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彼は、最初から少しだけ歪んでいたのかもしれない。

「世の中、金がすべてやから。」

それは冗談みたいに軽い口調で言われるのに、どこか祈りのようでもあった。

上京して一年がたったころ、通信系のアルバイトで出会った柚木誠也に一目ぼれをされ、気づけば付き合っていた。

柚木誠也が転売屋だと発覚したのは、出会ってからすぐだった。その頃の私はこれが『東京』だと思い込んでいたのかもしれない。デートの帰り道に、ヨドバシカメラに並ばされるのは日常茶飯事だった。


限定スニーカーの発売日は、朝五時にアラームが鳴る。

「アラーム早いよ」

眠い目をこすりながらつぶやくころには、彼はパソコン3台と向き合っていた。積まれた未開封のスマホの箱が目に入る。箱の隣には空のエナジードリンクの缶が二本。私が寝ている間に飲み干していたのだろう。そして三本目を開け始めた。

「今、大事だからあとでな」

抽選フォームを同時に何十件も開き、リロードを繰り返す。見慣れた光景。スマホ、タブレット、ノートパソコン、アニメのキャラクターフィギア、ゲームのカード。パソコンのボタン一つで、すべてが金に化けていく。

「数打ちゃ当たる戦法やから」

画面に映る“当選”の文字を見て、彼は子供みたいに笑った。

箱のまま積まれる未開封の段ボール。ブランドのロゴが並ぶ部屋。パソコンのコードだらけのたこ足配線はキャパオーバ―寸前だった。

鳴り響くクリック音。売れた瞬間に、彼の目は輝いた。

「ほら、倍」

数字の画面を見せられる。数万円が、十数万円になる。その快感が狂気だ。

「これってさ、ちょっと悪いことじゃない?」

私が聞くといつも同じ答えが返ってくる。

「ちょっとネズミが顔出すくらい。需要と供給、ただの手段やから。」

倫理より、効率。罪悪感より、利幅。大学生のくせに、財布には常に何十万も入っていた。

でも、不思議だった。あれだけ稼いでいるのに、安心した顔を一度も見たことがない。



その日の東京都庁の展望台から見える夜景はきれいだった。

「誠也の夢ってなに」

「タワマンの最上階に住むこと」

淡々と話す彼の目は何を考えているのかわからない。

その日は雨が降っていた。雨の日の霞む空に負けないほどの光が目に飛び込んでくる。

「人が歩いてるのが見える」

下の方をのぞき込んで指をさしながら、無邪気にそんなことをつぶやく。

「高いところから人眺めると、人間が蟻に見えてくんねん」

彼には人間の心がなかった。

「だからタワマンに住みたいの?」

「物理的に見下せる感じがたまらへん」

冗談なのか、本心なのか。もう、どちらでもよかった。

「誠也はさ、いくらあれば満足するの?」

彼は少し考えて、

「そんなんわからへん。まあ、持ってる側やないと嫌やな」

——持ってる側。

転売は、少しずつ厳しくなっていった。政府からの監視も厳しくなったからだ。アカウントが凍結され、規制が増え、ライバルも増えた。

「効率悪くなってきた」

そのときの彼の顔は、焦っていた。

「普通に働きなよ。チェーン店の飲食とか。」

私の言葉は空虚な空に溶けていく。返ってきた言葉は一番彼らしかった。

「夜、夜や。ずっとやりたかったし、ホスト」

冗談だと思った。でも彼は本気だった。

「え」

「やるなら歌舞伎町っしょ。金が一番動く」

彼はもう、調べ尽くしていた。売上の相場。ナンバー争い。バック率。初回荒らしの客層。

「トップは月2000とかいく」

目が光る。

「俺、数字強いからさ」

彼は、数字にとらわれて生きている。ものでうまくいかないのなら今度は、人の気持ちを、数字で。

「そっか、応援するよ」

「ありがとう。俺が稼いで、聖菜のこと幸せにするよ。好きなもん、何でも買うたる」

なぜだろう。もっと派手で、もっと壊れそうな世界を知りたくなった。見に行きたくなった。だから、彼がホストになっても、別れようとは思わなかった。


________________________________________

その重いドアは、まるで外の世界との境界線だった。暗い、でも、光が多すぎてまぶしい。

LEDの青と紫。鏡張りの壁。シャンパンボトルが並ぶ棚。

「いらっしゃいませ、お姫様!」

ワントーン高い男性たちの声は、いかにも営業用で気味が悪い。黒のソファは柔らかく、深く沈む。テーブルに置かれたメニューは分厚い。席に着くと見慣れた顔が隣に座る。

そこにいたのは、誠也とは全くの別人だった。


「今日は、月見神楽だからね。」

——月見神楽


一番安いボトルで数万円。高いものは、軽く三十万を超える。

「これ、普通に出るの?」

小声で聞くと、

「余裕で」

と神楽は笑った。

売り上げが伸びてきたから見に来てほしいといわれ、体験入店として招待された。恐怖も、罪悪感も、夜の世界に対する後ろめたさもない。だって、彼氏のバイト先に遊びに来ただけだから。

