好きな人から「結婚してほしい」と言われて対処不能です
「イレネ、結婚してくれえええぇぇえ……! 頼む!!」
そう言って目の前で手を合わせられても困るのだ。
同じ街の幼馴染であるパブロが、最近ずっと、私の家の前で懇願している。
「嫌だって言ってるじゃないの。いい加減にして!」
「なんでだよぉ、昔のよしみでさあ」
家の前で騒ぎ続けられては困るので、いつも家の中に引き摺り込んだ。良からぬ噂も立てられたくない。
ダイニングテーブルを指差して、パブロを反対側に座らせた。自分の目の前には飲みかけのホットコーヒーを置く。コーヒーカップの下に敷いたソーサーは、冷めないように常に温めてくれる魔道具だ。コーヒーの香りが立ち、少し落ち着かせてくれるかと思ったが、そう上手くはいかない。
「家に入れてくれるなんて、もしかして脈あり……!?」
とかなんとかアホみたいなことを言うパブロが目の前にいるのだから、気分は落ち着くどころか、荒れ狂っている。
何かこいつを追い払うような魔導具ってないのかしら。でも高級よね、私に買えるかな。
頭の片隅で魔導具商品一覧表をめくりながら、人差し指でテーブルを叩く。
「なーんーでー、そうなるのかなあ? アンタが家の前で煩いからでしょう!?」
「え、でも、嫌いな男、家の中に入れたりする?」
「アンタは幼馴染だからかろうじて許してるの! もちろん家に入れたいわけじゃないけど、アンタが私の家の前で騒ぐから! 騒がれたくないのよ、ちょっと考えたらわかるでしょ!?」
「……ふふん、俺の作戦勝ちかあ」
黙れ。私に浅はかな作戦とやらを見せるんじゃない。
握りしめたマグカップの取手から嫌な音がしたが、パブロは気にした様子もない。
「そもそも、私のこと、別に好きじゃないでしょ?」
「前も言ったじゃん。マイクが結婚してさあ。ケリーも婚約してさあ……」
マイクとケリーはパブロがつるんでいた男友達である。
パブロの目に涙が浮かぶ。
「だからさ、俺だって結婚したくなったんだよ〜〜。置いてかれたくないんだよ〜〜」
そんな理由で求婚されるこっちの身にもなってほしい。
それで「ええ、喜んで!」となるとでも? 一体どんな女だと思われてるのか一度聞いてみたい。
「だいたい、他にも幼馴染ならいるでしょう。隣町にも、ほら、美人で噂のあの子がいるじゃない?」
「リリアンのこと? リリアンは俺とは結婚したくないんだって」
速攻振られてるんだ。というか仮にも求婚相手の私にそんな話をしてもいいの?
残念ながら、しょげしょげと背中を丸めるパブロに良いところは見出せない。
「あ、そう。私も無理だって何回も言ってるよね?」
「でももうイレネしか思いつかなくてええぇぇ、結婚してくれよおぉぉ。イレネならこんな俺でも許してくれるって思うし」
「私にだって選ぶ権利が」
「だからこうしてお願いしにきてるんだろぉ。いいじゃん、別に相手がいない同士。俺たちもそろそろ結婚してもいい年頃だろ。イレネだって、独身貫きたいわけじゃないんだろう? だから頼むよぉお、気心知れたもの同士でさ」
嘆き続ける幼馴染を、甘いものでどうにか落ち着かせて、うんうんと話を聞いてあげて、パブロにはもっといい人が見つかると思うよなどと曖昧なアドバイスなんかもして、騙し騙し追い返した。
まだ相手はいないけれど、好きな人がいないわけじゃないのよ。パブロとは違って。
朝からどっと疲れた。
手を振って帰っていくパブロの背中を見ながら、胸を撫で下ろす。
よかった、初恋なんて実るもんじゃないわ。随分と面倒くさい男になってしまったものだ。私の初恋を汚さないでほしい。
なんてことをしみじみ思う間もなく、鞄と薄手の羽織を引っ掴むと、足早に職場へと向かった。
今日も遅刻確定だ。全部全部、パブロのせいで。
◆
私は王立魔道具協会の補佐官として働いている。その上司は魔術師であるオスバルド様だ。
協会の仕事は、新しく制作された魔道具の承認・販売・宣伝や魔道具の制作、修理店の斡旋、それから違法魔道具の取締りまで、多岐にわたる。それら全てを取り仕切っておられるのが会長のオスバルド様である。仕事の鬼だ。
「また遅刻か、イレネ?」
「……オスバルド様……!」
「これで何度目だと思っている。やる気がないなら帰ってもいいぞ。それとも何か? 悩み事でも? なんなら聞いてやろうか」
