第11話-1
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崖から蹴落とした少年が谷底に消えていくのを、ブラッド・レッドバーンは満足げに見下ろしていた。
少年の絶叫、驚愕と憎悪に見開かれた目が、眼下に広がる燃え盛るような樹海に吸い込まれ、見えなくなったのを確認したブラッドは、緋のマントを気障な所作で翻して谷から背を向けた。
ブラッドが立っているのは、"森林の終点"のような場所であった。鬱蒼と茂る樹海が、巨大なショベルカーで抉られたように突然ぶった切られて、その先がねずみ返しの崖になっているのだ。
世界がココで、分断されているかのような光景だった。
右も左も無限に思えるほど続いているこの崖の、下に広がる見渡す限り真紅の密林は、王国近隣では群を抜いて最悪の危険エリアだ。
《血溜まりの樹海》と、そう呼ばれる。
希少な資源が採れる故白薔薇のウォーカーが足を運ぶこともあるが、向かうのは必ず精鋭部隊。そうでなければ、全滅は必至だからである。
ハツカの木の匂いも谷底の密林にまでは届かず、独自の生態系が確立されている。熾烈な生存競争によって牙を研がれたモンスターたちの危険度は、手前に広がるこの森の比ではない。
この樹海に単身で落ちて、助かる人間などおるまい。ブラッドはふと、こらえきれず残虐にほくそ笑んだ。
一人息子のユーシスがシオン・ナツメに負かされたとき、ブラッドの自尊心は大いに傷つけられた。アカネの地で生を受けたナチュラルは、物心ついた時から剣を握り戦いを覚えるだけでなく、生命エネルギーたる煉素を感知し、煉術として使役できる。白薔薇に在籍するウォーカーの実に八割はナチュラルだ。ナチュラルは疑うまでもない、人類の優等種族。
ましてレッドバーン家は、300年以上の歴史を数える名家である。代々、剣と煉術の英才教育によって優秀な武人を輩出している。
その中でもブラッドは特別に秀でた武人だった。現役ウォーカーとして15年活躍し、どんな富も名声もほしいままにした。そして、手塩にかけて育てた一人息子は、ブラッドを超える逸材だともっぱらの噂になっていたのだ。
--それを、アカネに放り込まれてたった一週間かそこらの青猿に。
思い出すだに屈辱で、ブラッドの犬歯が激しく軋む。
もともと注目された試合であった。順当に差の開いた下馬評を覆して、飛び入りの地球人がナチュラルのエリートに勝ってしまった。息子の守護石が砕かれたのを目の当たりにした瞬間、ブラッドの中でも何かが音を立てて砕けた。
--父上。なぜあの子とは遊んではいけないのですか?
--あれはアンナチュラル、外人だ。お前とは文字通り住む世界が違うのだよ。我々と違い、戦う力を持たない哀れな民族だ。関わらなくてよろしい。
--でも、あの子、ひとりぼっちです。ご両親もいないようです。その上力もないなら、私たちが守ってあげないと。
--あぁ、愚かな息子よ。そうやって奴らを助けてきて、我々の先祖にたった一度でも見返りがあったか。原住民が外人をいくら助けてやろうと、奴らは施されて当たり前と言わんばかりに、いくらでもつけあがる。何が新客だ。支払うものもない者を客と呼べるか? あれらは、乞食だよ。
--乞食……。
アンナチュラル。外人。よそ者。青猿。乞食。地球人を指す豊富な蔑称のほとんどを、ブラッドは幼少期から両親に聞かされて育った。10歳にもなる頃には、ブラッドは、居住区を与えられ、仕事を与えられ、安全な壁の中で、外に出て戦う父たちを呑気に応援するだけのか弱い地球人たちが、卑しく見えて仕方なくなった。
ブラッドは自分の息子にも、当たり前のように同じことを言い聞かせて育てた。髪の赤い人間だけが選ばれた民族だと教えた。地球人の卑しさに気づかない純粋で愚かな息子の思想を、一刻も早く正してやらなければという、ただその使命感だった。
地球人を軽蔑しながら生きていくのは楽だった。自分たちナチュラルのおかげで生かされている哀れな人間と思えば、少なくとも害のある連中ではなかったからだ。
ところが、見下していた人種によって、自慢の息子が土をつけられた。
激烈な怒りを覚えた。息子の情けなさに。下等種族の分際で息子と同じ土俵に立ち、あまつさえマグレだろうと打ち負かした地球人の不遜さに。
いつか殺してやろうと思っていた。自分に向かって「あんたの息子は強かった」などと抜かした、あの身の程知らずの地球人だけは、必ずいつか殺してやると。
ブラッドはシオンに、煉術で"呪い"をかけた。ブラッドは煉素を相手の精神に干渉させる超高位の煉術、《幻惑煉術》を行使できる非常に稀有な才能の持ち主だった。
発動条件は、対象に触れた状態で、対象と目を合わせること。少しあの日のことを反省したフリをすれば簡単なことであった。シオンは容易く心を許し、ブラッドの術中にはまった。
あとは、任意のタイミングで術を発動し、シオンに幻覚を見せるだけ。ブラッドの行使した呪いは、対象の潜在意識を刺激して「最も会いたい人物」の幻を見せる。
「く、くくく……くふ、ふはははははははははははは!!」
愉快な気分を抑えきれずにブラッドは嗤った。--幻を見せられているとも知らずに、一目散に崖に向かって走り出したヤツの表情の、傑作だったこと!
おおかた、地球に遺した家族の幻でも見たのだろう。あぁ、思い出しただけであの滑稽な泣き顔、笑いが止まらない。
直接手を下したことこそなかったものの、ブラッドに今更、地球人の命一つ奪うのに、なんの躊躇もあるはずがなかった。
卒業試験中に受験生が一人行方不明になったとあれば、監督不行き届きでブラッドの責任は間違いなく追及されるだろう。だがそこは「ナツメ候補生が突然走り出し、シンクレア候補生と彼の両方を一人で監督するのは不可能だった」と弁明すればそれで済む。マリア・シンクレアの証言がそれを裏付けてくれるはずだった。誰もブラッドを責められない。
勝手に仲違いしてくれたのが好都合だった。もう一人の試験監督であるロイド・バーミリオンが一時的にでも退場してくれたおかげで、これほど上手くいったのだから。
とはいえヤツは盲目だ。目に頼れない部分をその他の感覚でまかなっている。盲目の地球人を出し抜くくらい、もとより造作のないことだったはずだ、とブラッドは鼻息荒く悦に入った。
--安心して死ぬがいい、ナツメ。貴様にはもとより、死んで悲しむ家族さえいないのだからな。




