もしも自我があったなら
そんなにグロはないです。多分。
ホラーが少し増してます。
私は喋れない。
動くこともできない。
けれど、別に不自由ではなかった。
世界を見ることはできるし、世界の声を聞くこともできる。
「愛しているよ」
彼という世界に、自分の言葉を伝えられないことだけは、少し気になっていたけれど。
「ああ、愛しているんだ」
それを彼は望んでいないようだったから、別にいいかと思ったんだ。
「少し出掛けてくるね。うん?どうしたの?ああ、寂しいの?大丈夫だよ。すぐに帰ってくるからね」
そう言って彼は私の唇に同じ部位を触れさせ、何処かへと出掛けてしまった。
きっと、この気持ちを寂しいと言うのだろう。
だって彼が出掛けるたびに、私の胸は何かに掴まれたように震えるのだ。
この気持ちは、一日に何度も感じるから、どうしてなるのかよくわかる。
彼がいないときだ。
その時だけ、いつもこんな気持ちになる。
どうしてなのか、彼に聞けばわかるのだろう。
けれど私に、それを問う手段はないから。
(この時間は一番嫌。だって、二度と彼が戻ってこなくなるかもしれない)
私は表情を変えることができない。
「ごめんね、遅くなってしまったよ。…どうして泣いているの?どこか苦しいのかい?」
けれど彼はきっとわかるのだろう。
私の表情じゃなくて、気持ちを見てくれているのだろう。
だから、この胸が飛んでしまうような気持ちはきっと、苦しいと言うのだろう。
けれど、前に寂しかったのかと言われたこともあったから、寂しかったり苦しかったりしたら、彼の目には私が泣いて見えるのだろうか。
前に言われたとき、私がどんな気持ちだったか、もう覚えていないけれど。
「違うのなら、どうか笑ってくれないか、マイン。君は笑顔がとても美しいんだ」
ああごめんなさい。
私は表情の変え方がわからないの。
彼に美しいと何度も褒められた笑顔を、私はちゃんとできているのかもわからない。
けれど彼は満足そうに笑ったから、私は胸が張り詰めそうな感情から解放された。
今までに何度も感じたこの思いの名前を、私は知らない。
彼が言ってくれないから、知る術がないのだ。
まあでも、彼が言わないということは、気にする必要がないってことなのかもしれないのだけど。
「おや、これは僕のご飯かい?マインは先に食べたのかな」
そう言った彼の視線の先には、彼が出掛ける前に何かを入れて、何か透明のものを貼っていたお皿があった。
だいたいいつも、剥がされた透明のものは捨てられる。
それの名前を聞いたことがあるような気がするけれど、もう覚えてはいない。
「いつも作ってくれてありがとう。とても嬉しいよ」
作るという言葉の意味が、私にはよくわからない。
私が作る、と言うけれど、それはどういうことなのだろう。
私は動けないから、何かをすることはできないというのに。
それとも作るというのは、動かなくてもできることなのだろうか。
「さて、それじゃあ温めるとしようか。君も一緒にいてくれるかい?」
その問いかけを肯定する術はないけれど、その必要はないのだろう。
きっと彼はわかってくれる。
間を置かずに、自分の体が浮く感覚。
背景が移り変わる。
視界の端に見慣れた四角い箱のようなものが見えた。
それが開いて、中にお皿が入る。
ピッという音ともに光ったかと思えば、暫くの後に音を立てて光が消える。
彼はそのお皿を手に取り、テーブルの上に乗せた。
隣にはサラダというものが置いてある。
「麻婆豆腐かぁ…ご飯によく合いそうだね」
その後に聞き慣れた「ありがとう」などを言われるが、どうしてかこの時、胸が重く沈むような感覚が押し寄せる。
これはいったい、どういう感情なのだろう。
彼の「頂きます」の言葉も、その後に続く褒め言葉らしきものも、私の気持ちを浮上させることはできない。
「ご馳走様でした。今日も美味しかったよ。また作ってくれる?」
それで彼が、喜ぶのなら。
「ああ、嬉しいよ」
そう言いながら柔らかく微笑んだ彼に、これ以上沈めないところまで何かが沈んでいく。
(この時間も嫌。決して良いとは言えない感情を抱くから。そんな自分も嫌)
お風呂にある大量の液体を見ると、何故だか胸が締めつけられる。
それだけでなく、全体の温度が冷えたように感じるのだ。
棒のようなものから出てくる液体にはそこまで感じないと言うのに、何故だろう。
「もう時間だし、お風呂に入ろう。うん?まだ恥ずかしいのかい?」
そして今日もこの時間が来た。
最初は恥ずかしいという感情がわからなかったけれど、きっとこの逃げたくなるような感情を恥ずかしいと言うのだろう。
「大丈夫だよ。君は世界で一番綺麗なんだから」
自分の体が浮く感覚。
背景が移り変わり、見慣れた部屋へ。
