明日香
当時夕姫は小学6年生で11歳だったころのこと。
夕姫はそのころ友達とよく遊んでいた。
友人も多かった。
その友人の中で一番の友達、親友と呼べる少女が居た。
その子の名前は滝沢明日香。
幼馴染で幼稚園から仲がよかった。
よく夕姫は明日香の家に遊びに行っていた。
それがその建物だった。
当時はそのあたりでは結構いいマンションだった。
明日香の母はキャリアウーマンでシングルマザーだった。
家に行ってもほとんど母はおらず二人はいつも自由にそこで遊んでいた。
明日香自身家事は得意で母があまり家にいないことに淋しさを感じてはいたが、不自由は感じていなかった。
そんなある日のこと二人が明日香の家で遊んでいると母が帰ってきた。
しかし、母は一人ではなかった。
明日香も夕姫も驚いたが、それは母の新しい恋人だった。
その時はいてはまずいだろうと夕姫は帰宅した。
しかし、異変が始まったのはその頃からだった。
明日香は学校で会うたびに何かしらの怪我をしていた。
痣は日常茶飯事で時には包帯を巻いている事もあった。
そして明日香は家に夕姫を呼ばなくなった。
行きたいと言うと遠まわしに断るようになった。
夕姫は半ば強引に遊びに行って、その実態を見てしまった。
それは母の恋人による暴力だった。
その男は仕事をほとんどしていなくずっと家に居座っていた。
彼は明日香が帰ってきて夕姫がいることでそれを押さえていたようだが、遊んでいたところ突然明日香の部屋に入ってきて、「夕飯を作れ」だのと突然明日香の頬をひっぱたいた。
夕姫はそれにおどろいて止めようとしたら男は夕姫を睨みつけ明日香の髪を引っ張って連れて行こうとした。
あまりの出来事に夕姫はその男の腕に噛み付いて明日香の手をとって走り出した。
夕姫はそこから必死で明日香を連れて自分の家まで着くと親に説得して明日香を一晩だけでも泊めさせてくれとお願いした。
夕姫の母、陽子は困った顔をしながらそれを容認したが、一応明日香の母親に連絡をすることにした。
そして、日が暮れすっかり夜になったころ明日香の母が夕姫の家に来て、明日香は結局帰っていった。
それから明日香は学校に一時来なくなり、病院に入院していると聞いた。
見舞いに行った夕姫はその明日香の様子に青ざめた。
なぜ、あの時無理にでも自分の家に泊めさせなかったのかと後悔した。
腕や足を骨折して頭にも包帯を巻いていた。
明日香は階段から落ちたのだと言っていた。
明日香は笑うこともなかった。
そしてしきりに何かを呟くようになった。
それから明日香は退院するまでに少しずつ元気になっていったが、学校に登校する度にまだ怪我が増えていった。
心配をして夕姫は学校の先生などに相談をしたが家の問題だと取り合ってくれなかった。
親に言ったら明日香の母と話をしてくれたようだったが意味が無いようであった。
そしてその日はやってきた。
学校に来た明日香はめずらしく包帯などをしていない姿だった。
腕にはあおあざや傷が生生しかったがそれでもいつもよりはマシに見えた。
夕姫は明日香と一緒に話をしながら帰ることにした。
その様子は男が現れるころに比べると暗くて静かな雰囲気だったがその日の明日香は何か楽しげに笑っていることが多かった。
その帰りがけに二人は路上で死んでいる鳥を見た。
その様子から車に弾かれた様だったが、それをどこかに埋めてあげようと言ったとき夕姫は明日香の様子に驚いた。
「死んだらもう抜け殻だもの、そんな必要ないでしょ?」
その時の言葉が夕姫には忘れられなかった。
しかし、夕姫は放って置けなくて近くに埋めてやった。
それを見ていた明日香の顔は冷たくいつもの明日香ではないと感じた。
そして明日香のマンションについて別れ際明日香は「さよなら」と言った。
いつもは「バイバイ」と手を振るのに、その日は「さよなら」と言ってすぐにマンションに吸い込まれていった。
夕姫はそれが非常に気にかかって家に帰ってからもずっと考えていた。
日が落ち始めて空が赤くなり始めた頃夕姫は明日香の家に電話をした。
しかし、誰も出なかった。
夕姫は気になってそのまま明日香の家に向かった。
そして、その扉の前でなにか嫌な予感に苛まれながらもチャイムを押した。
しかし、誰も出なかった。
夕姫は本当に誰もいないのかと試しにドアを開けようとしてみた。
そしてドアは開いてしまった。
鍵はかかっていなかった。
夕姫は恐る恐る靴を脱いで中へ入っていく。
リビングに入る扉の前でいつもとは違う気配に怯えていた。
扉は一部がスリガラスで中の色が少し透けていた。
夕日のせいなのか部屋は真っ赤に見えた。
そして扉を開けて目に飛び込んできたのはどす黒い赤い部屋だった。
それは夕日の色ではなかった。
部屋中に赤い液体がこびり付いていた。
ぽたりぽたりと家具から滴り落ちるそれは粘着質で金臭く夕姫は気持ち悪くなった。
その時、視界の左端に人の気配をかんじた。
そこに明日香が包丁を持って立っていた。
その奥には二人の人が倒れていた。
明日香はそれを見つめていた。
夕姫には後姿しか見えなくて表情はわからない。
そして明日香は夕姫の方を振り向くことなくその包丁を右から首に添えると素早く前方に滑らした。
その切れ込みから勢いよく噴出した液体はさらに赤く染めた。
すぐに明日香の体がよろめいて床に転がった。
夕姫は言葉もなくただ明日香の後方にゆっくりと歩み寄りその姿を見た。
明日香は天井を向いて眼球をふらふらと揺らしていた。
明日香は夕姫に気が付いたが少しだけ顔を見るやすぐに目を見開いてその痛そうな表情の中に驚きを見せた。
そしてすっと視線がずれて斜めに上を眺めやりその口が僅かに動いた。
夕姫には明日香が何を言いたいのかわからなかった。
そしてその目から涙が一粒流れ落ちた。
夕姫の記憶はそこまでだった。
その後夕姫は気が付いたら自宅のベッドで寝ていて、母がその傍でうとうととしていた。
夕姫はそれが夢かと思ったが、夢ではなかった。
明日香は死んだ。
そのすぐ傍で倒れていたのは明日香の母親とその恋人だったそうだ。
夕姫はその少し離れたあたりで気を失っていた。
それはその夜、近所に住んでいた主婦が回覧板を持ってきたところ発見された。
その後そのマンションの住民は気味悪がって引っ越してしまう人が相次いで、荒廃していった。
夕姫は明日香と一緒に行ったそのマンションの屋上に一人でもよく行くようになった。
一年半ほどたったころ住民の多くがいなくなった。
採算の取れなくなったマンションだが、しばらくの間数人の住人を残してそのまま放置されていた。
その今までの間夕姫は一人で屋上の花壇を手入れしていた。
中学2年になって梨奈が来て二人でその花壇を守るようになった。
夕姫にとってその場所は特別な場所だった。
梨奈と仲良くなるきっかけをくれた場所。
親友だった明日香が生きて、死んだ場所。
そして夕姫の心が囚われている場所。
夕姫はしおれたコスモスを池に投げ入れると身体を縮めて膝を抱えた。
その膝に顔を埋めると一人静かに泣いた。
太陽は隠れて雲が暗く空を覆っていた。
今にも雨が降りそうだが今の夕姫には関係のないことだった。