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サークルの二個上の水崎玲央とちゃんと話したのは、その頃が最初だった。

里奈が「康太さんとのサシ飲みは彼氏に怒られるから無理」と言い出して、結局、数合わせで私と玲央さんが呼ばれた。彼は康太さんの同期。私は場の飾りみたいなものだった。

玲央さんは六年間、男子校で過ごしたらしい。そのせいか、女子という生きものに対して、どこか構造的な距離を置いているように見える。大学に入ってからもその癖は抜けず、結果「女子が苦手らしい」という噂だけが一人歩きしていた。本人は否定も肯定もしなかった。ただ面倒ごとを避けているだけのように思えた。

そういう玲央にとって、少し刺のある女の子は、話していて楽なのだろう。

その夜、居酒屋の向かいに座っていた聖菜は、まさにそういうタイプだった。金のリボンのピアスが、うなずくたびに小さく光って揺れる。チョコレート色の髪は緩く巻かれていて、一見おとなしいのに、時々、唐突に辛辣なことを言う。からかうような笑い方をするくせに、言葉の芯はやけに正確だ。玲央は、その言葉を受け止めるように、少しだけ間を置いて笑っていた。

店は大学の近くにある、ごく普通の居酒屋だった。壁には手書きのメニューが並び、油の匂いと大学生の声、そしてたばこの煙が混ざっている。席は四人掛けの小さなテーブルで、玲央の隣には康太が座っていた。向かい側には聖菜と、里奈。最初は本当に普通の飲み会だった。授業の話、サークルの話、バイトの話が続く。

「水崎、女子と喋らないって噂あるよな」

康太が面白そうに言った。

「ありますよね」里奈も笑う。

「ちょっと怖いっていうか」

玲央はグラスを置きながら言う。

「怖くはないだろ」

酒が回ってきた。体が暖かくなっていく。

「いや、ちょっと怖いですよ」

「ほら」康太が笑う。

「だって先輩、顔整いすぎてて逆に近寄りがたいもん」

少し責めてみたくなった。好奇心が揺さぶられる。

玲央は少しだけ目を細めた。

「それ褒めてる?」

「半分くらい」

聖菜はそう言って、グラスの半分残っていたジンジャーハイを飲み干した。


「てか水崎って彼女いんの?」康太が聞く。

「いない」

「嘘だろ」

「こんなイケメンなのに?」

里奈は目を丸くして急に大きな声を出した。

「ほんと顔いいですよね」

玲央は一瞬言葉に詰まった。

「急だな」

「いやほんとに。横顔とかやば過ぎて、合奏の時いっつも見てるー」

康太が吹き出す。

「酔ってきてんな」

「酔ってないですー」

玲央は少しだけ視線を逸らした。

最初は好きなタイプや、初恋の話だったが酒が進むにつれて、ノリはどんどん男子校っぽくなっていく。

「じゃあ、やりますか!挿入げーーーむ」

玲央の男子校ノリはどんどん加速していったが、里奈も酔いが回って、ノリノリになっている。

「そのゲーム知ってる!一人ずつ挿入までの流れを言ってって、挿入しちゃった人が負けのやつね」

「なるほどね、じゃあ、いつもの自分のエッチのやり方がばれちゃうってことか」

康太が大笑いして、里奈が「やばいそれ」と言って笑う。

そんな適当な遊びで時間は過ぎていった。


居酒屋を出たとき、夜の空気は少し肌寒かった。横浜の海風が髪を靡かせる。店の前の街灯が白く光っていて、酔った頭には、やけに明るく感じる。四人とも少し出来上がっていて、歩きながら笑いが途切れない。