________________________________________

里香の彼氏が働くカフェに遊びに行ったのは、2か月前のことだ。

「ねえ、聞いちゃったんだけどさ、聖菜の彼氏ってホストやってるの?サークルで噂になってるよ」

里香がカフェオレを飲みながら言う。

「うん、最近調子いいらしい」

里香は、吹奏楽のインカレサークル仲間だ。長期休みには二人で韓国旅行に行くほど仲がいい。

「それさ、普通にやばいよ。私だったら、彼氏がホストなんて嫌だよ。」

何百回と聞いた。里香もそっち側の人間だ。さすがに自分でも自覚している。私が、『じゃない方』の人間であるということを。

「でもね、なんか期待しちゃうんだよね。手段は卑怯かもしれないけど、彼は何でも買ってくれるし、この前だって記念日にハワイ旅行連れてってくれたし。ちゃんと私が一番って言葉にしてくれるし。」

怖かった。誰かに気づいて欲しかった。彼の口から放たれる「大好き」は口だけとわかっていた。誰かに自分の恋愛を打ち明けるということは、共感してほしいのではない。自分を正当化して、見たくない部分をきれいに塗りつぶしているだけだ。まだ希望があると、思い込ませたいのだ。

「聖菜がいいならいいんじゃない。でも、聖菜が悲しむ姿は見たくないからさ。」

まだ、私を見捨てていない。いや、呆れているのだろう。でもその事実だけでも私は救われた気がした。女が一番恐れているのは、自分以外の女に見捨てられることだ。

一瞬その風がよぎった気がして、胸が締め付けられた。

里香の彼氏は中堅私立大学に通い、サッカーサークルの友達も多いようだ。カフェと塾講師のバイトを掛け持ちし、コツコツ貯金をしてデート代に使っている。休日にはドライブ、全休の日にはよく映画デートをしている。そんな里香を見ていると、いかに自分が危ない橋を渡っているのかが分かる。

「嫌いにならないでほしいな。」

聖菜がそういうと里香は笑いながら腕を組んだ。

「逆にうらやましいよ、なんか人生してて。私には足りない、おもいきりがあるというか。聖菜らしくていいと思うよ。」

私は里香がうらやましかった。世間的な『普通』の恋愛がしたかった。

少し背伸びをして表参道のモーニングに行ったり、下北沢でおそろいのスウェットを買ったり、みなとみらいで誕生日を祝いたかった。家で映画デートをして、次の日の1限を飛ばして、バイトも飛んじゃえーって親戚死んだことにして店長に電話を掛ける。そういう『普通』が欲しかった。

1年記念日をハワイで過ごしたって、定期テストのご褒美にmiumiuのカバンをもらったって、昼間は会えない。クリスマスもバレンタインも会えない。それでも、使い古した「大好き」を聞くために私は誠也を手放さなかった。なぜなら、彼にとっての『特別』だから。歌舞伎町の有名ホストクラブの人気メンバー。そんな彼の『特別』に私は、溺れていた。

