①
バルコニーから見える海は、信じられないほど静かだった。風が頬をなぞるように髪を揺らす。まるで私たちを祝福しているかのように、白いカーテンがふわりと舞う。南半球の夏は、肌にまとわりつく湿気すら明日の花嫁には優しすぎていた。
私は裸足でバルコニーに出た。大きく息を吸う。明日の私は笑っているのだろう。
——きっと私はいい子の儘で
左の薬指には一年前の誕生日にもらった婚約指輪が光っていた。この先にある幸せな未来が、もう目の前に来ている。
それなのにどうして。
潮風の匂いに混ざって、遠い夜のネオンの匂いがした。
小宮颯真と出会ったのは、浅間学園高校の入学式だった。
まだ少し肌寒い四月。新品の制服に袖を通しながら、これから始まる三年間に胸を高鳴らせていた。体育館に差し込む春の光が、新入生たちを淡く照らしている。
浅間学園は、地元では珍しい部活と勉強の両立を掲げる私立の進学校。運動部も文化部も全国レベルの強豪校だった。
その中に、ひときわ目を引く存在が、野球推薦で入学したという彼だった。
鍛え上げられた無駄のない身体と、すらりと伸びた高身長のシルエット。日に焼けた肌に、整った顔立ち。潔い坊主頭が、やけに似合っていた。
――かっこいい。
ただそれだけで、心臓がうるさくなるには十分だった。
入学式が終わり、教室へと誘導される。席に着くと、不意に低い声が降ってきた。
「お前、名前は?」
さっき体育館で見た横顔がすぐ目の前にあった。思ったより近くて、まっすぐな瞳。
「……佐々木聖菜」
緊張で少しだけ声が震えた。
「覚えるわ、佐々木。よろしく」
そう言って、彼は当たり前みたいに笑った。
――それが、すべての始まりだった。
放課後のグラウンドで、泥だらけのユニフォーム越しに交わす視線も、テスト前に並んで問題集を広げる静かな時間も、何気ない「おはよう」と「また明日」が、かけがえのない宝物になっていった。
月日が流れ、気づけば彼は私の日常に自然に入り込んでいた。世界が少し変わった気がした。
「佐々木、次の答え教えて」
さっきまで寝ていた颯真が、数学の問題集を振り返って見せてくる。
野球推薦で入った彼は、勉強が苦手だった。野球のために学校に来ている彼らは、授業の時間は退屈で仕方がないのだろう。
「またー?」
「いつものことだろ。いいから、はやく」
「えっと……ここ、公式当てはめるだけだよ」
私はノートを差し出す。彼は真剣な顔で覗き込み、すぐにシャーペンを走らせる。
距離が、近い。柔軟剤と、ほんのり汗の匂いが混ざった、彼の匂い。
それだけで、胸が落ち着かなくなる。
「はい、じゃあ次、小宮」
先生のかすれた声が響く。颯真は慌てて返事をする。
「は、はい!」
「答えは?」
「3です!」
「正解だが、なぜその答えなのか、説明してもらえるか」
「えーっと、か、勘ですかね」
教室中が和やかな笑いに包まれる。
「おめえ、さっきまで寝てたからだろ」
「また佐々木に答えきいたんちゃうか」
クラスのムードメーカーである颯真は太陽みたいにまぶしい。
「まったくおまえはあきれたやつだ。家で確認してこい。」
「さーせん」
お決まりのセリフで颯真は腰を下ろす。
「佐々木マジ天才じゃん、いつもサンキューな」
「あ、うん」
「明日も頼むわ」
まっすぐな言葉。照れも、駆け引きもない。
だからこそ、ずるい。
授業中に寝ている彼を愛おしく思えるのは、彼の本当の姿を知っているからだろう。
放課後になると、彼はグラウンドへ向かう。私は校舎の三階の窓から、それを見ていた。
白いユニフォーム姿で走る背中。声を張り上げる横顔。泥だらけになっても、決して諦めない姿。ボールを打つ乾いた音が、夕焼けの空に響く。
ただ、かっこよかった。
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平凡な毎日がすぎていった高校三年、一学期終業式。彼がふいに言った。
「佐々木、今度の決勝見に来る?」
心臓が止まったみたいだった。
「……え?」
うれしい。かすれていた恋心が明らかに動きだすのが分かった。
「ほら、一年の時から世話になったし、やっぱ最後は、おまえに見に来てほしいなって」
当たり前みたいに言う。
そっか、最後の夏か。浅間学園はすでに決勝までコマを進め、2年ぶり7度目の甲子園出場が期待されている。
「わかった」
颯真のうれしそうな瞳の奥には、どこか安堵の表情が見えた気がした。
試合の日、グラウンドには応援の声が飛び交い、土埃が舞っていた。ブラスバンドの音、チアガールの黄色い声援で会場は盛り上がりを見せている。
彼は四番で、センター。
打席に立つと、周囲の空気が少し変わるのがわかった。
一球目、空振り。二球目、ファウル。そして三球目。
乾いた快音とともに、ボールが高く舞い上がった。
歓声。ボールはフェンスを越えた。
気づいたら、私は立ち上がっていた。胸がいっぱいで、涙が出そうだった。
しかし、颯真のホームランもかなわず、結果は惨敗。甲子園出場には届かなかった。
試合終了のサイレン。歓声と、ため息と、泣き声が混ざる。
グラウンドで、颯真はうつむいたまま動かなかった。帽子のつばの影で、表情は見えない。でも、肩が小さく震えていた。夢が終わる音はこんなにも静かだ。
家に帰るとメッセージが届いていた。
「今日見てた?」
「うん、すごかった」
「佐々木が見てると思ったら、打てた」
颯真はいつもさらっと、そんなことを言う。軽い。
——え……?