書類をめくる手がぴたりと止まったと同時に、冷えた鋭い視線を浴びせられた。整った顔立ちの冷たい顔ほど、怖いものはない。
「っ、オスバルド様のお手を煩わせるようなことは何もございません。二度と遅刻はいたしませんので……!」
震え上がった私に、オスバルド様は溜息をついた。そんな姿も麗しい。
怒っているはずの顔にどこか心配する様子が見え隠れしていて、怒られている最中だというのに、胸が高鳴った。
もちろん一切、表情には出しませんが。心の中のときめきだけは自由ということで。
「はあ、せめて理由を言えと言っとるんだ」
「…………言えません…………」
「ほお。ではなおさら、今後遅刻など許さんぞ」
「はい! 本当に申し訳ございませんでした!」
勢いよく下げた頭のまま、パブロへの恨みを並べまくった。
アンタのせいで怒られたじゃないのよ。冷たい視線はご褒美でも、彼の評価を下げるわけにはいかないの。全部アンタのせいなんだからね。
この恨みは仕事で晴らす、とばかりにその後はバリバリと仕事をこなした。
書類を手渡されるたび、内容の確認と各所への連絡、許可取りをこなし、分類分け。そうしてオスバルド様へ承認をお願いする。
補佐官という職についてというもの、オスバルド様の手腕には驚かされるばかりだ。
膨大な仕事量をこなしつつ、補佐官の書類にもきっちりと目を通す。少しでも疎かなところや補足が必要なところがあればすぐさま叱責が飛んでくる。
補佐官になったばかりの頃は、よく怒られたものだ。今もゼロにはなっていない。
補佐官は今、私ともう一人しかいないから、仕事量は多く、オスバルド様も仕事にはとても厳しい。
そのため、ここの補佐官になりたがる人間も続けられる人間も少なくて。
けれど私には合っていた。いまだ怒られることはあるものの、できることは確実に増えている。
それに、みんなが言うほど、オスバルド様は(仕事をきっちりとこなせば)怖くないし、仕事以外では意外と(わかりやすく表情には出してくれないが)気を遣ってくれる。
それがわかるようになったことも、実は少し嬉しかったりする。好きになったのも、そういうところだ。
だからこそ、ここ連日の遅刻には、申し訳なさでいっぱいで。
どうにか挽回しようと仕事のスピードだけはぐんと上がった。そんな私をオスバルド様の氷のような水色の瞳が時々捉えては離れていく。
——ああ、本当は、パブロのことなんかで貴重な時間を割いてほしくもないのに。
動かない表情ではわかりにくいけれど、また気にしてくださっているんだろうなと思うと、わずかに胸が高揚した。
遅刻への申し訳なさからいつも以上の仕事量をこなし、執務室を出たのは、定時を僅かに過ぎたところだった。上着を羽織り、協会の門を抜ける。
ふと横を見ると、パブロの人懐っこい顔が目に入った。
「げ!」
「あ、イレネ。お疲れ様ぁ。ちょうど近くを通ったからさぁ。久しぶりに夜飯でも食べてから帰ろうよ〜」
屈託のない笑顔は彼の取り柄である。
その顔で、その行動で、人との壁を簡単に取り払ってしまう彼の図太さが、小さい頃の私にはとても格好良く見えていて。
私もいつかこんな風に人と話せるようになりたいと、憧れていたこともあったのだけれど。
「はあ、ちょっと図々しいにも限度があるって思うのよね」
「なんでなんで。奢るよぉ〜」
懐かしい、好きだった、かつての憧れの。
そんなパブロの声は、疲れ切った頭に響いて、キリキリと脳を締め付けた。
「楽しいじゃん、仕事帰りに寄り道。一緒にご飯食べたりしてさ、そうしたら俺と結婚したくなってきたりしない?」
しない。
どんどんと酷くなる頭痛に顔を顰めながら、追い払うように手を振った。
ずっと楽しそうなパブロの声にか、それともズキズキと鳴る頭痛にだろうか。
頭を抱えそうになった時だった。
背後から冷え切った口調で呼び止められる。
「ここで、何をやってる」
振り向けば、声の主——麗しい上司の顔は、無表情。だが、これは、完全に怒っている時の顔だ。
耐え難い頭の痛みがすっと引く。恐怖より、安堵の方が勝っていた。
「オスバルド様……! いえ、あの、これは」
が、門の外とはいえ、職場の真ん前。
プライベートを持ち込むなと叱責されるかもしれない。また、パブロのせいで!
