第19話-1
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無限に続くかに思えたグレントロールの慟哭が、止んだ。
それまで、惨い拷問にかけられ続けているような痛ましい絶叫で喉を枯らし、全身を掻き毟りながら転げ回っていたグレントロールは、その瞬間、憑き物が失せたように止まった。しばらく死んだように転がっていたが、やがて泥まみれの体を、ゆっくりと起こす。
見事だった紅蓮の毛並みは見る影もなく、大半が抜け落ちて地面に散乱し、残った体毛はこの数分間の激痛の凄まじさを物語るように、壮絶に脱色され真っ白になっていた。
グレン、と呼ばれる由縁を失ったトロールは、禿げ上がった頭の下の猿顔をキョロキョロと彷徨わせた。その顔色に消耗の色はなく、つい先ほどまで地獄の痛みにのたうち回っていたとは思えない。
《ジゴクラク》の毒を乗り越えた者は、極楽を見るという。それぐらい、毒の効き目は突然訪れ、七日たっぷり襲ったのちに嘘のように去っていく。
痛みから解放されたグレントロールは、今、血眼になって探していた。自分をこんな目に遭わせた、忌々しい金髪の冒険者を。
熱源感知の眼は、その背中を、すぐに捉えた。熱源が三つ。距離は三十メートルほど。足は止まっていた。容易く追いつける距離だ。
グレントロールは憎悪に駆られて走り出した。短距離選手のようなフォームで腕を振り、彼らが命がけで離した距離を瞬く間に詰めていく。金髪の冒険者は、いま、うつむく黒髪の冒険者によって地に寝かされるところだった。
手を下すまでもなく、死んでいるように見えた。しかしグレントロールにとって、それは大した問題ではなかった。ぐちゃぐちゃにして、バラバラに切り刻んで、胃の中に順番に入れられればそれでいい。
その瞬間を想像し、色の抜け落ちた体毛をわき立たせて絶頂したグレントロールは、よだれを撒き散らして右手の大剣を振りかぶった。横たえられた金髪の冒険者目がけて、恨みつらみを有りっ丈乗せて剛剣を振り下ろす。
果たして、ハルク・アルフォードの胴体を分断するはずだった黒い大剣の切っ先は、予定より一メートル七十センチほど手前で金属音に阻まれた。
彼を庇うように進み出た黒髪の冒険者が、左手一本で握った剣を頭上で倒して、とてつもない衝撃の全てをついにその細腕のみで受け切ったのだ。爆風が放射状に飛び散って、ぬかるんだ地面を削る。
「あぁ……もう、いい」
黒髪の冒険者は、うつむいたまま低く呟いた。全てに絶望し、失望した声音の奥底に、音もなく煮え滾るような殺意。
「殺す……神も、世界も、もちろん、お前も」
顔を上げた少年の目は、空を映したような真紅に染まっていた。
閃光と轟音の下に、一本の火柱が上がる。炎ではなく、そう見えるほど濃い赤色の、質量を持った光のような物質だった。夥しい量の赤いエネルギー体が火山の如く、地から噴出し少年を貫通して天を突く。
その光の中、苛烈な憎悪に燃える灼眼から一滴、赤い涙が流れて、頬を伝って滴り落ちた。
「ガァッ!!!」
少年の声では、既になかった。人ならざるおぞましい声の半分混じった絶叫を上げて、少年は頭上の剣を力任せに前方へ斬り払った。
その一閃はグレントロールの振り下ろした大剣を押し戻すどころか、その巨体もろとも赤子のように吹き飛ばした。ぶち撒かれる赤い閃光。三メートル半の巨躯が低空を飛び、ぬかるみを弾み、木々を次々と薙ぎ倒してようやく止まるのを、獣のように唸りながら赤い目が睨む。
彼のすぐ後ろで、呆然と立ち尽くす赤毛の冒険者、ユーシス・レッドバーンは、声もなく戦慄していた。
シオン・ナツメの身体に、おぞましいほど大量の煉素が集結している。あれは、【煉氣装甲】。煉素を全身にまとって身体能力を上げる、煉術。
地球人が、煉術を使っている。その事実にユーシスは震えるしかなかった。それも、ただの【煉氣装甲】にしては規模が大きすぎる。
シオンの周囲でうねり、狂喜乱舞する大量の赤いカケラたちからユーシスが連想するのは、獲物にたかる飢えた狼や、蜜に群がる虫の大群。
ここら一帯まるまるの煉素が、我を忘れてシオンに群がり、夢中になって力を貸しているのだ。まるで……シオンを、強いモンスターと勘違いしているみたいに。
地球人は、煉素を感知できない。煉素と対話する術を持たない。ゆえに、煉術は使えない。そのはずだった。
しかし、地球人の意思と関係なく、煉素自らが一方的に力を貸すことがあったとすれば--
「ゥゥゥゥゥァァ……ァァアアア……ッ!」
唸るシオンが右腕を振るうと、失われた肘から先がボコボコと泡立ち、たちまちそれを突き破るようにして新しい腕が生えてきた。
あ……有り得ない。目を剥いて絶句するユーシスの前で、シオンは具合を確かめるように手のひらを二、三度握っては開くを繰り返す。
剣を杖のようにして起き上がったグレントロールは、色素の抜けた体毛をぶるんと震わせて吼えた。地響きを上げて猛然と距離を詰めてくるトロールを、赤い閃光が真っ向から迎撃する。
重機同士の正面衝突を思わせる、凄まじい衝撃が樹海を駆け抜けて大地を抉り上げた。両者弾き飛ばされ、すぐさま再び飛びかかる。
グレントロールの左右の剣が雨の如く襲うのを、走り、跳び、滑って躱す。病的にかっ開いた両の目に灯る真紅の光が、尾を引いて虚空を跳ね回る。
バネのように跳躍したシオンの一閃を、今度はグレントロールが大剣で弾く。三倍の体格差などないかのようなシオンの剣圧に、巨体が揺らいだ。
腕力も、剣速も互角。それならこの勝負は、決まったようなものだった。
剣術のレベルが、違いすぎる。
ぐわりと揺らいだグレントロールの両腕に、刹那、無数の刀傷が刻まれた。グレントロール自慢の長い腕は、細切れになって茜色の空に舞った。
血の雨と肉塊が降り注ぐ樹海で、腕を失った哀れなトロールは悲壮な顔で喚いた。立つ位置を入れ替えるようにして背後に着地していたシオンは、その赤い目で、細長くなってしまったトロールを汚物を見るように見上げた。




