〜グランヴェルグの成り立ち〜
ぽたっ……ぽたっ……
何処からか、背筋を凍らせるような音を響かせて、水が滴り落ちる音が聞こえる……
暗い暗い真っ暗な洞窟の中を、フードを目深に被った男は事もなく、ヒタヒタと進んで行く……
中は夏の暑さが残る外の温度とは違い、急激に気温が低くなり、寒さすら感じる程だった。まるで洞窟の入り口を境に、別の異空間へと足を踏み入れたかの様だ。その洞窟の中を、奥へ奥へ……どんどん足を踏み入れて進む。
ぽたっ……ぽたっ……
水の滴り落ちる音が、聞こえる……
途中、何度か男が抱えている何かが、モゾモゾと動いている様に見えたのは、果たして気のせいか……
ぽたっ……ぽたっ……
だいぶ近づいてきたようだ……
水が滴り落ちる音と、男の足音以外は何も聞こえないシンと静まり返った不気味な洞窟は、今まで外界からの何者をも受け付けた事が無いかの様に虚ろで、そして病的だった。
ぽたっ……ぽたっ……
何年も何年も、かかって出来上がったのであろう、滴り落ちた水から作られた泉には、音も無く――――だが、確実に外界には存在しない、怪しげな触手が蠢いていた。
少しでも気を抜けば、たちまち水の中に引き込まれてしまうだろう……
だが、フードの男は意に介さず、事も無げにその中を進んで行く……
あと、少しだ……
ぽたっ……ぽたっ……ぽたっ……
水が、滴り落ちる…
ぽたっ……
男を取り囲んで並走していた幽鬼が、クスクスと笑っている様に揺らめいている……
*****
……何故、こうなった……
やっとの事で辿り着いた、暗い暗い、真っ暗な闇の世界――――
ラナセスはギラギラと鋭利に光る瞳を巡らせながら、思いに耽っていた。
グランヴェルグ王都の南西に位置するクロイドの森に塔を建設し、名のある錬金術師達を国中から集め、秘密裏にウロボロスとカドゥケウスの製作実験に乗り出し、ずっと順調だった。
このまま行けば計画的に……それどころか、予想より遥かに早くグランヴェルグ王都を手中に収め、そこから更に世界を支配出来る筈だった。
それが、一ヶ月程前、急に風向きが変わった。何処からか情報が漏れ、グランヴェルグ国王が本格的に調査に乗り出したのだ。
途中までは上手くやり過ごせたものの、結局塔は荒らされ、ウロボロスとカドゥケウス……そして少女の存在が暴かれ、計画を断念するしかなくなった。
塔から逃げ出す際も、あの忌まわしいグランヴェルグ国王の息子、カルロスとその側近のハーフエルフが執拗に追いかけ、致命傷とまでは言わないが重傷を負わされ、少女を奪われた……
────自分は、完璧だった筈なのに……
ギリ……と奥歯を噛み締めながら、ラナセスは唸る。
自分には何の落ち度も無かった……10代の、年若い少年の時から綿密に計画を立て、ゆっくりと、じっくりと、誰にもばれない様にひっそりと行動し、王都のアルケミアに所属している時も、クロイドの森で塔を建設して住み始めてからも、常に信頼を勝ち取り、自分は国にも地域にも無くてはならない存在であると、知らしめて来たのだ。
余りの悔しさに、普段は涼しげで知的さを感じさせる筈の顔を苦悩に歪め、拳を握りしめてワナワナと身を震わす――――と、ハーフエルフに深く切り付けられた左脇腹の傷口が開き、血が滲み始めた────
「くそっ!」
カルロスとエドワルドとの攻防を繰り広げた為に魔力を使い果たし、本来であれば治癒魔法でとっくに癒やせている筈の傷が未だに治し切れず、塞がらずにいるのだ。急な襲撃だった為、手元には包帯や治療薬などと言う物資は何も持っておらず、傷口が塞がるのをただ待つ事しか出来ない。乾いて赤黒く、ぱりぱりになった元は真っ白だった長衣の表面に、新たな鮮血が溢れ始める。此処に辿り着く間に、砂にまみれ、衣服は破け、もはや見る影も無くなっている……
動ける様になるにはまだもう少し掛かるだろう……全く持って忌々しい。
険しい表情をしながらも、だが────と、ラナセス思い直す。
一旦は劣勢に追い込まれたが、こちらにはまだウロボロスがいるし、本物ではないとは言え、カドゥケウスの杖もある。少女は奪われてしまったが、奴らには少女の存在がどんな物かまでは思い至る筈もないだろう。あの少女に関してだけは、誰にも知られない様に巧妙に隠してきた……例え、塔内でどんなに信頼の足る人物であっても。
それに、自分には更に切り札がある───
エルフには人を惑わす能力があると聞く。大方、塔での一件は、あの赤髪の王子の犬が塔に住まう錬金術師を誑かして、情報でも仕入れたのだろう……
「目には目を……等価交換、して頂くとしようか────」
そう呟くと、灰色の瞳を異様にぎらつかせ、ラナセスはくつくつと笑い始めた。
*****
およそ2000年程前、世界の半分以上を占める巨大な大陸の西側に位置する、小振りながら緑豊かなエメラルドに染められた島『アルヴァロンド島』に、冥界から悪しき魔物達の軍勢を率いて冥王が現れた。
