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⑁u

最初に会ったのは、横浜駅前の雑居ビル二階の居酒屋だった。

——ああ、そういう感じなんだ

高級店でもなく、雰囲気のあるバーでもない。大学生の匂いがする場所。

「ここでも大丈夫?」

彼はメニューを私より先に開いて、

「好きなの頼んでいいからね」という。

夜のシャンパンコールを知ってしまった私に、二百円台の焼き鳥はもう何の意味も持たない。彼はコークハイ、私はグレープフルーツサワーで乾杯をした。

彼はよく笑った。相槌も上手で、目を見て話す。ちゃんと、優しかった。でも、心の底ではわかっていた。


——これ、きっと誰にでも同じだ。


そう思った瞬間、胸の奥が冷える。私は、彼の本名も知らない。でもこれだけはわかる。きっと全員に優しい。丁寧な言葉遣い、私が話しているときはちゃんと目を見てくれる、何より、チェイサーを注文するタイミングも完璧だった。

私は、優しさは技術だと知っている。

「それ、似合うね」

miumiuのヘアクリップ。六万円。誠也が、いつかのプレゼントでくれた。髪に指がかかりそうになった瞬間、身体がわずかに止まる。

触れられること自体は、もう驚くほど慣れている。けれど、値段も目的も見えない優しさは、逆に不気味だった。この人は何を求めているのだろう。

身体。

恋人。

承認欲求。

夜の世界で学んだ目的は、いつも明確だった。

——金。

商売じゃない人間の欲は、もっと曖昧で、だから怖い。夜の世界は、逆に潔いのかもしれない。金という、この世界で最強の武器を手に入れれば満足できるから。


店を出たとき、風が冷たくて回っていた酔いが少し冷めた。何の前触れもなく、手を取られ、指が絡む。あまりにも自然で、抵抗する隙がなかった。

——ああ、来た。

ここから距離を詰めるんだろうな。怖い、というより確認作業だ。

——ああ、この人も同じだ。

悔しい。心が、動かない。手を繋がれただけで心臓がうるさかった昔の自分は、もうここにはいない。怖かったのに、手を振り払わなかった。もう何も感じない自分のほうが、もっと怖い。

「嫌だった?」

彼が、少し不安そうに聞く。その声は、きっと本音だった。

「別に」

便利な言葉。怒ってもいないし、嬉しくもない。本当は少し怖かった。でも、それを言ったら何かが始まりそうだった。始まるのがとてつもなく怖い。

信じるほうが負けると知っているから。


時刻は22:50、横浜駅の改札前。彼は手を離した。

「ごめん、酔ってた」

軽く笑う。その一瞬、目が揺れた。遊び慣れている男の目ではなく、明らかに確認している目だった。私の反応を、怖がっている。この人は今、探っている。私の温度を。

「最後にさ、本名だけ、聞いてもいい?」

本名。そういえば、まだ名前も知らなかった。知った瞬間、アプリの中で出会った彼が別人になってしまう気がして怖い。

「また今度。」

私はそう言った。また会う約束を無意識に交わしてしまった。改札を足早に抜けると遠くの方から声が聞こえた。


「藤宮。藤宮湊!」

——藤宮湊

聞こえていないふりをして逃げるように電車に飛び乗った。


帰りの電車で、手の感触が残っていた。嫌じゃなかった。でも、嬉しくもなかった。それが一番、空虚だった。私はもう何も感じないのかもしれない。夜を知ってしまった女の子は、普通の優しさでは揺れない。

あのときの「嫌だった?」の声だけが、妙にリアルに耳に残っている。技術じゃない優しさは妙にぎこちなくて、それが少しだけ怖い。本気で向き合われるほうが、遊ばれるよりずっと怖い。

運命とか、奇跡とか、偶然とか、そういう安っぽいロマンは、のちに大きな傷になる。


電車の窓に映る自分は、驚くほど無表情だった。

——ブーッ。

スマホが震える。

【今日はありがとう。めっちゃ楽しかった】

一瞬、胸が冷える。

軽い。

ありきたりな男の語彙。やっぱり、こういうテンションで距離を詰めてくる。

続けて、もう一通。

【気をつけて帰ってね】

……え?

画面をスクロールする。ハートも絵文字もない。下心の匂いがする言葉もない。素直な優しさなのか。育ちがいいのか。いや、当たり前の礼儀なのはわかっている。強がりたかった。なめられない女らしい返信を必死に考えた。

【こちらこそ】

——なんか冷たい。却下。

【うん。そっちも気を付けて】

——無難すぎる。却下。

返信をする前に、またスマホが震える。

【さっきは、急にごめん。勢いじゃなくて本気で好きになりたい】

指が止まる。

“勢いじゃなくて”

勢いだったことにするほうが楽なのに、どうして彼は、逃げ道を自分で消すのだろう。湊は、私の答えを待っている。胸の奥が、かすかにざわつく。

これも計算なのだろうか。試しているのだろうか。『女は、早い段階で手を出してくる男に好印象を持たない』ということをわかっているみたいだ。私は、その感覚も麻痺していた。触れられることには何の抵抗も感じない。なのに、なぜか指先が冷える。


初めて私は相手を、確認している。距離を詰めるためじゃなく、傷つけていないかを慎重に探っている。彼の手に触れたあの一瞬、本当は、ほんの少しだけ期待していた。

【嫌じゃなかったよ】

送ってから少し後悔する。これじゃあ、自分から扉を開けているみたいだ。すぐに返信が来る。

【よかった。俺、ちょっと緊張してた】

——緊張?

