九話 俺に任せて先にいけ
「おい、近付いてきているぞ!」
それに、もう足が限界だ。俺はこのまま奴等の餌にでもなってしまうのだろうか?
死が現実的なモノとして近付いてきた事を体が、頭が、本能が察してしまったのか、恐怖に身が竦んで足が止まってしまう。
そして一度止まってしまったら、もう足は動かない。
限界を超えて走り続けた俺はゼーゼーと呼吸を乱し、ついにその場に膝をついてしまった。死が――足音を立てて近付いてくる。
「ふむ、これだけ離れれば十分でしょうか」
声に気付き顔を上げてみると、カー子も足を止め迫り来るジャイアントオークの群れに視線を向けていた。呼吸の様子からは俺と違い多少の余裕が見て取れるが、俺が膝をついた事に気付いて足を止めてしまったのだろうか。
「離れ、れば……? むしろ、近づ……いて……」
肩で息をしながら何とか答える。
「私が言ったのは森から、ですよ。ところでタカシ、何か刃物はお持ちですか?」
「鞄の、中に……確か、カッターが……」
そう言って手に持っていた鞄を差し出すと、カー子は鞄を漁りだしカッターを取り出してチキチキと刃を出して見せた。
まさかそんな粗末な刃物であの恐ろしい化物の集団に立ち向かう気なのだろうか?
「何を、馬鹿な……もう、俺を、置いて……逃げろ!」
そう、俺を置いて逃げれば、俺が襲われている隙にカー子だけでも逃げ果せられるかもしれない。
こんな化物達に捕まれば、何をされるか分かったものでは無い。
この世界のオークという存在の生態系は知らないが、カー子のような美少女が捕まれば、例え殺されなかったとしても行き着く先は生き地獄だろう。
俺は今もなお、より形を帯びて死が迫っているこの瞬間に、子供の頃からカーチャンに言い聞かされてきた言葉を思い出していた。
「――いい? 高志。男の子は女の子を守ってあげなくちゃいけないのよ? 女の子を泣かせる男は最低なんだから。カーチャンとの約束――」
記憶の中の母が俺に優しく笑いかける。
そうだ、ずっと引き篭もってばかりで裏切ってばかりだったけど……せめて人生の最後くらい、カーチャンとの約束を守って死のう。
そう思うと自然と恐怖に竦んでいた体に少しだけ力が篭もる。
ジャイアントオークの群れはすぐ近くまで近付いている。せめて、彼女だけでも逃さなくては。
俺は呼吸を整えて、疲労と恐怖に震える体に鞭を打つと何とか立ち上がり、カー子の前に立ち塞がる。
今が、今こそが俺の人生最高の輝きピークだ。
そして迫りくるジャイアントオークの群れに向かい直すと、背中越しにカー子向かって告げた。
「ここは、俺に任せて先に行け!」
「あ、はい。そういうの今いらないので、さっさと手を貸してください」
俺の人生最高の輝きピークは幕を降ろしていた――
何ならこっちは続け様に「別にアレを倒してしまっても構わんのだろう?」くらい言い放つ準備が出来ていただけに恥ずかしい。
顔を赤くして固まる俺を余所にカー子は俺の左手を手に取って引っ張る。そして――
「痛ッ――!」
俺の左手の人差し指がカー子の持つカッターの刃によって深々と切りつけられていた。
「――ッたー! 何してんの? お前!?」
「説明は後です! じっとしていてください」
そういうとカー子は切りつけた人差し指の付け根を右手で掴むと、唐突に膝を付き指先の高さまで下がった顔を近づける。そして――
「失礼します」
――なにを思ったのか彼女は俺の指先を咥えだしたのだった。
目と鼻の先まで迫り来る脅威――ジャイアントオークの群れを余所に、突如俺の指をカッターで切りつけたかと思えば跪いて指を咥え始めるカー子。
「はむっ……んっ……チュパ……」
俺の指に右手を添えて、左手で顔に掛かる髪を掻き上げながら一生懸命といった様子で俺の指を咥えてしゃぶるカー子の姿は、命の危機が迫っているというのに、いや、命の危機が迫っているからなのだろうか、やけに艶やかで扇情的なモノに感じられた。
早まる鼓動を押さえつける様に残された右手を心臓の上に重ねて心を落ち着かせた俺は、先程まで聞こえていた重厚な地響きにも似た足音が静まり返っている事に気付き戦慄した。
そして、俺は、ゆっくりと、後ろを振り向き――絶望する。
そこには醜悪な面を更に醜く歪めてブヒブヒと下卑た笑みを浮かべるジャイアントオーク達の姿があった。
ジャイアントオーク達はようやく追いついた二匹の獲物を、万が一にも逃さぬようにとゆっくりと輪を描くように取り囲み始める。その数、八、九、十……十ニ匹。
「おい! カー子ぉおお!!」
俺はこの異常な状況に思考が麻痺し、走って逃げ出すことも、未だ指を咥え続けるカー子から指を引き抜く事すら出来ずにいた。
「んっ……もうふこひれふ……」
もう少し? なにを言っているのだろうかコイツは、もうお終いなんだよ。俺も、お前も……
周囲を見回す。ジャイアントオーク達の包囲はもはや完璧に完成してしまっていた。
俺の正面、つまりはカー子の後ろに居る一匹のジャイアントオークが雄叫びを上げながら手にした斧を振りかぶる。
一体何故こんな事になってしまったのだろうか――
無職で引きこもりの社会不適合者だから異世界転移してしまった? そう言われて一体誰が納得できるというのか。そもそも俺は何故引きこもりになったのだろうか――
ハーフの母親を持つクォーターで周囲から浮いしまっていたから?
十四の時に父親が失踪した事が原因で受けた精神的ショックから?
クラスメイトや近所の住人から向けられる視線に耐えられなかったから?
学校を休み始めた俺に一切怒らないカーチャンの優しさに甘えてしまったから?
きっと答えは一つでは無く、全てが複雑に絡まりあった結果、ほんの少し足を踏み外してしまったのが今ここに居る俺なのだろう。
命の危機に瀕し、遅すぎる自己分析を後悔と共に、母への親不孝を懺悔する青年の姿がそこにあった。
(もう駄目だ――! ごめん――カーチャン――!)
これから下されるであろう残酷な死の鉄槌に身体を強張らせて、目を瞑り先行く不幸を母に詫びたその瞬間――
――チュポン。
彼女の唇から俺の指先が解き放たれた。そして――
「お待たせ致しました」
――彼女の声が力強く響き渡る。