冥王は、アルヴァロンド島に住む人間、ドワーフ、エルフ、人魚、サラマンダー、エント、ケンタウロス、ホビット、ノーム……あらゆる種族を巨大な力で捩じ伏せ、美しいアルヴァロンド島をあっという間に恐怖と殺戮の島に変えてしまった。
日夜、魔物達は島の住人を悪戯に支配し、服従させ、殺し、犯し、腑を引きずり出しては喰らい尽くし、自分たちの快楽の為の道具にしていた。
最初は住人達も勿論抵抗をし、戦っていたが、冥王の余りの力の強さ、魔物達の残酷さに、一人、また一人と屈する者達が増え、いつの頃からか、体制がどんどん不利になっていった。
島全体が闇に覆い尽くされ、かつてのエメラルド色に輝く綺麗だった頃の島の面影が殆ど消え去り、望みも希望も人々が持てなくなった頃、突如、遥か西方の地から二匹の蛇が絡まった、頭頂部に羽を象った杖を携えた偉大なる錬金術師、ヘルメス・トリスメギストスが現れた。
ヘルメスは、島の住人の各種族から信頼の置ける仲間を選ぶと、島の南に位置する、冥王が築き上げた魔物の地『モルダーグ』に赴き、仲間と共に冥王を始めとする魔物達を一掃した。
七日七晩戦い続け、遂に勝利を手にしたヘルメス達は、その後島中を巡り、土地の浄化と保護を掛け、一つの場所を王都に決めると仲間の内の一人を王にした。
その後、ヘルメスは結界の為のエメラルド色をしたタブレットを王に手渡すと、来た時と同じ様に突如として旅立って行った────遥か、西方の地に。
これが、グランヴェルグ王国の成り立ちであり、カルロス=アルメール=グランヴェルグの祖先が、王権を手にした物語である。
その後、殆どの人間はグランヴェルグに住まい、他の種族は各々住みやすい土地や、従来住んでいた土地に新たに国を作り直し、田畑を耕し、お互いがお互いを尊重し合い、何かあった時には助け合いながら今日まで生活している────
*****
そこまで話を聞き終えた空は、長い息を吐き出すとともに、信じられない様な表情をしてカルロスを見た。
自分が知っている、大好きなファンタジーの小説や漫画、ゲームの世界観に酷似しているし、“錬金術”や“西方の地”“エメラルド・タブレット”など、中には気になってPCで調べた事のある言葉も幾つか出て来た。
だが、自分がその世界に紛れ込み、そこで生活しているなど、どうやって解釈し許容したら良いのだろう……
二人は城の中庭にあるテーブルにティーセットをセッティングし、お茶を飲みながら、お互いの事を話していた。
今朝、空は目が覚めると早速マグダに体調を調べられ、全快との太鼓判を押されたかと思うやいなや、隣室のお風呂に入れられそのまま朝食、そして部屋を掃除したいから……と、あっという間に部屋から閉め出されてしまったのだ。
どうしよう……と、本日は背面をリボンで編み上げたピンクのワンピースに、動きやすいローヒールの白いパンプスと言う出で立ちで、部屋の前をうろうろしながら戸惑っていると、直ぐにカルロスが来てくれた。
空が動けるようになったと事前にマグダが話をしていてくれた様で、頃合いを見計らって迎えに来てくれたらしい。
庭に準備させるから……と、今日はブルーグレーのシャツに黒のズボンを着たカルロスがにこにこしながらティータイムに誘ってくれた。服装のせいか、何となく大人びて見える。
今日も非常に天気が良く、ひなたぼっこをするにはもってこいの日和だ。城で飼われているのか、白い子猫が伸びをして寝転がっていた。
風がサワサワと、木陰を作ってくれている大樹の枝を揺らし、木漏れ日がキラキラと光っている。少し離れた場所には池があり、女神を象った像の吹き出し口から噴水が吹き上げられ、七色に光る虹が浮き出ている。
綺麗に手入れの行き届いた庭園は、まるでこの場所そのものが楽園と呼ぶに相応しい気さえして来る……
「……って、言うか……カルロスって、も、もしかして……王子、様?」
恐る恐る問いかける────何しろ昨日、名前を教えて貰ってからどう呼べば良いのか分からず、結局本人が良いと言うので呼び捨てにする事で落ち着いた所だったのだ。
因みに空自身、気付いていないが、打ち解けてからずっとため口でもある……
「うん、一応、第一王子で次期国王って立場の王太子」
緩やかな笑顔を空に向けるカルロスは、身長もそれなりに高く、スラリとした肢体に金髪碧眼、そして整った顔立ちに加えて、穏やかかつ、思いやりに長けた人柄……牢屋での一件など、行き過ぎた言動も垣間見えるが、それはまだ彼が19歳と言う年若い青年だからだろう。
そう考えると、成る程どうして、言われてみたらカルロス以上に王子にぴったりな存在なんて逆に思い浮かばない。
ただ、こんなに敷居の低い王子様と言うのはビックリではあるが────