笑ってしまう。嘘だと思いたいのに、その不格好さが憎めなかった。もしこれが本当に遊びなら、もっと滑らかに、もっと余裕を見せるのだろうか。


電車が揺れる。

もしかしたら、この人は——

遊ぶ側じゃなくて、ちゃんと、好きになる側の人間なのかもしれない。スマホを胸に押し当てた。ああ、まだ、普通の恋をしていい。

普通の女の子である私を、ちゃんと怖がっている男に少しだけ心が揺らいでしまった。

「……試してみようかな」

小さく呟く。信じるのではなく、試してみる。

もちろん、自分を試すのだ。それくらいなら、まだ負けじゃない。


家から徒歩七分のファミレス。大通り沿いにある、どこにでもあるチェーン店。付き合ってから週に3回は通っている。おそろいのパーカーを着て、一緒に課題をするのが日課になった。

駐車場がやけに広くて、夜でも明るい。

「またここ?」

笑いながら言うと、湊は肩をすくめた。

「近いって最強じゃない?」

初回で会った横浜駅からは横浜市営地下鉄で一本、共通で戸塚駅が最寄りだった。電車に乗らなくていい。おしゃれをしなくていい。終電も気にしなくていい。

ドリンクバーの前で並ぶと、湊はいつもホットコーヒーとメロンソーダの二種類を用意する。

「なんでいつも二つなの?」

「眠気覚ましと、ガキっぽさの両方楽しめていいじゃん」

一瞬の静寂、メロンソーダのはじける炭酸の音が響いていた。なぜか、誠也と別れ話をした時のメロンソーダを思い出した。

そういう、どうでもいい癖を少しずつ知っていく。毎日が「特別」になっていく。窓からは、夜の道路を車が流れていくのが見えた。湊はノートパソコンを開く。

「今日、新しいデータ出たんだよね」

「いつもの研究?」

「うん。コンビニの限定商品の売れ方」

いつものやつ。

「人ってさ、“必要だから買う”より、“なくなるかもで買う”のほうが多いんだよ」

画面をこちらに向ける。グラフが並んでいる。

「販売期間を短く見せるだけで、売上が二割増えた。不安を刺激するほうが人は動くってことだねー」

ストローを噛む。ジンジャーエールの炭酸が喉の奥に詰まった。

「じゃあさ、恋愛もそう?」

湊のタイピング音が響く。

「どういう意味?」

「いなくなるかも、って思ったほうが好きになるとか。」

彼の手が一瞬止まる。

「それはあると思う。不安で繋がってる関係は、安心が来た瞬間に崩れるから」

即答だった。

静かな声。ファミレスのざわめきの中で、そこだけ少し澄んで聞こえた。言葉が、ゆっくり落ちてくる。軽そうな見た目をしているのに、話す内容はいつも地味で、堅実だ。

「まあ、無理に増やさない。なんでも続くほうが勝ちだとはおもってるけどね。」

——続くほうが勝ち。

夜の世界では、続くことよりも瞬間の輝きに価値があった。高いお酒、一晩の特別、それに比べてドリンクバーは、百円ちょっとで何時間でもいられる。

「ふつうにさ、僕が彼氏って、つまんなくない?」

急に聞いてきた湊の目は、少し意地悪だった。

「刺激は少ないかもね。でも、安心はあると思う」

胸の奥が少しだけ揺れる。派手じゃない。でも、なくなったら困る。少し空気が揺れた。気づけば三時間も経っていた

「さすがに長居しすぎかな。なんか食べるか。」

追加でポテトを頼む。

「こういう時、ポテトって助かるよな。いい感じにつまめるし、シェアできるし。

「なんでそんなに気配りしてくれるの」

思わず言う。彼は少し笑う。

「なんで笑ってるの」

彼の表情がさらに和やかになる。

「んー、愚問だなーって思って」

——ずるい。

優しさの理由を問うたら、それは愚問だった。彼にとって、優しさは、当たり前の行為だった。わたしは今まで、それほど常識外れの人間としか接してこなかったのだろうかと自分の人生を疑ってしまった。


課題に没頭していると、時計の針は0時を指していた。

「夜遅いし、送るよ」

店を出るとすぐに、指が絡んだ。前よりも自然で、怖くない。でも、完全に委ねきれていない自分がいる。それが悔しかった。

「ねえ」

私は言う。

「私、あんまりいい子じゃないよ」

なんとなく、予防線を張る。

「欠けてるくらいがちょうどいい」

欠けていることを本当に知ったとき、この関係はどうなってしまうのだろう。家の前で手が離れる。

「また明日ね」

「また明日」

その「明日」が当たり前みたいで、軽い。

部屋に戻ると、スマホが震える。

【今日もありがとう。ゆっくり休んでね。おやすみ!】

普通で楽しい。それは、幸せなのか。それとも、退屈の予兆なのか。でも、胸はちゃんと温かい。少しずつ私は力を抜き始めているのが自分でもわかる。でも、その愛もきっと脆い。


——「不安で繋がってる関係は、安心が来た瞬間に崩れる」

あの言葉が、ずっと頭に残っていた。

安心が来た瞬間に崩れるのなら、

じゃあ。

崩れる前に、壊してしまえばいい。





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