ちょっと休憩 化粧直し
陽菜は鏡の前で化粧を直していた。蛍光灯に照らされたトイレの中には陽菜の他に誰も居ない。鏡に映る自分の目を見つめながらゆっくりと顔に手を這わせる。冷たい液体と温かい手、二つの温度が奇妙な質感を持って顔を這う。這わせていくと冷温は混ざり合って生温くなり、肌に馴染んでいく。
ふと鏡の中の自分から目を逸らして、鏡に映るトイレの入り口を見た。入り口から外は見えない。外へと繋がる通路が横に折れ曲がっているので、見えるのは通路の壁だけだ。外は見えないけれど、その向こう側からは人ごみの喧騒が聞こえてくる。しかし鏡の中には自分だけしか映っていない。古くなって光量の落ちた蛍光灯が通路の白い壁を照らしている。白い壁は不明瞭な灯りの所為で汚らしい。じっと見つめているとテレビの砂嵐の様に、視界にノイズが走る。
外の光が入らないこのトイレは昼も夜も変わらない。事実、陽菜は鏡に映る己の背後を見ながら、まるでホラーのワンシーンの様だなと思った。
人影の消えた夜の公園、寂しげな光に照らされた公衆トイレ、その中で切れかかった蛍光灯が瞬きをしている。そこに一人の人間が不安げに立っている。すぐ後にその人間は死ぬ。画面を見る誰もが知っている。画面の中の不安げな被害者も薄々気づいている。だから怯えているのだ。怯えながら用を済ませ、怯えながら手を洗い、怯えながら鏡を見て、そこに違和感を見付ける。在ってはならない何かが見える。それが死の合図。
そんな想像をしていると、トイレの中で一人きりの、つまり同じ状況に居る自分に気が付いて、陽菜の背に寒気が走った。それがまた画面の中の恐れる登場人物とだぶって、再びぞくりと背が震える。だが一つだけ違う事がある。背後からは人々の声が聞こえてくるのだ。だから大丈夫。ここはホラー映画の中の人気の無い舞台では無い。
ふっと息を吐いて鏡に映る壁から目を逸らそうとして、そこに違和感を見付けてしまった。白い手。陽菜の眼がその白い手に釘付けになる。
ゆっくりと白い手が入り口の通路から現れていた。あまりにも白い。まるで死人の皮膚の様に。手は止まらない。ゆっくりとこちらへと現れる。靴音も付いている。こちらへと歩いてくる。
陽菜の喉が鳴った。だが自分自身では鳴った喉音に気付けない。そんな事を気にしていられない。陽菜は段々と現れる白い手に釘付けられていた。
外の喧騒が遠く聞こえる。鏡の向こうから響く靴音がやけにはっきりと鳴った。また一歩こちらへと近付いて来た。
今度は頭が現れる。光を吸い込む様な黒い髪。塗り潰した様な黒から白い顔が覗く。感情など知らないかの様な無表情。硬質で人形の様で、きっと固まって動かないに違いない。生気は窺えない。何処までも何処までも死人の様なその姿。
体が現れる。死人の様な顔が鏡を見る。鏡の中で陽菜と目が合った。硬質な顔にひびが入った。口を開いたのだ。
陽菜はその開いた口を見つめた。口の下の喉がゆっくりと動く。何かを言おうとしている。陽菜は素早く振り返った。
「陽菜、どう?」
「って月歩かよ!」
「えっ? ええ!」
トイレに入って来た月歩は、陽菜の叫びを聞いて、無表情のまま言葉だけで驚いて後ずさった。
「何で私じゃいけないの?」
「そうじゃなくて、幽霊かと思ったんだよ! いつも言ってんだろ! 入る時はもっと楽しげに明るく愉快に入って来い!」
月歩は陽菜の言葉をやかましそうに聞きながら、溜息を吐いて陽菜の横に立った。
「そんな事したら恥ずかしくて死んじゃうよ」
「その前にあたしの心臓が死にそうなんだよ」
「大丈夫だって。陽菜は死にそうにないから」
「あたしは化け物か」
陽菜のチョップを食らって月歩は頭を押さえながら不満げな顔をした。
「っていうか、またそのネタ? 天丼過ぎて飽きて来たよ?」
「本気で言ってんだよ」
「もう、冗談ばっかり。見慣れた顔じゃない」
月歩の言葉に今度は陽菜が不満げな顔をした。だが何を言っても無駄な事は今までの経験で分かっていた。だから抗う事はせずに、化粧直しへと戻る事にした。
「で、どうなの?」
鏡に向かう陽菜の横で、月歩は鏡の中の陽菜を見ながら尋ねた。
「んー、まあこんなもんかって感じかな。正直、友達と遊ぶのと大差無い」
陽菜の持つスポンジが右へ左へと動く。それに合わせて月歩の視線もまた右へ左へ揺らいでいる。全くの無表情で視線を左右に揺らしながら喋る月歩は、はっきり言って不気味だが、もう慣れてしまった陽菜は何とも思わない。
「そうじゃなくて、ううん、デートもそうなんだけど、今は文光さんの方。どう?」
「どうって。まあ、まず顔は合格かな」
「カッコ良いよね。ちょっと怖いけど」
月歩だって十分怖い。文光とは別の怖さだ。陽菜は月歩を見て、世の中色々な怖さがあるなと思った。あるいはあまりにも整いすぎた容姿は恐ろしく見えるものなのかも知れない。
「性格の方は?」
「あたし達の会話聞いてたんだろ?」
「うん、まあそうなんだけど、陽菜はどう思ってるのかなと思って」