見慣れた部屋から風呂場へ。
一度彼が私から離れ、私の身につけているものを外していく。
そうして全て外し終わると、わざわざ私の体を反転させる。
彼は自分の身につけているものを外す姿を見られたくないのだろうか。
それを問う術もまた、私は持っていない。
体が浮く感覚と、もやもやでよく見えない部屋の中。
彼が私の後ろから前へと移動する。
ああ、やっぱり、何かが冷える。
視界の端に見える大量の液体。
けれど、それを見ていられるのは一瞬だけだった。
「今よりもっともっと、綺麗にしちゃおうね」
きっと彼が手にした泡のようなもので“綺麗に”しているのだろう。
けれど私には、自分が綺麗になっているようには思えない。
それに比べて、私の全体を綺麗にし終えた彼が、自分の体を綺麗にするとき。
彼の方が綺麗に違いないと、私は思うのだ。
「それじゃ、君は先に出るんだよね。体を拭いて、服を着ようか」
数秒、体が浮いたかと思えば、何か布のようなもので体を拭かれる。
「よし。それじゃ、また後でね」
その言葉に一瞬、何も考えられなくなる。
そうしたら、不意打ちで頬に彼の唇が触れた。
それに気付いたときにはもう、私は服を身につけていて、彼はドアの向こうへと行ってしまっていた。
こういう時、私はあの寂しいという気持ちになる。
きっと彼は、あの大量の液体の中にいるのだろう。
私があの大量の液体に抱いている感情の名前を知っていて、それで私をあれから遠ざける。
もしも私が、あの大量の液体に名前を知らない感情を抱かなければ。
きっと、きっと彼と一緒にいられて、こうして離れることもなかったはず。
彼はどうしているだろう。
少しでも私のことを思ってくれているだろうか。
少しでも私のことを考えてくれているのだろうか。
私と一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。
彼が出てくるまでが長い。
とても長く思う。
もしも私が動ければ、こんなドア、さっさと開いて中に入ったのに。
胸が重く沈むような感覚。
“もしも動ければ”。
そう考えていた私は、その感情に気が付かない。
ふと、ドアの向こうで音がした。
ガチャッ、と音がして、胸が高鳴るような感覚。
姿を現した彼が、柔らかく微笑んだ。
なんだかふわふわしていて、覚束ない感覚。
嫌ではない感情だった。
(あの変な風はあまり好きじゃない。でも、彼がやっていると思うと、そんなに嫌じゃない)
私は眠るということがない。
大きな布の上に、彼と一緒に横になる。
「もうこんな時間だ。早く寝てしまおうね」
彼が別の大きな布を私にかぶせてくれる。
彼自身にも布を掛けていて、布に挟まれて一緒に横になっている状態だ。
「寒い?ああ、大丈夫だよ。僕が温めてあげよう」
視界が彼でいっぱいになる。
彼の音が聞こえる。
規則正しく鳴る音。
この音に包まれて、彼に包まれて、彼氏か見えなくて、こんな時間が、私は一番好きなのだ。
「さあ、おやすみ。また明日」
そうしてまた、いつもの朝が来るのだろう。
(けれど、その日は違った)
「ああ、よく眠れたかい?」
いつもと同じような言葉。
「おはよう。もう日が昇っているよ」
いつもと違う彼の笑顔。
いつもと同じように見えるのに、何かが違う。
彼が私を起き上がらせる。
いつもはないはずなのに、視界の端にたくさんの見覚えのない何かが見えた。
「大丈夫だよ、痛くないから」
いたい、とはなんだろう。
そう思っていると、彼が私の腕を掴んだのが見えた。
そうして先の尖った何かを私に向けていた。
けれど何故かすぐに何処かへとそれを投げ捨てる。
何か音がしたような気がしたけれど、彼が自身の腕にさっき投げ捨てたものと同じものを入れていたのが見えて、思考が止まった。
彼の腕に入れられた何かは投げ捨てられたけれど、思考が動かない。
目元をなぞる自分の指を眺める彼は、私の顔を見てくれなかった。
暫くして彼が私を自身の体で包み込み、ようやく私の思考が動き出す。
ああ、何が、起きたのか。
どうして彼の腕から、見たことのないあかいものが出てきてるのだろう。
彼は変わらず私を包み込む。
――ここだけなら、いつもと同じなのに。
私は彼が自身の腕に入れたものが気になっていた。
先の尖った何かを腕に入れて、大丈夫なのだろうか。
あかい何かは今も出続けている。
不意に彼は動き出した。
「大丈夫、」
視界の端にあったたくさんの何かから一つ取って、それを振り翳す。
「いたくないよ」
ああ、どうしてだろう。
ひ だ り が わ が み え な い の 。
ああ、これじゃあ彼の姿が見れない。
でもおかしいな、彼が左手に持ったくろいもの。
あれは、なに?