パブロを睨みつけると、状況が飲み込めていないのだろう、ただただ首を傾げただけだ。
「最近の遅刻と関係は?」
オスバルド様の淡々とした声色に竦み上がった。流石に勘が鋭い。そこも尊敬するところだけれど。
「…………あり、ますが…………その……」
こそこそと事情を説明すれば、オスバルド様はすぐに頷いてくれた。
顔に変化は見られないが、やはり優しい。こんなプライベートなことにでも時間を割いてくれる。
「なるほど? ではこの男が、君に毎朝のように結婚を迫っていたせいで、遅刻が多くなっていたと?」
「……理解が早くて助かります……」
「ふむ。……丁度いいか」
パブロはこいつは誰なんだという顔でオスバルド様を見ているし、こんな身内の恥を晒すような現場をオスバルド様には見られてしまったし、本当に穴があったら埋まってしまいたいくらいだ。
こめかみを押さえていると、ふっと肩に手を乗せられる。
肩に見える黒い手袋は、オスバルド様愛用のそれだ。
「え!?」
「——困るな。イレネには私が結婚を申し込んでいるところなのだ。邪魔をしないでくれるか?」
オスバルド様の声が耳元で聞こえた。
いい声過ぎたからだろうか、ちょっと何を言われたのか、聞き取れなかった。
呆然とする私をよそに、パブロは大声を上げた。
「はああ? イレネの職場の人だろ? 急に何を言い出してるんだ! 恋人がいるなんて、イレネは言ってなかったぞ!」
「おや。イレネは照れていたのだろう。——もしくは、貴殿に気を遣ったか。私と比較されては可哀想というものだろう?」
ピリッと私とパブロの間に電撃のような青白い光が走る。オスバルド様が使うとは珍しい。魔術だ。
滅多にお目にかかれない魔術を、まるで私を守るかのように、使ってくれる。
そんなことってある?
「イレネ! 何だこの男は!!」
追いつかない頭のまま、カッとなったパブロの矛先は私を向いた。
そう聞かれては、答えなければならない。事実を。
「王立魔道具協会の協会長オスバルド様です」
そして私の好きな人。それはまだ口にはしないけれど。
「だからって……はあ、何だって!? 何だってそんな方がイレネを? 嘘だろう!!」
嘘よ……と私が答える隙も与えず、オスバルド様の腕が私を引き寄せた。
かの有名なオスバルド様のことは、パブロも知っていたらしい。平民にも豊かさを、とかつては貴族のものだった魔導具を、日々の生活に役立つよう改良し安価で広めてくれたのが、この若くして優秀なオスバルド様なのだ。
見開いた目が可哀想に思えてくる。
だけど、ごめん。私も自分のことで精一杯なの。
「嘘だと……? この私が、嘘など吐くものか。気になるのなら明日でも見にきてはどうだ。特別に見学させてやろう」
売り言葉に買い言葉。もはやどちらがどちらなのかもわからないが、明日、パブロが職場に来るらしい。
パブロには一人で帰るよう言いつけたあと、オスバルド様は、いまだ正常に戻れない私を支えるように家まで送り届けてくれた。だって嘘でも結婚を申し込んでくれたのよ、足がふらついても仕方ないと思うでしょう。
私の歩幅に合わせて歩いてくれて、隣を見ればオスバルド様の凛々しい横顔がある。見慣れたはずの街灯はキラキラと輝き、ずっと足元はふわふわしていて。
家に着いて一人になってなお、幸せな夢は私をときめかせてくれる。
「え……? 何が起きたの? 助け舟を出してくださった、ってことよね……? きゃあ、オスバルド様がかっこいい……!」
わかりにくいけれど、部下のことにも気を配ってくれるオスバルド様。
だから、別れ際の微笑みは——きっと夢。私の妄想に違いない。
◆
翌日、職場に現れたパブロを見れば、昨日の出来事はどうやら夢ではなかったらしい。
「何を見せてくれるっていうんですかねえ!」
ポケットに手を突っ込んで、丸めた背中に突き出した唇。
拗ねた子供のようなパブロには、やっぱり恥ずかしさを感じてしまう。
いつだって襟元までしっかりと留めたスーツ姿のオスバルド様とは全然違うからだ。
別部署での仕事を終えて、執務室に入ってきたオスバルド様は、ちらりとパブロを見ると口端を上げた。
執務机まで私を呼んだオスバルド様の機嫌はかなり良さそうだ。なぜかはわからないが、そんな姿もとても良い。
「イレネ、君が作ったこの書類、よくできているから作成者を派遣してくれと要望がきたぞ。さすがだな」
「いえ、ありがとうございます。……どなたにお教えすればよろしいのでしょう?」
「いや、イレネが行く必要はない。知りたければ、お前からこちらへ来いと言っておいた。君が私の求婚を受けてくれたなら、こんな真似をせずとも向こうからやってくるようになるんだがな」
「きゅうこ……ん!?」
真面目な顔で、読めない水色の瞳で。
オスバルド様が私を見る。その視線はいつになく、熱っぽく。冷徹の表情から色香が見え隠れする。
ん? 過剰なときめきは致死に値しますよ?