「おい、二件目どうする」

「行きたーい」

酔った女二人の声が響いた。

「水崎んち近いんだっけ」

康太がポケットに手を突っ込みながら言った。

「まあ、歩いて五分くらい」

「じゃあ二次会そこな」

ほとんど決定事項みたいに、住宅街を四人で歩いた。


玲央の部屋は、大学から徒歩7分のワンルーム、マンションの三階角部屋だった。

「え、綺麗」

「ほんとモデルルームじゃん」

「これ男子の部屋じゃないですよ」

「普通じゃね?」

玲央は短く答える。

キッチンには調味料が背の高い順に並んでいた。大体の調味料が半分を切らしていたが、オイスターソースがもう少しで終わりそうだった。カウンターにグラスを並べ、冷蔵庫から缶をいくつか取り出す。

「適当に飲んで。あ、チャミスルも梅酒もあるし、炭酸も少しならあるから。」

「ありがとう、この家何でもそろってんじゃん」

「サイコーの飲み部屋だわ」

居酒屋の喧騒から解放されたが、夜はまだ長かった。酒も増えて、笑い声はどんどん大きくなっていく。


「じゃあさ、トランプやろうよ」

聖菜が鞄からトランプを取り出した。

「なんで持ってんの」

里奈が笑いながら7パーセントの缶を開ける。

「飲み会ってトランプ必要かなと思って」

「やっぱ、百戦錬磨のギャルは飲みなれてんな」

玲央と康太も続けて新しい缶を開けた。

「ギャルじゃないですよ」

負けた人が罰ゲーム、という単純なルールで飲みげーが始まった。


カードを切る音は、だれも見ていないテレビの音でかき消されていた。居酒屋よりも距離が近いぶん、少し緊張感が走る。普通のババ抜きなのに酔いが回っているだけで楽しさが何倍にも増える。順調にゲームは進み、四人で始めたババ抜きは、いつの間にか二人になっていた。飲みすぎたのか、康太と里奈はソファで寝てしまった。

「引く?」

玲央がカードを差し出す。聖菜は少しだけ目を細めて、カードの端をつまんだ。玲央の手の中で扇状に広がったトランプ。

「絶対そっちだと思うんだけど」

聖菜が言う。

「どっち?」

「今ちょっと笑った」

「笑ってねえわ」

しばらく迷ってから、カードを一枚引く。

裏返す。

「あ」

小さく声が出る。ジョーカーだった。聖菜はカードを見ながら、玲央に言う。

「それずるいって」

「何が?」

玲央は急に笑顔になって、勝った喜びを抑えきれていない。

「弄んだでしょ」

「いや、ただの運だよ」

玲央はカードを揃えながら、まだ少し笑っている。結局そのまま聖菜が負けて、ゲームは終わった。トランプは適当に集めて箱に入れられた。

聖菜は笑いながら、玲央の横顔を覗き込む。近づくつもりはなかったのに、気づいたら距離が縮んでいた。きれいな鼻筋、吸い込まれそうな瞳。こんなに玲央を観察してしまう自分が、ちょっと可笑しい。

「見すぎ」

玲央が言う。聖菜はわざとらしく首を傾げた。

「逃げないでください」

「逃げてない」

「じゃあいいじゃないですか」

そう言うと、玲央は少しだけ困った顔をする。その顔を見るのが、好きだった。この人は、基本的に余裕があるのに時々、こうやって隙が出る。その瞬間を見つけると少し嬉しい。

……たぶん、ずるい遊びだ。

「お前、本気の顔すんなよ」

「してない」

そういうと、玲央は一気に顔を近づけた。

「かわいいね、普通に好きだよ」

「え?」


そして、キスをした。


動揺を隠すように、聖菜は飲みかけの缶のふちを指で回しながら言う。

「玲央さん」

「ん?」

「男って信用できます?」

聞いた瞬間、少し後悔した。重いことを聞いてしまった。でも、玲央は表情ひとつ変えずに、少しだけ考えてから言う。

「人による」

聖菜は笑う。

「ずるい答え」

そう言いながらも、その答えが一番まともなことくらい分かっている。

「お前は?」

聞き返されて、聖菜は一瞬だけ黙る。視線を落としてテーブルの木目をぼんやり見つめる。正直に言うつもりなんてなかったのにお酒のせいか、変なことを言ってしまう。

「できない、かな。だからこうやって、先輩に遊んでもらって情を薄めるんです。別れるとき後悔したくないし、深く考えない方が楽なんで」

「じゃあなんで今、彼氏と付き合ってんの」

——彼氏。そうだ、今の私には彼氏がいるんだった。

「なんでだろ。さみしいんかな」

自分でつぶやいてみても、あまりしっくりこない。なんで付き合っているのか、よくわからない。おそろいの服を着るため?「かわいいね」って、疑いもなく言ってもらうため?