一瞬、彼がそのくろいものに唇を触れさせた。
それを見て、私の胸が重く震える。
けれどその感情に疑問を持つ前に、くろいものを横に置いた彼がまた、その手に持った何かを振り翳す。
おと、おとがききとりづらいよ。
ど う し て ?
「少し痛か――かな?ご――ね。でも、もう少――よ。もう少しで、」
彼の声が聞き取りにくい。
こんなんじゃ、こんなんじゃ、彼に嫌われてしまうかもしれない。
そうしたら私は、これからどうすればいいのだろう。
ああでも、その言葉だけは聞こえたの。
「もう離れることはなくなるからね」
動けないはずの私の首が、横に傾いた。
視界がずれる。
ああ、胸が高鳴って、何処かへ飛んでいきそうなほど、ふわふわと覚束ない。
彼はもう、何処にも行かないと言うのだ。
ずっと、私の傍にいると
。
「それじゃあ、次は僕の番だ。ああ、不安そうな顔をしないで。大丈夫、すぐに終わるよ。だから、」
私は不安そうな顔をしているのだろうか。
そうか、きっと、彼が何処かに行かないという言葉を信じきれていないのかもしれない。
彼は私に一度として嘘を言ったことがないと言うのに。
ああ、こんな自分が恥ずかしい。
「見届けてくれると嬉しいな」
ええ、ええ、もちろん。
ふふ、ふふふふ。
ふふふふふふふふふ。
いっしょ。ずっとずっと一緒。
彼は私のときとは違って、ゆっくりとそれを進めていく。
ああ、ああ、はやくはやくはやく早くはやく速く早くはやく待ちきれないまちきれな待ち切れないはやくきれろきれてしまえ早くはやくハヤクッ!
彼が持ったその細長い何かから出た固形の何かがあかい耳について、私の耳があった場所にくっつく。
かれの、彼のものを感じる。
私の体についている。
「ああ、ごめんね、服もあかくなっちゃった。そんな顔をしないで、いたかった?大丈夫、次でさいごだよ」
微笑む彼の半分が見えない。
けれどそんなことも気にならない。
ああ、彼が自分の手を目元に持っていく。
これでさいご、最後、さいごさいごサイゴさいごさいふふうふふうふふふふふふ。
ぶちぶちぶちぶち千切れる音が心地良い。
そうして彼はその手に持ったものを私の目に入れた。
ああ、彼を感じる。
彼の笑い声が快い。
(ずっと、いっしょ)
ああ、彼はもう何処にも行かない。
ずっとこのふわふわして覚束ない感覚や何処かへと飛んでいってしまうような感覚だけを感じて“生きて”いくのだ。
何かに掴まれたように震える感覚も、胸が張り詰めそうな感情も、胸が重く震えるような感覚も、胸が締めつけられて何かが冷えるような感覚も、胸が高鳴るような感覚もない。
思考が止まってしまうような事もないのだ。
ただ、彼に愛されて、彼を愛して生きていくのだ。
(これを愛と言うんだね)
「ああ、なんだかねむくなってきたねぇ…うん?どうしたんだい、マイン。…ああ、だいじょうぶだよ、ちゃんとわすれずにやるから」
いいえ、いいえ、嬉しいだけなの。
ああ、彼が私の耳をつけている。
彼が私の目をつけている。
ああ、ああ、似合っているわ。
「………は……」
どうしたの?眠いの?うふふ、それじゃあゆっくりお休み。
私も、私も、傍に…。
赤く染まった布の上に、彼と一緒に勢いよく横になる。
「…お、ゃす…み……ぁ、ぃん」
ああ、ああ、しあわせよ。
今なら私、きっと私、動ける気がするの。
あなたを抱きしめることが、きっと――。
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