海と空と
夕姫は3回ほど飛んだ。
駅から出てその方向へ。
しかし、その3回で、もう体力的に限界だとわかった。
それ以上その力を使ってしまうと、意識をやつに奪われるだろうということが予測できた。
なるべく心を沈めて、ゆっくりと進んだ。
坂を下り、林が見えてきた。
その周辺には人がたくさんいた。
当然だった。
所謂観光地で、なにやら美味しい匂いまでしてきた。
フランクフルトの匂いが食欲をそそる。
しかし、お金はもう持っていない。
夕姫はもう覚悟を決めたから、盗んでしまったものは駅に置いてきた。
警察に届けるのが筋かも知れないが、警察に行って捕まってしまうのが一番に恐れることだった。
その時にはもう自分は自分でなくなり、完全な悪魔に成り下がるだけだ。
なんとなくわかってきた。
自分の中に住むもう一人はどうやって自分に宿ったのか…。
何をしたいのか…。
まさに悪魔だ。
それは意識を奪われる時に必ず襲ってくるイメージ。
赤い景色。
叫び声。
そして、暗闇。
その暗闇の中で何かが流れ込んでくる。
違う誰かの意識。
自分の知らない世界が。
その全てが夕姫に夢を見させる。
自分がこのまま悪魔を逃がさないように。
惨劇が繰り返されないように…。
夕姫が出来るのはただそれだけだ。
ただ、それだけだった。
夕姫は人が行きかうその海岸を歩いた。
ずっとふらふらと歩いて夕姫はその景色に心奪われた。
さっきまで天気が思わしくなかったが、雲が切れて空から光が降り注いでいる。
遠くの海と空を眺めた。
久しぶりに気分がよくなった。
ここでよかった。
間違ってはない。
そう思った。
夕姫はふらふらと歩いて検討をつけた。
人があまり来ないあたりがいい。
海にかかる吊り橋を渡ってしばらくしたあたりだ。
そのあたりに来るとどっと疲れが出て、しばらく岩の上に腰かけた。
青い世界は心を落ち着かせてくれた。
夕姫は時が流れるのを忘れた。
「なんで海に吊り橋なんかかかってるんですか?」
吉原は泣き出しそうになりながら吊り橋を渡ろうとしている3人の背中を見た。
「何言ってんだ!早く来い!」
吉原は柴田のその声とその表情に怖くなったのかしり込みしながら勇気にしがみついて橋を渡った。
吉原は高所恐怖症だった。
吊り橋のしたは断崖で青い海に白い波が立って荒々しく見える。
「あいつに吹っ飛ばされた時こんなもんじゃなかったぞ。」
「え?!」
柴田は警察署で夕姫の旋風に巻き込まれて吹っ飛ばされた時のことを吉原に言うとさらにビビって腰が引けていた。
やっとのことでその橋を渡り、またどんどんと進んでいった。
一番、崖として見ごたえのあるところは最初にあった気がしたが、そこでも見当たらずとにかく進んで捜すしかなかった。
その時だった。
向こう側の崖の突端よりも手前に何か白い服の少女が座っているのが見えた。
夕姫だ。
それはすぐにわかった。
走った。
心臓が破れそうなくらい。
現役の刑事の柴田も吉原も梨奈に追いつけないぐらいの速度だった。
勇気はそれよりも後になんとかついて行った。
「夕姫!!??」
梨奈はあと5メートルほどのところで叫んだ。
「梨奈ちゃん!?」
夕姫は振り返ると驚いて、すぐに立ち上がり崖の方へさらにふらふらと近づいた。
梨奈は岩がゴロゴロして歩きにくいのにピョンピョンとはねて近づいてくると夕姫の腕を掴んだ。
その勢いで、夕姫の背中は梨奈の肩にぶつかった。
「夕姫!よかった。よかったぁ…」
梨奈はそういうと夕姫の背中から抱きついた。
梨奈はボロボロと涙を流した。
その滴が夕姫の肩に落ちた。