「そっか」

そう言って私は、冷めたブラックコーヒーにミルクを注いだ。


________________________________________

——ここに里香は連れてこれないな

グラスに注がれた赤色のワインがやけに黒くて、カフェで飲んだブラックコーヒーを思い出した。

ドリンクが運ばれ、横に神楽が座る。距離が近い。太ももが触れる。甘い香水の香りに包まれる。

「セイナ、今日可愛いね」

——今日「も」ではない。ここでは彼女ではない。神楽は担当で、セイナは姫だ。

その声は、少しだけ低く、柔らかく加工されていた。そう思った瞬間、胸が痛んだ。隣の卓で、シャンパンが開く音がした。

「コールいきまーす!」

手拍子。ホストたちが集まり、大声で煽る。

「ジュリア様から〜!よいしょ〜!よいしょ~!」

ボトルが一気に空く。ジュリアは泣きながらカードを差し出す。その手は震えていた。

「今日でこの子、200いく」

神楽が耳元で囁く。

——200万。

お金が、感情より大きな音を立てていた。はじめて、怖いと思った。誠也のことを。ここには道徳も倫理も何もなかった。



吐瀉物と尿を避けながら、ひたすらにあるいた。新宿東口の朝4時半は、以外と閑散としている。

「火、持ってへんよな」

「ごめん、ない」

「だよな」

少し不機嫌そうに電子タバコに持ち替えた誠也は、どこか清々しい表情を浮かべていた。


——たばこ

誠也が吸っているところは今まで一度も見たことがなかった。でも、神楽は吸う人だった。


「そろそろ店戻んなきゃ。今日は体入扱いだから、会計こっちでつけとく。」

「わかった。ありがとう。」

手を振って振り向くころには、もう角を曲がっていた。

私は、だれと付き合っているのだろう。

________________________________________

彼はすぐに売れた。納得だった。

「顔がいいだけじゃ無理やねん」

そう言いながら、営業を徹底していた。LINEは常に未読ゼロ。

《今何してるの?》

《寂しくない?》

《今日きてくれたらうれしいな》

一人一人、文面が違う。絵文字もハートの数も変えている。

「依存強い子は、間空けると不安になるんや」

何一つ恋じゃない。完全なマーケティング、金を増やす戦略。


ある夜、彼の部屋で売上表を見た。女の子の名前と金額。横にはメモが書かれている。

「親と不仲」「自己肯定感低」「押せば200出る」

頭が真っ白になった。

「ちょっと、何これ。この女の子たちは、物じゃないよ。」

震える声で言った。彼は冷静だった。

「俺も人間や、金が欲しいだけ。需要と供給なんやこれも。」

欲しいだけ。それだけで、ここまで人間を狂わせることができる。


「でもね——聖菜は特別」

——『特別』

その『特別』が戦略の一部じゃない保証はない。

数年前には大好きだった、その『特別』。でも、今ならわる。『特別』はロマンではない。ネオンの光とともに私は学んだ。理性が焼ける瞬間、溺れる感覚。それが刺激的で、儚い愛だと錯覚してしまった。自分が壊れていく音を、わざと美しいメロディーに変換しようとした。


________________________________________


彼はすぐに1位に上がった。店の前に大きく写真が出る。煌びやかなスーツが町ゆく人の視線を集めていた。


「今月はトップ狙う」

その目に、私は映っていなかった。一度だけ聞いたことがある。

「もし私が、店に通ったら?」

彼は少し笑って、

「やめとけ。俺、情で負けないから」

その言葉が、すべてだった。私は、お金には勝てない。彼の中で一番なのは、まぎれもなくお金だ。恋は花火だと思っていたのに、ここで咲いているのは、値札のついたただの光だ。一番高く払った人が、一番美しくて煌びやかな大輪を咲かせることができる。私は、その世界のルールを知らなかった。知りたくなかった。


損得で考えたら、私はもう利益を生まない。

「別れよ」

青山一丁目のおしゃれなカフェで、静かに別れを告げたとき、彼はメロンソーダのアイスをスプーンですくっていた。

「そっか」

つぶやくようにうなずいた彼は、静かに泣き始めた。その涙の意味を理解することはできなかった。メロンソーダの緑色が鬱陶しくてなぜか涙があふれた。千円札を机において逃げるように店を出る。


幸せな夜を思い出した。誠也の指先は、甘くて、言葉は柔らかかった。視線は計算されていて、笑うたびに、何かを隠しているような目をしていた。シーツの上に絡まるときの囁きには、なぜか『特別』を感じた。

「愛してるよ」

軽い。だれにでも言っている声だと知りながら、抱かれていた。馬鹿なふりをして、自分をだましていた。

「信じてほしい」


そういいながら、彼は誰のものでもなかった。愛は信じたほうが負けると学んだ。

青山の街を歩きながら、なぜか涙は止まっていた。

ただ、寒かった。

恋は美しいが、お金に執着した瞬間に愛は簡単に軽くなる。そして一番残酷なのは、彼が最初から悪人だったわけじゃないこと。ただ、数字を信じすぎていただけだったということ。それが少し悔しかった。



外苑前駅のホームに降りる階段で、ふとスマホを開いた。

癖みたいなものだった。友達のLINEを確認するためじゃない。ただ、通知が来ていないか確かめるだけの、空虚な動作。

マッチングアプリのアイコンが赤く光っていた。

——「いいねが届きました」

どうでもよかった。

誰でもいいと思った。正確には、もう誰も特別じゃなくていいと思った。でも、投げやりなんかじゃない。もっといろんな人に出会って、いろんな種類の価値観を学びたかった。どんな愛し方が、どんな愛され方が、自分にとっての幸せなのかを探してみたかった。


《東京/慶応3年/180cm》

——慶応か

昔の私なら、高学歴とマッチングしたことに、喜びを感じるのだろう。でも、今の私に純粋な気持ちなどない。大学生というだけで、かわいいものだ。

自由、意識高い、留学、起業、サークル、飲み。慶応生の勝手なイメージが一瞬で並ぶ。

写真は、サークル仲間と行ったのであろうBBQの風景だった。

——絶対遊んでる。

ちょうどよかった。

誠也みたいな男でこの世界は成り立っているのなら、いっそ『大学生っぽい男』に雑に扱われたほうが諦められる。私はほとんど投げやりに、でも少しの期待をこめて「いいね」を返した。

少なくとも、多少の勉学に勤しんだ経験がある男なら、表参道のモーニングに行ったり、下北沢でおそろいのスウェットを買ったり、みなとみらいで誕生日を祝えると思った。



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