19261
XX年 6月18日
おかしいね、笑うといいよ
僕だってわかってるよ
この世に僕は一人だけ
今日からボクが始まる
ーーあと一ヶ月ーー
純白な部屋。
窓も無いのに明るい室内。
隅にはコバルトブルーの棚とデスク。
中央に据えられた純白のソファーの上。
そこでボクは二十冊目のマスターの日記を読み終えた。この日記でわかったことと言えば、この純白の部屋は数年前に模様替えをしたということ。
マスターの閉塞的な地下室のイメージと、この地下室が違うのはそういうことか。
本来このソファーに座っているはずの本人はデスクに座り、課題のレポートを画面に打ち込んでいた。肩越しに誤字が見てとれたが、指摘はしない。
マスター曰く、人は誰しも間違いを犯す。ボクにはそのパターンが『少ない』ため、彼がレポートを仕上げるまでは『待て』をしているのだ。
「…ふぅ、出来たよ。これが僕の精一杯だな…どう?」
椅子ごと振り向くマスターのレポートをソファーに座ったまま読む。ざっと目を通し、添削に移る。
「最後から五行目に誤字がある。…主張はいい、だが根拠が物足りない」
「うわぁ本当だ……。根拠、苦手なんだよなぁ」
彼は小さく唸り、頭を掻きむしった。苦手なことに直面したときの彼の癖だ。
これは既にインプットしてある。
「うぅ、そりゃAIに敵うわけないけどさ…。まぁいいや……これが僕の実力だよ。このレベルに『制限』してね」
「了解した」
「あと僕、其処からこの画面の文章読める程、目良くないよ」
ボクは立ち上がり、彼の傍らまで近寄り「これでいいだろうか」と聞いた。マスターは満足そうに頷く。
「…日記は?」
「先程二十冊目を」
「じゃあ、また渡しとくよ。口調は『憶えた』?これからはそれで話して欲しい」
「あぁ、わかったよ」
「……上出来だね」
画面のライトに照らされ、彼は笑顔を咲かせた。
温室のセントポーリアを連想した。
ーーあと二週間ーー
二十八冊目の日記を読んだ。残りはあと一冊。
ふと顔を上げると、彼と目が合った。
「マスター」
「…なに?」
「苦しそうだ」
健康的とは言い難い白い肌は、同じく純白のこの部屋に呑まれそうだ。身体はボクに『型を取らせた』ときよりずっと細い。
「あは、大丈夫。咳が出ていないだけマシさ」
顔は笑っているが、大丈夫そうには見えない。どうしても苦しそうに、そして悲しそうに見えた。
こんなとき、マスターの母や妹は、彼を優しく慰めるのだろう。
マスターが、まるで彼自身の全てを託すように、何から何までボクにインプットさせ、真似させる理由はわからない。しかし、彼が優しい兄であり、息子であることは理解出来た。
今、彼から『指示』は出ていないが…ボクの中にはデータがある。彼と、彼を慰める…………。
ボクは何がに駆られて立ち上がった。そのままマスターの傍らへ行く。
「何処が、苦しい?」
「!」
そして、彼に静かに寄り添った。彼は暫し、驚いた様子で俺を見つめ……ふっと笑った。
「……自我が、出てきたんだな」
ぽつりと呟く。
「…?ボクはデータを元に行動しただけだ…」
そう言うボク自身も、先ほどの動きの説明はできなかった。
もしやあれは、人間で言う「衝動」ではないのか…?
「データ、か。………まぁ、ありがとう。俺も、もう少し頑張らないと。頑張って、お前を…『僕』を完成させないと」
彼の言う『完成』が何なのか。
ボクには、わからない。
でも、最近あまり見なくなっていた彼の笑顔が咲いたから、言及できなかった。
後で、ボクは後悔という感情を知ることになる。
ーーあと……?ーー
XX年 6月18日
おかしいね、笑うといいよ
僕だってわかってるよ
この世に僕は一人だけ
今日からボクが始まる
ボクは最後の日記を読み終えた。日記は、ボクがマスターの元に来た日で終わっている。
彼はかつてのボクの定位置……ソファーに横たわっていた。
「マスター、日記は読み終えたよ」
「そっか。……僕も、そろそろだよ」
「?」
彼がゆっくり起き上がったので、慌てて走り寄る。今の彼は、すぐにでも消えそうなほど弱っていた。
「妹と、母さんのこと、よろしくね…『僕』」
「……!?ま、待って、マスター」
「君が、僕と過ごした時間、アンドロイドとして『買われた』こと……消去してくれる?」
彼の微笑みは、別れを惜しむように見えた。
「!?そ、それじゃボクは…マスターの情報をボクのものと混同してしまう、よ?」
アンドロイドとはいえ、食事等日常的なことは『必要』ないだけで出来ないわけではない。簡単に彼に成りきれてしまうだろう。
「いいんだよ、それで。妹と母さんには、一ヶ月『留学する』と言っといたから…」
ボクは、マスターに買われてから『ずっと』この地下室にいた。彼の要求は『僕を覚える』ことだったから、他のことなど意識しなかった。
現状の異常さも、彼の弱々しさも………意図も。
「良くない!ボクは、マスターを忘れたくな」
「マスターの命令がきけないのか」
「!!」
マスターがボクに明確な『命令』をしたのは初めてだ。ボクらAIは、買われた主人の命令に逆らえないようできている。でも、人間に近くなった今ならそんな命令、逆らおうと思えば逆らえた。逆らえたが……実行は、できなかった。
今のボクはほとんど『彼』。つまり……本当は彼も、命令したくないのだってわかってしまった。そんな彼の必死の命令を、無視することこそできない。
人間性が、逆に足枷になるなんて皮肉過ぎる。
思わず頭を掻きむしった。
「ごめん。…ありがとう。君は、もう一人の僕だ……さぁ、消して」
こんな時に限って、ボクのAIがマスターの言葉に反応し、勝手に動き出す。
「マスター!」
大事な何かが、溶けて無くなっていく。
「嫌だ…!」
消去の影響で、意識が霞み出した。身体のコントロールができず、倒れる。
「……あは。泣けるように、なったんだね…」
マスターの、泣きそうな声。
それが最後だった。
おかえりなさい。
あ、お兄ちゃんおかえりー!あっちどうだったぁ?
ーーなに言ってるかさっぱりだったよ……。
あはは!あのねー今日はお兄ちゃんが帰ってきたからぁ、お祝いするんだよー!
あ…もう……すぐバラすんだから。驚かそうって言ったばかりじゃない。
あっ!そうだった。
ーーあは、お前は相変わらずだな。
うー…驚かせたかった。…?……お兄ちゃん?なんで泣いてるの?
ーーえ?……なんでだ?勝手に、出てきた。
疲れてるのよ。夕食にしましょう。
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