「それは多分、国民性だろうね。大陸ではまだまだ恐怖政治が続いている国もあって、未だに極端な階級制度に加え、他種族間での宗教争いが根強く残っているんだ。グランヴェルグは建国のきっかけが多種族の協力から成り立ってるから、例え異種族でも大陸よりよっぽど仲間意識が強く、尊重し合っているんだ」
だから、グランヴェルグは偉大なる錬金術師、ヘルメス・トリスメギストスの化身とされる朱鷺を神格化し、信仰してはいるが他種族にそれを強要する事や、他宗教を弾圧する事もしない――――カルロスは少し表情を引き締め、遠い過去を見つめているかのように視線を遠くにやりながら説明してくれる。
それは、このアルヴァロンド島を冥王の手から救ってくれたヘルメス自身の望みでもあった。
グランヴェルグの王となった、カルロスの祖先に手渡したとされるエメラルド・タブレット────この石盤には島の結界になる言葉と共に、あらゆる存在が豊かに生きて行く上で必要な、錬金術の秘術が書き記されている。
ただ、この言葉はヘルメスが自身の国の言葉で書き記した為、何て書いてあるのかが分からなかった。
このタブレットを手渡された当時、カルロスの祖先は何て書いてあるか分からないのだから分かる言葉にしてくれとヘルメスに訴えた。すると────
『この言語は非常にエネルギーが強く、その為にこの島の結界となってくれるのだから、それは出来ない……だが、旅をしている間、皆に絶えず伝えていた言葉と同じ意味を書き込んでいるだけだから、もし書かれている言葉が気になるなら、僕が言っていた言葉を思い出してくれ。────まあ、そんなに此処に書いてある事に捕われなくても、石盤がちゃんと仕事してくれるから心配無いと思うよ』
あっけらかんと、そう伝えるとあっという間に旅立って行った。
旅の仲間は、ヘルメスが旅立った後、各々の記憶を手繰り寄せ、ヘルメスが旅の間口にしていた言葉を思い出す────
『何事も、結局は自然の摂理なんだよ。光があれば闇がある、上があれば下がある、右があれば左がある、男がいれば女がいる────善があれば悪がある。全ては認識が作り出す。良いと思っている事があるから、悪いと思う事があるだけなんだ。本来は全ての物事に良いも悪いも無い。ただ起こるべき事が起こっていて、それに対して人が好きに意味付けをしているだけ……結局は認識がそう信じ込ませているだけに過ぎない。だから────良い、悪い、と言うジャッジを手放せば、世の中驚く程今よりずっとスムーズになる筈なんだよ。この世界に存在している人の分だけ、考え方があるのだから、皆が皆同じ考えの同じ人間になる必要なんて、何処にもないよ』
「……自然の、摂理?」
「そう。ヘルメスは、全ての物事は相反するものが有って成り立っている。だから、全てを有るものとして受け入れれば良いだけだと……そう言っていたそうだ。確かに、相反するものを思想とする錬金術には利にかなっているのだけど、随分極端では無いのか……と、どうしても思わざるを得ないんだよね、今の僕は」
大体、そんなことを言っていたら、誰が悪事を働いてる奴を止めるんだ……渋い顔をしながら口の中でブツブツ唸る……
ヘルメスの言葉通り、その後、石盤はアルヴァロンド島をしっかり守り、間もなく冥王に支配される前の平和が────否、むしろそれ以上に豊かで美しい平和が訪れた。
ヘルメスの教えを受けて、グランヴェルグは錬金術が発達し、東の大陸にとっても、無視出来ない脅威的な存在となって行った。
いつしかアルヴァロンド島には大陸からの移住者も増え、そこに住まう事が豊かさの象徴とされる様になった。
過去、何度か大陸にある国から、手中に収めるべく狙われた事もあるが、その度に難を切り抜け、遂に祖父王、バータルガー=アルメール=グランヴェルグの代には大陸にある近隣諸国と平和同盟を結び、度重なる戦を完全に終結させた。それが今から30年程前の事である。
「────その後、祖父はヘルメスの言わんとしていた事が何なのか分かった……と、いきなり言い出して、自分の代でやるべき事を済ませるとさっさと王位を父に譲ったらしい……齢60にして、今は毎日趣味に興じる隠居生活を満喫しているよ」
僕もさっさと成長して、父に隠居生活を満喫させてやれと、よくせっつかれる……と、苦笑まじりに話すカルロスは、それでも自身の身内の話をする時、とても嬉しそうにしていた。自分の血筋が誇りなのだろう。
「だから、代々やるべき事は皆それぞれ全力は尽くして来ているけど、変に王位に執着があったりする訳では無いし、鼻にかけたりするのも僕は違うと思っているんだ。王子とか、身分が違うとか、そういうのは気にしないで接してくれ」
照れくさそうに空に言い、紅茶を一口、口に含む。
秋の気配がほんのり感じられる、気持ちの良い風が、二人を囲む様にふわりと吹いた。