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東京で働き始めて、3年くらい経った頃、お正月に久しぶりに地元に帰った。駅前のコンビニに入ろうとしたとき、
「…あれ?」
後ろから声をかけられた。振り向く。高校のとき付き合っていた颯真だった。プロ野球選手を目指していた彼は、肩を壊してから、東京消防庁で働いているらしい。
「久しぶり!」
普通の会話が、少し懐かしい。高校の頃、私はこの人のことを心から好きだった。理由なんてなくて、ただ一緒にいると楽しくて、放課後のグラウンドを見ながら話して。それだけで幸せだった。
「今度さ」
彼が言う。
「時間あったら飯行かない?」
私は少し考える。大学時代、たくさんの人に会った。好きだと思った人もいた。でも、本当に好きだった人には最後まで何も言えなかった。そのことを、今でも少し後悔している。
「いいよ。いこう。」
私は言う。
彼が少し笑う。
その笑顔を見て思う。恋って、探して見つかるものじゃないのかもしれない。ただ、一緒に時間を過ごして、少しずつ形になっていくもの。高校のときの私たちは、それをもう一度やり直すみたいだった。
気が付くと日は落ち、海風が冷たくなっていた。バルコニーから部屋に戻ると、愛犬がしっぽを振りながら近寄ってくる。
「やっぱり俺じゃなくて、聖菜の方が好きなんだな」
颯真の優しい声が、身体中に響き渡った。
通知が光る。
———水川玲央
懐かしい名前。あの頃の胸の高鳴りは、かけらもなかった。
あの夜、玲央に触れられたことで私は自分の価値を測った。でも今は違う。もう、選ばれるために生きていない。自分の人生を、自分で選ぶ側の人間になった。
「結婚おめでとう。明日だよね。お互い幸せになろうな。」
最後に見た笑顔を思い出した。
「ありがとうございます。」
画面を閉じる。光は刺激的じゃないことを、私はもう知り尽くしたから。私はもう、試さない。
「聖菜、こっちきて」
颯真が名前を呼ぶ声の温度は、いつもと変わらない。
明日、私はこの人と結婚する。この人は私の過去を知らない。私は全部を言わない。
それでもいい。その方がいい。
私は彼にゆっくりキスをする。確かめるみたいに、過去を塗り替えるように。
彼の指が、私の背中をなぞる。優しく、でも迷いなく。試すわけじゃない、逃げるためじゃない。
選ぶために
身体の奥が熱くなって、涙がこぼれそうになった。
罪は消えない。でも、今日この瞬間は嘘じゃない。
「明日、綺麗だろうね」
その言葉で、胸がいっぱいになる。
私は彼を見つめる。この人と生きる。過去を抱えたまま、全部愛しながら。
それでも、選び続ける。
————きっと私はいい子の儘で。いい子ではないと知りながら
グラスに注がれた白ワインを片手に、拍手に包まれた会場で誓った。純白のドレスが誓いを証明しているようだった。
私が選んできた、これまでの選択すべてが正解であるように。
結婚式の帰り道、玲央のことを思い出した。あの人のこと、たぶん本当に好きだった。でも、それでもいいと思う。人生には、うまくいかなかった好きもある。それを知ったあとで、誰かと一緒に生きていくこと。それもきっと、本当の好きの一つなんだと思う。
夜風が少しだけ冷たい。私は隣を歩く夫の手を握る。その手は、高校の頃と同じ温度だった。