「なんでここが…。」
俯いた夕姫はその梨奈の手に自分の手を置いた。
「…発信機よ…。あのビニール袋に水野君が入れたの。」
梨奈は安心したのか微笑をもらしながら言った。
「そう…。」
夕姫は静かにそう呟くと梨奈の腕を解いた。
夕姫はそうしてすぐにまた一歩崖の方へ近づいた。
「夕姫…帰ろう?すぐに見つかる。いい方法が…。」
「…梨奈ちゃん…。」
ずっと後ろを向いたままの夕姫に梨奈は涙を流しながら言った。
「大丈夫。私がついているから…。ずっと一緒だから!」
梨奈はそういうとまた夕姫の腕を掴んだ。
夕姫はその腕を拒まなかった。
しかし、梨奈の顔を見ようとしなかった。
俯いたままの夕姫は腕をつかまれたまま海のほうへ体を向けた。
「梨奈ちゃん。ありがとう…。」
夕姫のその言葉に少し安心した。
「…でもね。駄目なの…。」
夕姫は視線を上に向けて空を見た。
「あれは…私と一緒に消えるの。」
夕姫の声は震えていた。
その言葉を聞いた梨奈は夕姫の腕を掴む力を増した。
それはおそらく夕姫にとって痛みを感じるほどだっただろう。
「何、言ってるの?」
梨奈の声も震えていた。
その顔から笑顔が消えようとしていた。
「あれを知っていたの。2年半前、あれは私の中に住処を変えた。気が付いたのは昨日だけど…。」
夕姫は呟くように言った。
その声は海から吹く風に消されそうだった。
「え…」
梨奈はその夕姫の言葉がよくわからなかった。
「ねぇ、梨奈ちゃん。私、夢があるの。」
その声はさっきとは少し違って明るい雰囲気で梨奈は少し驚いた。
「夕姫?」
「皆が幸せに暮らしてて、笑顔が絶えなくて。花や木々も沢山。そんな夢を未だに見てるのよ。」
夕姫は柔らかい声で呟いた。
「まさか、それを自分の手で汚すなんて、思ってなかった。あのコスモスの花は私に教えてくれたの。」
夕姫は一歩また前に出た。
「その世界に必要ないのは私なの。」
夕姫はそう言って梨奈の手を振り払おうとした。
梨奈は必死でその手を掴んだ。
「放して!!!!!」
夕姫がそう言うと突然に風が巻き起こった。
―バシ!!
その音は夕姫の腕を掴んでいた梨奈に向けられた。
梨奈の右腕から赤黒い血が吹き出た。
「う!!」
その痛みで梨奈は夕姫を放してしまった。
その途端夕姫は崖に向かって走った。
まだふらふらとしていたが迷いはなかった。
「だめ!!!!」
梨奈は傷を気にしないで夕姫を追いかけた。
「夕姫!!」
夕姫の体が風に乗って吹き上がる前に梨奈はその胴に飛びついた。
「梨奈ちゃん!?」
夕姫はその時やっと梨奈をしっかり見た。
「だめぇ!!!!」
―ブワァ!!
夕姫が叫んぶとその夕姫の体から引っぺがされたように梨奈が吹き飛んだ。
梨奈はかなりの勢いで崖の上に着地した。
―ゴロゴロ!!!
梨奈の体は岩の上を転がり傷だらけになりながら勇気が受け止めたところで止まった。
ちょうど、その梨奈の視線は夕姫を向いていた。
夕姫も空に舞い上がったまま風を起こした勢いで梨奈を見た。
その日初めて二人の視線があった。
その夕姫の顔が歪んで何かを口走った。
しかし、その言葉は聞こえてこなかった。
夕姫の姿はすぐに崖の向こうに消えていった。
それはほんの一瞬のことだった。
「あぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」
―ドサ!
梨奈の叫び声は一気に解き放たれるとその音と共に終息した。
梨奈の体は勇気に支えられながら岩の上に力なく横たわった。
その頬には涙の痕が残されていた。