もしセックスがしたいだけなら、イケメンにナンパされて、そのまま持ち帰られればそれで済む気もする。

じゃあ、何なのだろう。

「彼氏がいる」っていうレッテルがほしいだけ?考えれば考えるほど、理由がどんどん安っぽくなる。どうして私は、彼氏なんか必要としてるんだろう。むしろ、必要としている自分のほうが、よくわからない。


酒も会話も少しずつ減っていき、だんだん静かになる。時計を見ると、もう3時を過ぎていた。気づけば、聖菜と玲央もそのまま部屋で寝てしまった。


朝、窓の光で目が覚めた。

四人でマンションを出て、駅の方向へ歩く。朝の空気は夜よりもずっと冷たくて、少しだけ現実に戻された感じがする。そのまま、それぞれの方向へ別れた。



________________________________________


机の上の空き缶を片付けようとして、ふと気づく。昨日のトランプであろう、ダイヤの4が落ちていた。昨日、聖菜が最後のほうで持っていたカードだ。たしか、ジョーカーを引く前に、これを持っていた。

「それずるいって」

その声が思い出される。別にずるくなんてなかった。

キスをした以上、ただの先輩と後輩の関係ではない。恋人でもない。友達でもない。

——仲良しの関係。

だから会うときはいつも少しの理由が必要だった。玲央はそれを拾い上げ、少しだけ考えてから、スマホを手に取った。

メッセージを打つ。

「トランプ一枚落ちてた」

 送ってから、少し考える。

トランプなんてきっと、どうでもいい。


________________________________________


昼夜逆転して、起きたら夕日が出ていた。スマホの画面を見ると、玲央からの通知が来ていた。

「トランプ一枚落ちてた」

昨日の夜のことを思い出した。玲央さんとキスをした。



「おまえ、本気の顔すんなよ」

「してない」

「かわいいね、普通に好きだよ」



最後のババ抜き。玲央の顔は少しだけ笑っていた。

「それずるいって」

本当は、ずるいと思ったわけじゃない。ただ、見透かされたみたいで少し悔しかった。

「どういう意味」

思っていたより早く既読になった。数秒後、返信が来る。

「取りに来てもいいよ」

その文章を何度も読み返した。トランプ一枚を取りに行く。それは、表面だけ見ればただの口実だ。けれど昨日の夜の空気を思い出せば、その言葉の奥にある意味は、たぶんお互い分かっている。聖菜は少しだけ考えてから、返信を打った。

