04 脱出
『少し散歩してきます』
置きメモをひとつ残して、執事やメイドに見つからないよう注意しながら、裏口から家の裏手に出る。
こちらは薪や小さな菜園がある場所で、食料や備品等の搬入口があり、早朝の今の時間は少しあわただしかった。
しかしここにいるのは、ほとんどが下女下男だ。
「あれ、お嬢様。おはようございます。
お散歩ですか?」
「ええ。気もちのいい朝ね。
いつもご苦労さま」
「ありがとうございます。お気をつけて」
主の家族の行動を注視するのは下男の仕事ではないし、私はこれまで問題を起こしたこともないので、この散歩が無許可であることを怪しまれることもなかった。
すんなり通されて、搬入口から屋敷の外に出る。
そこはやや木々の生い茂った場所。
正面入り口の警備の人に見つかるわけにはいかないので、私はしばらくけもの道を進んだ後、街道へと続く道に出た。
追手がかかればすぐに見つかる場所だが、林で足止めを食らうより、この道を急いだ方が効率的だ。
私は半ば駆け足で、街道を目指した。
クゼイン男爵領。
私の父が統治しているこの領地は、かなり牧歌的な土地柄だ。
海からは遠く、ほとんどの領地は森や山で、領民は田畑を耕したり、山の恵みをいただいたりして暮らしている。
ぎりぎり町と呼べそうなのは、関所付近の宿場町と、ここから一番近いミノリ町くらいで、町と言っても、小さな商店街と教会があるというだけの、村に毛が生えた程度のものだ。
小さな村や集落はたくさんあるようだが、このような状況だから、うちは男爵と言えどあまりお金持ちではない。おそらくは、借金とかもあるだろう。
……なんてことを思ったのは、昨日記憶を取り戻した後だけれど。
なんといっても私は3才の子供なのだ。
家の状況がどうだとかそんなこと気にするはずもなく、穏やかな家の中でぬくぬくと育つのが仕事だった。多少は勉強もしなければならないと思ってはいたが、気にするのは自分と自分を取り巻く環境だけで、父のことも『貴族で偉いんだぞ』という認識しかなかったし、いずれ嫁ぐ私はそれでよかったはずだ。
過去系になってしまうのは、もうそういうわけにはいかない気がするからだけれど……。
現実的な話、いくらストーカー恐しと言っても、まだ3才の私が家を出てやっていけるわけがない。
私は成人するか嫁ぐまで家にいるだろう。しかしあのストーカーがいる以上、すんなり嫁ぐととか無理だろう。
一度真面目に、将来のことを考える必要があった。
というわけで、家を出たのは家出とかいう話ではなく、ヤツから離れて、冷静に今後のことを考えるためだ。
そんなのは家でやれと言われそうだが、あの屋敷のどこにいても見つけられる気がしたのだから仕方がない。付き合いが長いだけあって、アイツは私の考えなどお見通しなのだ。
ということは今の行動も読み切られているのだろうが、相手はまだ二才、身体能力の差で距離を稼ぐことができる……はずだ。
いまいち自信が持てないのは、私の記憶を取り戻すキッカケを作ったのがアイツで、今のタイミングで記憶を呼び戻すような言動に至った理由が、よくわからないからだ。
身体能力の差で優位とか、そんな考えすら、アイツの手の平の上のような気がする。
そもそも、あそこで寝たふりをする理由があっただろうか?
そのままおダダをこねてつきまとえば、お姉ちゃんの私が2才の弟を振りきるのは難しい。
だが現実には、ヤツは寝たふりをして、メイドに抱きかかえられ(拘束され)、私に脱出する猶予を与えた。
すべてはアイツの思惑通りという気がする。でもなけなしの希望的観測で、体は幼児なんだから睡魔に勝てなかった可能性も捨てきれないと、自分に言い聞かせる。
いずれにせよ、ここまで来た以上、私が出来るのは道を急ぐ一択だ。
私は足を止めることなく、街道に急いだ。
しかしもうすぐ街道というその場所で、一匹の獣が立ちはだかる。
「グルルルルルルルル……」
黒い毛の塊に琥珀色の瞳、牙をむき出しにして唸るそれは、オオカミだ。
頭の高さは私と同じくらいで、かなり大きい。
「ヒッ」
私はギリギリ悲鳴を呑み込んで、凍りついた。
さすがの私も視線を逸らしたり、逃げたりしたらマズイということくらいはわかっているので、ハッタとオオカミの瞳を睨む。
ドクンドクンドクンドクン。
幼児の私の体は、きっと柔らかくて美味しく見えるだろう。
「ッ」
こんなことをしている場合じゃないのに。
こんなことをしていたらアイツが……アイツが来てしまう。
どうする?
どうしよう?
唾が緊張で嫌な味になってくる。
アイツがきたら…………たぶんなんとかなるんだろうと思う。
私を殺す気なら別だけど、私を殺す気なら起きる前に殺っている気がするし、そもそも殺しても転生する以上、そのことに意味があるとも思えない。
だからこのまま動かず、相手も動かなければ助かる、という気はする。
そして私に、死を選ぶという選択肢はない。
死を選ぶくらいなら、あのストーカーと正面対決した方がマシだろう。
諦めようか。
諦めてアイツを待ってしまおうか。
そう考えはじめた瞬間、
ガサッ。
右手の林で草が鳴った。
咄嗟にそちらに目をむけて、「しまった」と思うがもう遅い。
「グガァ」
オオカミがこちらに駆けだしたところだった。
「イヤァッ!!」
咄嗟に手を顔の前でクロスして、両目を閉じる。
その私の顔に影が差して、
ギインッ!!
何か固いものがぶつかり合った音がした。
おそる……おそる……目を開けると、
そこには男の子の肩、その少し上に緋色の髪。
「大丈夫かい。お嬢さん…」
私と同じかひとつ上だろうか、オオカミの牙を自分の身の丈ほどの剣で受け止めた男の子は、私に、レモンを入れた紅茶色の瞳を向けて、ニヒルに笑った。
レモンを入れると紅茶は少し色鮮やかになります。