「ああ、パブロが来ているからと緊張せずとも良い。いつも通りの我々を見せてやれば良いのだ。わざわざご足労いただいたわけだしな」
「え、いや、はい。そ、そうですね……?」
もう一人の補佐官もびっくりして目から生気が消えている。
いいわね、私も仲間に入れてほしい。
オスバルド様の身に起きた何かは、私には荷が重いようだから……。助けて。
呆然と立ちつくす私をよそに、オスバルド様の口が止まらない。
「ああ、前から言っているだろう? 私の屋敷から共に通えば、いつだって君を守ってやれるのだと。そうすれば変なやつに絡まれることもなくなろう。それとも私の馬車で毎朝迎えに行こうか?」
と言い、
「そう固くなるな。見知った顔に見られようと、イレネの仕事ぶりに影響が出るとは思わん。正確で、細やかな仕事には随分と助けられている。そんな君であれば、屋敷のことも安心して任せられるのだが」
とも言って、
「イレネに不自由をさせるつもりはない。焦らせるつもりはないが、どうだ、そろそろ決心が着いたか?」
ときた。
饒舌で、まるで別人のような。
私に結婚を迫るオスバルド様に耐えられそうにない。
そう思った時、パブロもまた限界を突破したらしい。奇声を上げた。
「キエエエェェ!! イレネの馬鹿! 俺のことが好きだって言ってたのに! なんでこんな男と!! イレネはずっと俺のこと待っててくれるって思ってたのに!」
「そそそんなこと言ってないでしょう!?」
「言ってた! 言ってたもん、リリアンが!」
はあ? リリアンめ……私とはもう絶交した仲でしょう。いつの話を持ち出して、この男に話してくれちゃったのよ!!
内心滝のような汗をかきながら、涼しい顔で答えた。
「ふふ、一体いつの話をしてるのよ。そんなの五歳とか六歳の時の話でしょ。今は貴方のことなんて好きじゃないの。私の態度を見てればわかるでしょ」
「初恋は拗らせるものだって、リリアンが」
リリアン〜〜〜〜!
そういえば、余計なことばかりしてくる女だった、昔から。だから絶交なんてする羽目に、じゃなくて。
きゅっと一度口を閉じて、開いた。こうなったらなるようになれ!
「私は今、オスバルド様のことが好きなの! パブロのことなんか好きじゃないんだからね!」
私の言葉は、パブロに、きちんと届いたようだった。
下がった眉と噛みしめた唇が、寂しげに震えている。
「……くそ……俺にはイレネしかいないって思ってたのに……信じてたのに……俺は、ずっとイレネのことが……! くそっ、まだ諦めないからな!!」
人懐こい顔を潜ませたまま、何かに耐えるように目に力が込もる。鼻息を響かせて踵を返したパブロを追いかけようとして、止められた。
私の手を、黒革の手袋が掴む。
「——えっ」
「どこへ行く。私のことを好きだと言う、イレネ?」
いつもの無表情が楽しそうに見える。いえ、無表情ではあるんだけれど。
私は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません……! 勝手にオスバルド様のお名前を使ってしまいまして! せっかく助け舟を出していただいておりましたので、全力で乗らせていただいたのですが……!」
どさくさ紛れに告白はしたけれど、まだ玉砕はしたくない。夢はまだ見せて欲しい。
「助け舟、だと?」
「ええ。困っていた部下を助けてくれようとしてくださったのですよね?」
掴まれている手首に急に力が込められた。
「演技なのは承知の上ですが、ちょっとドキッとしてしまいました。が、せっかくオスバルド様がお力をお貸しいただいたのです。これからはちゃんと誠心誠意お仕事をするつもりでっ!? 痛たたたた!?」
オスバルド様の顔が冷ややかだ。
すぅっと細められた目で見られたことは何度かあるが、どれもこれも本気で怒らせた時だった。
「私が、あんな男に演技をしなければならないほど、暇に見えているのか?」
仕事人間のオスバルド様。
ずっと見てきたからわかる。無駄なことは一切やらないのだと。