「全部揃ってないとゲーム始められないもんね」

送信してから、心臓の音が早くなるのが分かる。すぐに返信が来る。

「おう」

その言葉を見た瞬間、聖菜は一瞬だけ視線を止めた。それが単なるカードの話じゃないことくらい分かる。それ以上は書かなかった。


夜になった頃、インターホンを鳴らした。

「こんばんは。トランプを取りに来ました。」

「うん。取りに来てくれてありがとう。」

ごみ一つ落ちていないのに、有機化学の参考書が床に散らばっているのが目に映る。テーブルの上を見た。

ダイヤの4。

「これですか、例のトランプ」

「うん」

玲央はカードを手に取って、聖菜に差し出した。

「せっかくだし、少し飲んでいけば」

「いいね」

「いいの?」

「なんで」

「彼氏いるだろ」

一瞬だけ目を伏せた。それから、少しだけ肩をすくめる。それ以上、何も言わなかった。

沈黙が落ちる。それは静かな夜の空気の中に溶けていくようだった。

「ずるいね、玲央さん。怒らないんだ」

距離が、また少し縮む。玲央はそのまま聖菜を見ていた。真っ直ぐだった。

「男、信用できないんじゃないの」

玲央が言う。

「そうだよ。でも先輩は、なんか」

少し言葉を探す。都合のいい言葉。

「大丈夫そうだったから」


外は静かだった。夜の街の音が、窓の向こうで遠くに聞こえる。玲央はそっと聖菜の髪に触れる。互いの体温を確かめるように、ゆっくりと距離が近づいていく。触れ合うことが、汚れたことのようには感じられなかった。ただ、人と人が寄り添うときの、ごく自然な流れのようだった。


窓の外の夜が少しずつ深くなっていく。聖菜は玲央の胸に顔を埋めながら、小さく言った。

「玲央さん」

「ん」

「私のこと、ほんとは好きなんでしょ」

玲央は少しだけ笑った。

「どうだろうね」

彼氏がいる年下の女の子に、軽々しく好きと言わないのが玲央らしくて、もっと好きになってしまいそうだ。でも、それでもいいと思った。その夜は、静かで、柔らかくて、少しだけ綺麗だった。

玲央さんは煙草に火をつけた。

「いいの?ここにいても。」

答えは、もう決まっている。自分に傷をつけないために自分を犠牲にしている。

「悪いことって自覚、あるんで大丈夫です」

「いい子ぶんなよ」

低い声。煙に包まれる。

「分かってやってるやつが一番タチ悪い」

そう。やめればいい。ファミレスの白い光の中で、ちゃんと大事にされて、続く未来を選べばいい。

でも、それが怖い。

「裏切られる前に、裏切れば被害者ぶれるもんな」

そういって玲央は少しだけ目を細める。怒らない。軽蔑もしない。

「でも、お前のそういうとこ嫌いじゃない」

その一言で、全部が肯定された気になる。危ないと分かっている。でも、玲央の特別扱いは、麻薬みたいに私を深く引きずり込ませる。ほかの女子と喋らない先輩が、私には触れる。私には笑う。私には、たばこを教える。私には、すべてを見せてくれる。

