その2
「どうしたの? 大丈夫?」
絶望に打ちひしがれた私に、背後から声がかけられる。
振り返ると、先ほど私の隣で眠っていた男性が、不思議そうに私を見ていた。
「バスに、乗り損ねてしまったんです……その、眠っていて気がつかなくて」
また、三時間も待つのはちょっと嫌だ。
寝て体力も回復したし、もう少し進んでみようかな。
私は、街があると思しき方向へ足を向けると、そのまま歩き出した。
「ねえ、ちょっと待ってよ!」
男性は、そう言うと、背を向ける私の方へ早足で駆け寄ってきた。
「ねえ、ここから次の町までは、歩いて三十分以上かかるよ?」
「大丈夫です、三十分なら歩くので」
昨日は、三十分どころか五時間も山道を歩いたのだから。
「その足で!?」
男性は、皮がめくれて血の滲んでいる私の踵を指差す。
……ヒールを履いているのに、どうして気が付いたのだろう?
「あのさ、僕の家がこの近くにあるんだけど……傷の手当てだけでも」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です」
出会ったばかりの男性の家にお邪魔するなんて、そんな危険なことはできない。
「で、でも、そんな足じゃあ、町まで一時間くらいかかっちゃうよ?」
「いや、でも。その……」
「僕は、猫柳マオ。この先で古本屋をやっているんだ。どうせお客も来ないからさ、手当てだけでもさせてよ」
そう言うと、男性――マオは少々強引に私を立たせ、問答無用で歩き始めた。
相変わらず足は痛むが、マオが肩を貸してくれているので多少は楽だ。
マオの営む本屋は、バス停から徒歩三分ほどの場所にあった。
道路を挟んで山と反対側の斜面を奥へ進んだ、少しわかりにくい場所である。
「こんな近くに家があったなんて……気がつかなかった」
気づいていれば、電話を借りるなりなんなりしていたかもしれない。
「そこの椅子に座って?」
私を近くにあった小さな木の椅子に座らせると、マオは部屋の奥から四角い救急箱を持ってきた。
「痛そうだね、足、貸して?」
「あ、あの、自分で……」
断っているのに、目の前のマオは手を止めてくれず、ものすごい手際の良さで私の足を手当てしていく。
血まみれだった足は、あっという間に綺麗になり、消毒された。傷の上には、可愛らしい猫柄の絆創膏が貼られている。
「もう大丈夫だけど、しばらくあの靴で歩くのは止めておいたほうがいいかも」
「……ありがとう、ございます」
「それで、どうして足を怪我してあんな場所にいたの? ここって、普段は誰も通らない場所なんだけど」
「ええと、真夜中に山をずっと降りてきたらこうなって」
「真夜中に、山って!?」
驚いた様子のマオは目を丸くしていた。
「ええと、頂上付近に置き去りにされて、一晩かけて降りてきたところで……」
「ひどいな、誰がそんなことを!」
急にマオが怒ったような声になったので、私は慌てて言葉を続ける。
「大したことじゃないんです、私が悪いの! 彼氏を怒らせてしまって」
マオは私の言葉を聞くと、困ったような表情でこちらに向き直った。
「ええと、君……男を見る目、ないね」
はたして、そうなのだろうか。分からない。
でも、夜の山奥に置き去りにされても……私はまだ彼氏のことが好きだった。
自分でも懲りないと思うけれど、別れるなんて考えられない。
「あの、スマホの電波が立たなくて……電話をお借りしてもいいですか? タクシーで家まで帰ろうと思って」
「ああ、そんなことしなくても、送っていくよ」
「でも、悪いです。そこまでしてもらうなんて」
「いいの、いいの。こういう時は甘えるものだよ。君、名前は?」
「あっ……そういえば、まだ名乗っていなかったですね。私は逢坂梢といいます」
「梢ちゃんかぁ……どこに住んでいるの?」
「街を過ぎて、少し先の丘にある住宅街です」
「了解」
マオは、そう言うと、なんと自分の車を出してくれた。私は、彼にお礼を言ってそれに乗せてもらう。
話をしているうちに、彼に対しての警戒心は不思議と消えていた。
「いい匂いだねえ、梢ちゃん」
ハンドルを回しながら、不意にマオが私に向かってそう言った。丸一日お風呂に入っていない身としては、複雑だ。
そのまま車で送られた私は、彼に家の前で下ろしてもらう。
「手当てしてもらった上に、家まで送ってくださって……本当に、ありがとうございました」
「気にしないで。僕が送りたかっただけだよ」
出会った時とは打って変わり、私は笑顔でマオに手を振った。
※
次の日の夜、彼氏から電話があった。
私は性懲りもなく、嬉々としてそれに出てしまう。
「あの、昨日は、ごめんなさい。私……」
「反省したか?」
「した……あの山道は大変だったもん」
「大したことないくせに、大げさな奴だな。あの後、普通に山を下りて帰ってきたんだろ?」
それだけ言うと、彼氏は一方的に電話を切ってしまった。
これは、許してもらえたと捉えていいのかな……?
私は、黙って自分のスマホを握りしめることしかできない。
大丈夫、きっと彼は私を愛してくれているはずだ。
そう信じて。