第17話-1
俺が見たのは、"滑車"だ。
切り立った鼠返しの崖。無限に続くかのようにそびえるその崖を追うこと、数キロ先。崖の頂上に、人工物が確かに見えた。この距離からでは俺の視力でも鉄の塊にしか見えなかったが、そこから、ピンと張り詰めたロープが真下に降りていた。間違いない。あれは滑車だ。井戸水を汲むのと同じ要領で、滑車を使って白薔薇のウォーカーはこのフィールドとルミエールを行き来していたのだ。
「やることも言うことも滅茶苦茶だぞ、貴様……数キロ先って、この距離から見えるものなのか……?」
喜び勇んで報告した俺に対し、ユーシスの反応は怪訝そうだ。
「シオンは目も鼻も耳もよく利くんだよ。どうやら煉素が干渉するのは運動能力だけじゃないらしいね。僕も地球じゃド近眼でメガネが手放せなかったけど、この世界に来てすっかり健康的な視力になったし」
「そうなんだよなぁ。特にこのフィールドに落ちてから、一段と五感が鋭くなった気がする」
「えぇ……君ってば本当に、煉素の影響を一人だけ受けすぎじゃないかな? なんでだろう、単純だから? 催眠術とか引っかかりやすそうだし」
「あまりに脳筋だから煉素がモンスターと間違えているのかもしれんぞ」
「おい」
軽口を叩き合えるぐらいには、三人とも心の余裕が生まれていた。腹を満たし、体を清潔にして、ゆっくり休めた。それがどれほど精神を穏やかにするか、改めて痛感する。
「ひとまず、シオンの言うことを信じてみようよ。特にアテがあるわけでもないんだし、数キロなら慎重に行ってもそう時間はかからない」
「ふん、まぁいいだろう。無駄足だろうがな」
口ぶりとは裏腹に、俺の報告した方角に向かってさっさと先陣を切っていくユーシスに、苦笑をこちらに向けてハルが続く。俺も腰の剣に一度手を触れてから、彼らの後を追った。
ハツカの木に囲まれた安全地帯を出ると、さすがに空気の質が違った。緑が終わり、血色の密林。途端にピリッと張り詰めた、ひんやりと冷たい空気が肌に突き刺さる。
それでも長い長いサバイバルの、終わりは見えた。三人とも、無意識に早足になりながら、黙々と樹海を歩き続けた。
一キロを歩いたかというところで、先頭のユーシスが足を止めた。彼の隣に進み出た俺とハルも、息をのんで言葉を失った。
ミステリーサークル、と言えばいいのだろうか。
俺たちの視界は一気に開けていた。あれほど所狭しと生い茂っていた木々が、この場所だけ竜巻でも発生したみたいに薙ぎ倒され、細切れになってあたりに散乱している。湿地の水気を吸って木片はふやけ、木の根まで引っこ抜けて土壌は氾濫し、足場はぐちょぐちょの泥濘になっている。
「なんだ、これは……」
「し……自然災害かな……?」
ユーシスとハルの声が遠いところから聞こえるほど、目の前の光景に圧倒される。これは、とんでもない暴力が過ぎ去った痕だ。これほどのことが無音で起きるはずがない。安全地帯に腰を落ち着けてからは少なくとも大きな物音は聞いていない。昨晩以前に起きたことのはずだ。
「けど、まだ新しい……」
ふやけた木片のいくつかを拾い上げる。そう何日も放置されたような傷み方はしていない。巨大な力で粉砕されているが、中には刃物でスパッと斬ったような断面のものもある。
「確かに……死んだ生物は数日で煉素に分解されるはずだ。植物だって同じだよ」
ハルの言葉に頷く。経過時間は丸一日以内、というところだろう。そこまで考えて、木片が発酵したようなガス臭さに紛れて、微かな獣の臭いが鼻をついた。
背筋に水をぶっかけられたような寒気が走る。俺は跳ね上がって剣に手をかけ、二人に向かって怒鳴り散らした。
「全力で、ここから離れろ!」
言い終わるかどうか。突如、大雲が空を覆ったように、俺たちの足元が陰った。反射的に顔を上げる。
巨大な鋼鉄剣を振りかぶった真紅のバケモノが、涎を撒き散らして嗤いながら降ってきた。
