その1
幼い頃から、私――逢坂梢は、なぜか猫に好かれていた。
親曰く、ことの発端は、2歳になった私の遅めの公園デビューだとか。
※
ある日、砂場で遊んでいた私の傍に、一匹の野良の黒猫がやってきた。
私が猫を怖がる様子がなかったので、一緒にいた母親は少し離れた場所で様子を見守っていたらしい。
すると、その黒い猫は、私に体を擦り付けながら、仰向けになってゴロゴロにゃーにゃー言いだし――その声を聞きつけた近所の野良猫たちが一斉に公園に現れて、私の傍へと群がったそうだ。
それは、異様な光景だったとか。
怖くなった母親は、私を抱き上げてすぐに公園を後にした。
猫を引き寄せる性質が治らないままに、私はすくすくと成長した。
その後も、外に出るたびに猫に付きまとわれている。
犬とは違い、猫は町中を自由に徘徊しているので、日常生活の中で避けることが難しいのだ。
何もしていないのに、近所の人に「猫に餌をやるな」と怒られたこともある。
猫が勝手に寄ってくるだけなのに……非常に理不尽だ。
――そして、高校生になって彼氏ができた私は……
デート先でも、相変わらず猫に付き纏われて困っている。
「うわぁ、キモい! なんだよ、その大量の猫。お前、猫に呪われてるんじゃねえの?」
隣で、顔をしかめている大柄な男性は、私の彼氏だ。
彼は私よりも三つ年上の大学生なのだが、ちょっと俺様気味な性格である。
この日は、二人で山に夜景を見に来ていた。
私の彼氏はデートに金をかけない主義で、彼氏が運転してくれる代わりに、私はガソリン代と食べ物や飲み物代を全額払う。ちなみに、車は彼氏が友人から借りたものだった。
でも、生まれて初めてできた彼氏だし、私はそんな彼に惚れている。
ごくたまにだけど、とても優しい時もあるのだ。
誰もいない静かな山からは、街が宝石の欠片ようにキラキラと輝いて見えた。
普通なら、とてもロマンチックな雰囲気になるけれど……
『にゃー、にゃー』
私の足元に群がる猫たちが、それを台無しにする。
やはり、山はまずかったようだ。
そんな様子を目の当たりにした彼氏は、急激に不機嫌になった。
「キモイな。オラ、クソ猫、どけよ!」
彼氏が、私にまとわりついた猫のうちの一匹を蹴り上げた。
『にぎゃっ!』
蹴られた猫は、一メートルほど吹っ飛ばされ、背中から地面に着地する。
すぐにささっと立ち上がり、逃げていったところを見ると怪我はなさそうだ――よかった。
「ちょっと、いくらなんでも、蹴るのはかわいそうだよ!」
「うるせーな。お前、俺に意見するのか? 俺は、猫に囲まれて困っていたお前を助けてやったのに?」
私の言葉に、彼氏の目がきつく吊り上がる。
やばい、私は彼の怒りスイッチを押してしまったようだ!
彼氏は怒りの沸点が低く、ちょっとしたことでも、すぐに機嫌を損ねてしまうのである。
「……ご、ごめんなさい!」
「黙れよ。ここに連れて来てやった恩を忘れて、生意気なこと言いやがって……何様のつもりだ?」
そう言うと、彼氏は一人で車に向かってズンズンと突き進む。
「ま、待って。さっきは、私が悪かったから。ごめんなさい!」
私は謝りながら彼氏を追うが、彼氏は一度もこちらを振り返らなかった。私を待たずに無言で車に乗り込み、ドアを閉める。
「待って……」
しかし、私が車に追いつく間もなく、エンジンがかかった。
急いで車のドアを開けようとするが、固くロックされていて開くことができない。
「ごめんなさい! お願いだから開けて!」
ドアにすがりつく私を無視して、ゆっくりと車が発車する。
「ねえ、嘘でしょう? 冗談だよね?」
謝ればきっと許してくれる……
そんな私の判断は甘かったようだ。
車は私を振り切るように、徐々にスピードを上げていった。
私も必死に走って車に追いすがるが、人間の足では限界がある。
車は、私を山の中に残したまま、街の方角へと去っていった。
「……冗談、だと言って?」
そうだ。彼氏はきっと、私がまだ反省していないと思っているんだ。
これは、彼なりのお仕置きで、しばらくしたら迎えに来てくれるはずである。
けれど、何もない真っ暗な山道に一人で残されるのは辛かった。
周囲は闇に包まれており、街灯もなく、月明かりだけが頼りだ。
「熊や猪が出たらどうしよう……変態が出たらどうしよう」
私は、彼氏に置き去りにされた場所にしゃがみこんだ。
他に道を通る車は一台もない。
この場所は、山道の中でも比較的ひらけた場所にあるが、こんな状況下では眼下で美しく煌めく夜景も恨めしく思えた。
鞄からスマホを取り出して彼氏に連絡しようとしたが、電波がないらしくメールも電話もできない。
『にゃあ!』
困った私がしゃがんだままでいると、ふと足元に暖かいものが触れた。
『にゃあ、にゃあ!』
驚いてそちらを見ると、私の周囲をたくさんの猫が取り囲んでいる。
猫たちは、先ほどいた場所から私を追いかけてきたらしい。その数、全部で二十匹ほどだ。
私は、近くにいた縞模様の猫の背中をゆっくりと撫でる。
この子は、さっき彼氏に蹴られていた子だ……怪我をしていないみたいで本当に良かった。
縞模様の猫を膝に抱きあげた私は、その子を優しく抱きしめた。
『にゃー!』
途端に、他の猫たちが我先にと私の腕の中へと潜り込む。
あまりの猫の数の多さに、私は後ろ向きにひっくり返ってしまい――転んだはずみで、近くにあったガードレールに頭をぶつけてしまった。
まったく、なんてツイていない日なんだ!