唸りながら考えに考えたが、結局こう答えるしかなかった。
「…………見えません、まったく……」
そんな私を愉しそうに——見たこともない、満足そうな顔で、オスバルド様は私を見つめたのだ。
どことなく甘さを含んだような瞳に、目を奪われる。
「ほお。では信じてくれると?」
何らかの魔術を使っているのではないかと思うほど、ふらりとオスバルド様に吸い寄せられる気がする。
助けを求めるようにぐるりと見回すと、正気を取り戻した補佐官と目が合った。
口をパクパクと開けて現状打破の支援を依頼したが、その補佐官もまたパクパクと口を動かした。
「……知らなかったんですか? イレネはオスバルド様のお気に入りだって。君にだけオスバルド様の態度が違いますもん。君以外全員知っていると思いますが?」
じゃあそういうことで上司のお邪魔できないので、と同僚の補佐官は、逃げるように退散していく。
残された私は、掴まれたまま逃げられず。オスバルド様の手から熱が広がるように、徐々に、頬にも朱が差した。
「君は仕事が好きなようだったし、私に対しても、仕事に対するそれだったろう。好きな男がいるようでもなさそうだったから、この関係を続けるのも良いと思っていた。——しかし他の男からの求婚で、平常心を崩すイレネをただ見ているだけ、というのも面白くないだろう?」
いつもの冷徹な顔のまま、ひどく甘い言葉を紡ぐ。
「え、っと! では! オスバルド様はその、私を好き、ということで……!?」
「——真剣に仕事に取り組む姿に目を奪われ、仕事に手がつかなくなるほどには」
知らなかったのは私だけ、って。そんなの嘘。
——だって本当は、私も、うっすら気づいてたでしょう? オスバルド様の目が私に特別優しいってこと。
勘違いだと思い込んで、きつくきつく蓋を閉めていた。
ねえ、パブロ。
アンタにはいっぱい迷惑を掛けられたけど、こればっかりは感謝しないといけないみたい。
パブロのおかげで、私の蓋は開けられたのよ。
パブロが出ていった扉を見ていると、袖を引かれた。
「——あの、幼馴染の男、」
「ええ、は、はい」
「諦めが悪そうだったから、家の前に魔道具を置いてやろうか。あいつが来たら吹き飛ばすもの——いや、私を呼び出すものの方が良いか」
「ええ!? だだ、大丈夫です! そんなことさせられません……!」
「なぜだ? 私がしたいのに? ああ、私に求婚の機会を与えてくれたあの男には、これでも感謝をしているんだ。怪我などは負わせないから安心するように」
その嬉々とした姿は、まるで高難度の仕事を前にした時のよう。
「初恋だと言ったな? 私が綺麗に消し去ってやろう。楽しみにしておけ」
妙なところで対抗心を燃やすオスバルド様に、尊敬する上司の顔と、私にだけ向けられる恋人のような顔を同時に見せられて。
ずっとドキドキしている胸を押さえながら、まだ夢が続くことに安堵した。
一年後。
私は相変わらずオスバルド様の補佐官として働いている。
この一年で、これまでよりも話しやすくなったと庶民感が増したオスバルド様だが、補佐官不足は健在だ。
「さすがイレネだな。ここの要約は実にわかりやすい。詳細を知らない者が読んでもわかるだろう。そういえば、屋敷の執事もイレネの指示は大変わかりやすいと褒めていたな。我が屋敷に君のような素晴らしい妻がいてくれてよかった」
「ええ。ありがとうございます。オスバルド様。どれもこれもオスバルド様——いえ、旦那様のお心配りがあってこそ。愛する旦那様の意図を汲むのは得意ですからね」
慣れない甘いセリフにどうにか耐性をつけようと日々奮闘した結果、売り言葉に買い言葉よろしく、すっかりと対抗できるようになった。やればできるものね。
もはや愛の巣と噂される執務室は、別の意味で、人が寄り付かなくなってしまったらしい。
今日もまたバリバリと——甘い言葉を言い合いながら——仕事に励むのである。
お読みいただきありがとうございました。
やばい幼馴染もいたもんだな……