知らなかった世界。ホストとはまた別の、脆くては儚い夜の世界。



【仲良し】の関係は都合がよかった。会いたいときに、適当に会う。何でも相談できる相手になった。休みがあると、よく横浜のダーツバーで遊んだ。

「また来るか」

軽い。未来を約束するでもなく。でも確実に、次がある言い方。店を出ると、少し肌寒かった。手をつながれて、流れるようにキスをされた。


深夜の相鉄線に揺られていると、スマホが震えた。

【家帰れたかな?明日18:00からファミレス行けるよ。】

優しい通知。胸が締めつけられる。玲央は横目で見る。

「返せよ」

「……はい。いや、でも今はいいです」

ポケットにしまう。既読はつけない。

——欠けているくらいがちょうどいい。

私は今、もっと欠けようとしている。夜の匂いが服に残る。

『特別』は甘いが、続かないということを私はもう知っている。玲央が本気じゃないことくらい、わかってるのに。


「先輩、私で暇つぶしですか。早く彼女作ればいいのに。」

冗談みたいに聞いてみたことがある。「暇つぶし」と言ってほしい。本気で好きになる前にいなくなってほしいのに、離れてほしくない。

鼻で笑って、いつもはぐらかす。

「彼氏、いいやつなんだろ」

「うん」

即答できた。優しくて、堅実で、知的で、減らない人。

「じゃあなんで」

また聞かれる。答えはもう何度も考えた。

玲央にはきっともうばれている。本当は、信じる勇気がないだけということを。

「なんでだろ」

返信は気まぐれで、それがどういう立場かくらい、ちゃんと理解している。でも、理解してることと、やめられることは別だ。


湊とは、彼のオーストラリアに留学が決まった関係で別れることになった。別れ際、彼の涙とは裏腹に、私は涙一つもこぼれなかった。

「僕は本当に結婚とかしたかったし、大好きだったから。またどこかで出会えたらいいなって思ってる。」

こんなに思ってくれていたのに、その時初めて気が付いた。彼のことを好きじゃなかった。

________________________________________


それから季節は流れ、就活で忙しい毎日が続いた。

気が付けば卒業研究も終えて、大学四年間が終わる頃になった。

桜はまだ咲いていなかった。

三月の終わりなのに、空気は少しだけ冷たい。サークル棟の前のベンチには、誰も座っていない。卒業式のあとの大学は妙に静かだった。

玲央は自動販売機の前で缶コーヒーを選んでいる。大学院の2年間が終わり、もうすぐ東京を離れて地元の名古屋に帰ることになっていた。

「ブラックでいいの?」

振り向きながら聞かれる。

「うん」

コインの落ちる音がして、缶コーヒーががたんと落ちる。先輩はそれを拾って、私に渡す。少しだけ温かい。

「聖菜、東京残るんだっけ」

「うん。就職、こっちだから」

「そっか」

それだけ言って、玲央は空を見上げた。その横顔を見ていると、初めてちゃんと話した日のことを思い出した。

——ああ、もう終わっちゃう。

今さらみたいに、そんなことを思う。今まで、そんなこと一度も考えたことがなかったのに。


玲央とは、いろんなところに行った。

サークルの飲み会のあとにラーメンを食べたり、研究終わりに映画を見たり、夜のみなとみらいを歩いたり。仲良しの関係として過ごしたその普通の時間が、私にとっては特別だった。

「都会、好きになった?」

玲央が聞く。

「うーん」

少し考える。

「まだ、よくわかんないです」

玲央は少し笑った。

「俺も最初そうだった」

「今は?」

「まあ、嫌いじゃない」

そう言って缶コーヒーを飲む。その仕草が、いつもと同じなのに、今日は少し遠く見える。

「名古屋、いつ行くんですか」

「来週かな」

来週。その言葉が、やけに現実的だった。私は缶コーヒーのプルタブを指でいじりながら、

ぼんやり思う。来週、先輩はいなくなる。名古屋で働いて、東京にはあまり来なくなる。

私たちはもう会わないかもしれない。

そのとき、胸の奥が急に苦しくなった。


ああ、私、この人のこと好きだったんだ。


やっと、気づいた。もう、すべてが遅いのに。ときめきも、優越感も、何もなかったのに、この人といるときの自分が、一緒に行った場所が、一緒に見た景色が、少しだけ好きだった。

それだけだった。

でも、それがたぶん、本当の好きだった。

「玲央さん」

「ん?」

呼んでから、言葉が止まる。

好きです、って言えばいい。でも、言えなかった。

私は今まで、いろんな人と遊んできた。玲央はそれを、きっと全部知っている。だから今さら、純粋な顔で好きなんて言えない。それに、玲央は来週この町からいなくなる。

何を言っても、たぶん遅い。

「…このコーヒー、ちょっと苦いですね」

先輩は少し笑った。

「そう?」

その笑い方は、いつもと同じだった。優しくて、でもどこか遠い。駅まで二人で歩く。何度も歩いたこの道は静かで、足音だけが響く。

「大学、楽しかったな」

先輩がぽつりと言う。

その言葉が、胸に刺さった。楽しかったな、って。過去形なんだ。

改札の前で立ち止まる。電車の音が遠くで聞こえる。

「じゃあ」

先輩が言う。それだけで、全部終わりそうになる。私は思う。高校の頃の私だったら、きっともっとまっすぐだった。好きって言えたかもしれない。でも今の私は、いろんなことを知りすぎている。恋の駆け引きとか、遊びとか、見栄とか。そのせいで、一番大事な言葉が言えなくなっている。

「玲央さん」

もう一度呼ぶ。

「ん?」


「名古屋、頑張ってください」

それしか言えなかった。先輩は少しうなずいて、

「お前もな」

その笑った顔は、今までで一番優しく見えた。

電車が通り過ぎて、涙があふれて止まらなかった。

楽しかった。本当に楽しかった。これが恋だった。

好きだった。


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