暗澹たる気持ちで、私は星空を眺める――今が冬ではなくてよかった……
冬にこんな場所に置き去りにされたら、寒さで凍え死んでしまいそうだ。
「いつまでも、じっとしていたらダメだよね」
ヒリヒリ痛む頭をさすりながら、ゆっくりと起き上がると、私は真っ暗な下り坂を睨む。
ここを降りれば、山の麓に出るはずなので、そこで誰かに声をかけて助けてもらおう……途中で彼氏に出会えるかもしれないし。
懐中電灯もないし暗闇は怖いが、こんな場所でじっと夜を過ごすのも耐えられない。
私は、真っ暗な山を車道に沿って歩き始める。
明日は日曜日で学校の心配はなく、母親は遠方へ旅行に出ていた。ちなみに、父は母と離婚して別居中だ。
『にゃー、にゃー』
歩き出す私の後ろから、猫たちもゾロゾロとついてきた。
「一人になるよりは、心強いかも」
猫を引き連れて、先ほどよりもさらに真っ暗な道を進む。
夜道でも比較的見えやすい真っ白なガードレールと白線だけが頼りだった。
他に道標はない。
永遠とも思える暗闇を歩き続けた私の足取りは、だんだんと重くなっていく。
スマホを見ると、すでに夜の三時だった。
麓に着く頃には、きっと朝日が昇っているだろう。
「はぁ、足が痛い」
久しぶりの外デートだと張り切った私は、気合を入れて買ったばかりのピンヒールの靴を履いてきてしまったのだ。
ヒールの高い靴を履くのは足が痛いが、かといって裸足で歩くのも痛い。
ここの山道はあまり舗装がされていないのか、アスファルトがデコボコに崩れていた。
表面の滑らかさが失われ、鋭い小石がむき出しになっている。
『ぶにゃあう!』
不意に、一匹の猫が私を励ますような鳴き声をあげた。
「そうだよね、こんな場所でじっとしてなんかいられないね」
誰も、私を助けになんか来てくれないのだ。
物語の中のように、都合良く正義の味方や王子様が現れるなんてありえない。
残りの力を振り絞って、私は足を前へ前へと運ぶ。
麓に近づくにつれ、猫は一匹また一匹と山の中へ姿を消していった。
まるで、自分の役目は終わったとでも言うように。
この日、約五時間かけて私は夜の山を下りきった。
近くにある駐車場を見回したが、彼氏の車はない。
彼は、私を置いて先に家へ帰ってしまったようだった。
徐々に明るくなっていく空を見上げながら、私は山の麓の道路を歩く。
ここから家までは、車で三十分ほどかかるのだが……人の気配はない。
駅もなく、タクシーやバスも見当たらない。
一度、通りかかったトラックを止めようと手を振ったが、無視された。
それ以来、車も通らない。
山道でずっと張り詰めていた気持ちが折れ、私はその場に崩れ落ちた。
アスファルトの道路や、古びた看板、コンクリートで出来た無人の建物。
人工物がたくさんあるのに、人が一人もいない。
「疲れた、眠い」
再び立ち上がり、とぼとぼと歩く私の前に、朽ちたバス停が見えた。
ボロボロの屋根の下に、劣化したプラスチック製のベンチがある。
水色に塗られていたであろうそれは、雨風にさらされて、塗料が白く剥げていた。
「バス、乗ろう……」
まだ、スマホの電波は立たないので、とにかく人のいそうな場所へ行こうと思う。
そこでタクシーを呼べば、なんとかなるはずだ。
バスの時刻表を見ると、朝一番のバスが来るまで三時間以上もかかる。
しかし、私の足はもう限界だった。皮がズルズルに剥けてしまって、血が出ている。
私はベンチに腰掛けてハイヒールを脱いだ。
途端に、猛烈な睡魔が襲ってくる。
「夜通し歩いたものね。少しだったら、大丈夫だよね」
鞄をお腹に抱えた私は、ベンチに座ったままそっと目を閉じた。
※
なんだろう、あったかい。日が昇りきったのかなあ……
バス停で眠った私は、なぜか自分の体が優しいぬくもりに包まれている夢を見ていた。
霧が晴れるように、昨夜の嫌な記憶が薄れていく。
「ん……?」
ゆっくりと意識が覚醒していき――私は、穏やかな気持ちで目を覚ました。
しかし、起きると同時に、自分の体に奇妙な違和感を感じる――体の左側がやけに重い。
不思議に思って、そちらを見た私は、喉から出かかった悲鳴をかろうじて飲み込んだ。
「だ、誰……!?」
そこには、見知らぬ黒髪の男の人が座っていて……彼は、私に凭れかかるようにして眠っていた。
瞼を閉じてはいるが、その顔はとても整っている。
歳は、少し上くらいだろうか?
「むにゃ、やっぱり……いい匂い」
男の人は、平和そうに眠りながら時おり寝言を口にしている。
「そうだ! バス!」
こんなことをしている場合ではない。
バスが既に出てしまっていたら大変なので、私は慌てて携帯の時計表示に目をやった。
予定では、三時間後に来るはずのバスだが、寝ている間に通過してしまったなんてことは……
「ああっ! そんなっ……!!」
恐れていた通り、バスは十分も前に出発してしまっていた……
次のバスが来るのは、三時間後である。
「こんなことなら、アラームをセットしておくんだった」
どうやら、私は、思った以上に疲れきっていたようだ。