陽菜は今までの文光との会話を回想してから、顔をしかめた。
「正直分からない」
「何が?」
「あいつの人となりが。何か掴みづらいんだよな。月歩程じゃないけど表情に出難いし。月歩はどう思った?」
月歩は少し斜めを見上げてから答えた。
「多分緊張してるんじゃないかな?」
「緊張? あいつが?」
「うん、文光さん陽菜にべた惚れでしょ?」
言葉の上ではなという陽菜の野次が入った。
「そんな事言わないの。で、何となく私だったら好きな人と初めてのデートになったら緊張してああなるかなって思う」
「うーん」
月歩がデートをしているところを想像しようとしたが、陽菜には想像できなかった。まず相手が浮かばない。
「だからね、何だか変な行動してもあんまり嫌わないであげてね」
「いや、そりゃあ、嫌わないけど。何かやけにあいつの肩持つな」
「何となく他人事じゃなくて」
月歩と比べたら月とスッポンだろ。そんな事を言いながら、ファウンデーションを塗りつつ、横目で月歩を見つめた。月歩は何やら考え込む様に明後日の方向を向いている。惚れたなんて事は無いよな。気になった。だから聞いた。
「何? 月歩はあいつに惚れたの?」
「そんなんじゃないよ」
相変わらずの無表情で月歩は答えた。
「ただね、なんていうか、不器用そうなところが私に似てるなっていう。同類相憐れむみたいな?」
無表情な事は変わらないが、陽菜は長年の経験で月歩が本当の事を言っているのだと悟った。
「月とスッポンだと思うけどねぇ」
「嫌わないであげてね」
月歩はそう言って陽菜を見つめた。月歩自身を嫌わないで欲しいと言う懇願にも聞こえた。勿論月歩の事を嫌う訳が無い。文光の事も、許婚として適当かどうかはともかく、良い奴だと思う。嫌う要素は今のところ無い。だけど今はデートの最中で、問題は許婚として適当かどうかなのだ。
「別に不器用とかそういうのは関係ない。あたし等の王国に必要なのは才能のみ!」
問題は文光にどんな才能があるのかという事だ。今の所、文光から何か才能の煌めきは感じていない。相手の家から時たま送られてきていた手紙には文武両道、才色兼備と文光を褒める言葉が様々に羅列されていたが、勿論相手の言っている事、信用は出来ない。
「ああ、そういえば、ちょっと前に雑誌に文光さんが出てたなぁ」
「何じゃそりゃ」
「何だか今注目の若手経営者でその手腕が評価されてるみたい」
「うさんくせえ」
「結構真面目な経済紙だったよ」
「何でそんなもん読んでんの?」
「たまたま友達が読んでたから。今思い返すと、確かにあれは文光さんの顔だったよ。名前も一緒」
「へえ」
経営手腕。大臣の椅子には良いかもしれないが、陽菜が求めているのはちょっと違う。
「うちの国に必要なのは騎士なんだけどなぁ」
「忠誠心は高そうだけどねぇ」
「強さだよ強さ」
「強さねえ。相手はお坊ちゃんだからなぁ。でも体格は貧弱では無かったけど」
少し考えてから陽菜は笑った。
「不良でも襲い掛かって来てくれれば分かるんだけどなぁ」
「危ないよ」
「狂言でも良いから」
「あたしには無理だよ」
「分かってるよ。いっその事あたしが襲おうかな」
「もう」
月歩が呆れた様子で洗面台に寄りかかった。
「大事なのは一緒に居たいかどうかだと思うよ」
「一緒に居たいかねえ。面白いかどうかって事?」
「陽菜がそれなら良いけどさ」
化粧を終えた陽菜は手を洗って鏡の中の自分を見つめた。
「まあ、結構面白いかなぁとは思うけど」
「少しでも脈があるなら、ちゃんと向き合ってあげてよ」
「向き合ってるよ。こうして慣れない化粧までしてんだぞ」
陽菜は鏡の中の自分をつぶさに観察してから一つ頷いた。
「さて、それじゃあ月歩様に怒られない様に頑張りますか」
「文光さんの為に頑張って上げてよ」
陽菜がトイレから出ようとしているのに、月歩はその場に立ち止まって陽菜を見送る姿勢でいる。
「出ないの? 別に用足しに来た訳じゃないだろ?」
「文光さんには顔ばれてるからね。陽菜が先に出て気を逸らしててよ」
「入る時はどうしたんだよ」
「あの執事さんに頼んで」
陽菜は顔をしかめた。まさか月歩の他にも追ってくる人がいたとは。これでは文光を振って月歩と帰る時が少し気まずい。
「そういや、月歩の傍に誰か居たな。あれか。ん? でも服が」
「うん、何か着替えてた。替えの服まで用意し徹底してるよね」
「何となく有能そうなイメージはあったけど」
陽菜がトイレから出る時に後ろから声が掛かった。
「陽菜、頑張ってね」
「分かってるよ」
後ろ向きに手を振って、歩みを止めずにトイレから出て、通路に入る。通路は横に曲がり、更にもう一度曲がると外に繋がる。陽光の差しこむ出口に差し掛かった時に、再び背後から声が掛かった。
「陽菜、本当に文光さん襲っちゃ駄目だからね」
「分かってるよ!」
あんまりそういう事を大声で言うなと返して、陽菜は外で待つ文光の元へと向かった。