィオが小声でルナに問いかける。記憶以外は大丈夫だと思う。

「あの、玉城……花菜、さんは……」

 違界で片腕と兄を失った花菜のことは気掛りだった。

「部屋に閉じ籠ってる。何かできればと思うんだけど……俺も何も覚えてないから、どう接すればいいか決め倦ねてる」

「そう……ですか」

「俺、花菜に対してどんな兄だったんだろうな……」

「……シスコンです」

「え?」

「シスコンです」

 二度言った。考えるまでもない。誰がどう見ても誰がどう表現しようと、満場一致であれは妹大好きなシスターコンプレックスだ。

 雪哉は怪訝な顔をしているが、そのことで改めて彼に記憶がないことをルナは認識した。

 考えてもルナの言葉を理解できなかった雪哉は話題を変える。

「違界から持ち帰ったものをルナにも分けてやろうと思ってな。ついでに家に行こうと思ったんだが……家の場所を知らなくて」

 ばつが悪そうに視線を逸らす。

「それは知らないじゃなくて、覚えてない、ですよ」

 まだ記憶は特に戻っていないようだ。何を覚えていないのかわからない状態で手探りで記憶と向き合っている。

 そこで漸く、雪哉はルナの傍らの二人に意識を向ける。紫蕗のことは覚えているが、この二人は初めて見る……と思う。

 視線に気づき、ルナが紹介する。

「アンジェリカ・ロッカとフルヴィオ・カルディ。イタリアの友達です。雪哉さんとは初対面です」

 二人はぺこりと軽く会釈。

「こっちは俺の学校の先輩で」

「Piacere. Mi chiamo Yukiya Tamaki. Sono lieto di conoscerLa」(初めまして、玉城雪哉と言います。会えて嬉しいです)

 すらすらと飛び出したイタリア語に、予想外だと三人は反応が遅れた。

「雪哉さんイタリア語喋れるんですか?」

「挨拶程度だけどな」

 そういうのは覚えてるんだなとルナは思った。記憶が戻ればもしかしたら挨拶以上のことも話せるのかもしれない。

 アンジェが「日本語で大丈夫!」と言うと、雪哉は安心したようだった。

「それで、分けるものって何ですか?」

「ああ、そうだ。このジャムとパンと実。ジャムが結構多くてな」

 持っていた紙袋を差し出す。あの荒廃した世界に、ジャムとパン……? 実? 食べ物?

「城の中の街で買ったんだけど」

「!?」

 皆まで言う前に、誰よりも早く反応した紫蕗が雪哉に飛び掛かっていた。雪哉の胸座を掴み上げる。

「お前、ゴミ山にいたが、城に入ったのか?」

「? 俺は大怪我を負ってたからな。城の中の人が助けてくれたんだ」

「城の奴が? 助ける? あんな血も涙も無い連中に、そんな血の通ったことができるとは思えない」

 刹那の内に険悪な空気になり、止めるべきかとアンジェは身構え、ヴィオはおろおろと狼狽、ルナは行く末を見守る。あの違界で見た巨大な壁の中。それはルナにも興味がないと言えば嘘になる。

「お前も食べるか?」

「…………」

 雪哉は動じた風もなく紙袋を持った手を上げる。

 紫蕗は数秒間、何かを考えるように黙り込む。

 少しの膠着の後、紫蕗は自ら手を離した。

 少々名残惜しそうな顔をするが、紫蕗はそのまま黙って離れていった。一度だけ振り向く。

 アンジェとヴィオの方を気にしているようだった。二人は違界のことを知っているが、紫蕗はそのことを知らない。おそらく二人に不必要に違界のことを吹き込みたくなかったのだろう。その内また話を聞きに襲ってくるかもしれない。

 雪哉が城の中に入っていたとは、ルナも初耳だ。一緒にいた千佳も城に入っていたのだろうか。



 今日は天気が良い。三人は雪哉と共に海岸に腰を下ろし、彼の持ってきたパンに葛苺とかいう果実のジャムを塗って食べた。

 違界の食べ物は、思ったよりもずっと美味しかった。



  fin


キャラが大分増えて賑やかになってまいりました。

皆!元気!

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