全力で方々《ほうぼう》に弾けた俺たちの中間に、身もすくむような威力で大剣が墜落。爆音と共に花火の如く泥が巻き上がる。散り散りになった俺たちの間に着地したソイツは、大剣を引き抜くと「ウホ、ウホ」と興奮したように巨体を揺すった。
「グレントロール……!」
待ち伏せしていたのか。まるで気配を感じなかった。脳が痺れて一瞬硬直した俺よりも、ユーシスの反応が早かった。
煉術の光を灯した両手をぬかるみに叩きつけると、ごうっ、と音を立てて紅蓮の炎が巻き起こり、辺り一帯を一気にオレンジ色の光と熱が包み込んだ。ユーシスの生み出した炎は円を描いて、檻のようにグレントロールを取り囲む。
しかし--ユーシスの表情に、余裕の色は一切なかった。一筋の汗が彼の頬を伝う。
「くそ、炎が……」
ユーシスの炎に、森で見せたほどの勢いがない。この場所には燃やせるものが全くないのだ。泥濘の上を這うようにして広がった炎の背はほんの数十センチほどしかない。
罠だ。その事実に気づいて、戦慄した。
グレントロールは、俺たちを確実に仕留めるべく罠を張って待ち伏せていたのだ。最初の交戦で炎にやられたことを踏まえ、燃やせるものを排除した舞台を作った。それも、俺たちの目的地の目の前に。
こいつは俺たちが目指すべき場所を最初から把握していた。ルミエールとこのフィールドを結ぶ滑車の存在を、知っていた。なんてことだ。討伐隊が二度も返り討ちに遭うはずである。このバケモノには、知恵がある。
「逃げるぞ!」
決死の表情で叫ぶユーシスに、俺は怒鳴った。
「無理だ!」
生唾を飲み込み、剣を抜いて三メートル級の怪物と対峙する。グレントロールは真紅に光る丸い目を俺に向けて、ニンマリ嗤った。開いた口の中で唾液が糸を引く。
「コイツの全力疾走を見た。とても逃げ切れない。人間の武器をこれだけ器用に扱って、罠まで作る知能がある。背中向けたら全滅だ。--ココで、コイツを倒す!」
ユーシスが目を見開く。ハルは悲壮な顔で唇をひき結んだ。
「俺とユーシスで戦う! ハルは滑車まで全力で走れ! 運が良ければ、ウォーカーの助けを呼べるかもしれない!」
「……ぅ」
ハルは言葉を詰まらせた。今のハルなら、僕も戦う、そう言ったっておかしくなかった。
圧倒的な恐怖の前では、どんな決意も風前の塵だ。ハルは動かない。俺は声が半分裏返るほど必死に、怒鳴り散らした。
「行けぇッ!!!」
反応したのはハルではなく、グレントロール。バカ長い手を振り上げて、大剣の切っ先が天を衝かんばかりの高さに伸びる。
一瞬迎撃しようとした判断を捨て、横に飛んで回避。特大のリーチから生まれる遠心力は、大剣の一振りに兵器じみた威力を与えた。唸る豪剣が鞭のように俺の立っていた場所に着弾したかと思うと、爆音を上げて泥濘が真っ二つに裂ける。
泥まみれになりながら転がり起きた俺に、剣を強引に引き抜いたグレントロールの追撃が迫る。横薙ぎに振るわれた凶器を間一髪、真上に跳んで回避。俺の残像が腰の高さで両断される。息つく間もなく命を二つ拾ったが、生きた心地は全くしない。
その時、グレントロールの頭が大爆発を起こした。ユーシスの爆撃だ。煙を吐く赤い銃を構えたユーシスの表情からは、もう意識を戦闘に切り替えたことがうかがえる。
「ナツメ、俺の炎では致命傷は与えられん。援護するから、貴様が斬れ」
隣に駆けつけたユーシスに、笑って頷く。
「あぁ……任せろ」
勝気に大口を叩いたものの、ヤツには一度剣を折られている。ユーシスに借り受けたこの剣でも、生半可な攻撃では分厚い装甲を貫けないだろう。
「……当てたい技がある。大きめの隙が必要だ、作れるか?」
「やってみよう」
俺の注文に頷き、ユーシスが手を空中で払った。長めの赤毛がぶわりと舞い上がる。次の瞬間、爆音をあげて彼の前方に紅蓮の火柱が四本立ち昇った。あまりの熱気に思わず顔を覆う。
そこから生まれたのは、燃え盛る炎で形作られた、体長一メートルを優に超える猟犬。俺が以前見たものより一回り大きく、一層力強い。彼の指揮で、それらは一斉に動き出した。