きっと彼にとっての私は、『特別』なんだ。『特別』は快感だ。大切にされている証拠で、誰かにとっての一番なんだ。
「だから、これからも見ててほしい」
その文字は、告白みたいで。でも、少し違う。
曖昧で、でも微妙な距離。それが『特別』で心地よかった。
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夏が終わる頃、私たちは自然と一緒にいる時間が増えていた。
部活も引退し、学校中が受験モードになる。テスト前は図書室で並んで勉強。帰り道は駅まで一緒。空はオレンジ色に染まり、影が長く伸びる。
「俺さ」
珍しく、彼が真面目な声を出した。
「プロ、行きたいんだよね」
まっすぐ前を見たまま言う。
「絶対行く」
その横顔は、入学式の日よりも少し大人びて見えた。
「行けるよ」
自然と口から出た。
「俺、大学野球本気でやって、ドラフト狙いたい。だから、東京の大学行って4年間本気で野球やりたい」
夢を語る彼の姿は、まぶしかった。
「佐々木は?」
急に聞かれて、少し戸惑う。
「私は……管理栄養士になりたい」
「え、なんで?」
「スポーツしてる人、支えられる仕事がいいなって。一人暮らしもしたいから、都会の大学行って、バイトも勉強も頑張りたい。」
言った瞬間、恥ずかしくなった。まるで、彼のためみたいで。彼は少し黙ってから笑った。
「いい夢じゃん。じゃあ、俺専属の栄養士になれるな」
彼がプロ野球選手になって、私が隣で支えてあげる未来を一瞬で想像できてしまった。その言葉に、胸が熱くなる。次の瞬間、彼は立ち止まった。
「なぁ、佐々木」
夕焼けの光が、彼の横顔を赤く染める。
「俺、佐々木のこと――」
世界が、静かになる。風の音だけが聞こえる。心臓の音がうるさい。
「……好きかもしれない」
かもしれない。
その不器用さが、彼らしかった。私は、少し笑った。
「かもしれない?」
「わかんねぇんだよ。初めてだから」
正直すぎた。純粋に、好きだった。
「私も」
沈黙。そして、恥ずかしくなって笑いあった。
「じゃあさ」
彼が手を差し出す。
「付き合って」
彼は私の手を、そっと握る。手のひらは、大きくて、暖かい。一瞬、時間が止まる。
「うん、いいよ」
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順風満帆な生活を過ごしていても、時間とともに少しずつ何かが欠けるスピードは加速していった。推薦の話もある彼は、より一層自主練に励むようになった。
「最後くらい、ちゃんとやりたい」
そう言った顔は、少し大人だった。でも、忙しさは変わらなかった。朝は自主練。昼は授業。放課後は勉強会。図書室で並んでいた時間は、減っていった。
「今日、帰り一緒に行ける?」
「ごめん、自主練ある」
「そっか」
その“そっか”が増えた。会えないわけじゃない。嫌いになったわけでもない。でも、話す時間は短くなっていった。連絡も、だんだん簡単なものになった。
《おつかれ》
《今日も頑張ろう》
《模試やばい》
前みたいに、未来を語ることは減った。
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空には雪が舞っていた。白い息がたばこの煙のようだった。風が冷たくなった頃、駅前のベンチに並んで座っていた。沈黙が、前より少し重い。
「最近、あんま会えてねぇな」
颯真が言う。
「うん」
否定できない。
「佐々木、無理してない?」
「してないよ」
嘘だった。寂しくないと言えば、嘘になる。でも、それ以上に私は、自分の夢を諦めたくなかった。彼も、きっと同じだった。
「俺らさ」
颯真が、少し笑った。
「なんかさ、高校生って感じよな」
「なにそれ」
「好きなのにさ、でも毎日忙しくて、受験で余裕なくて」
「確かにそうだね。」
私も笑う。笑いながら、胸が痛い。
「嫌いになったわけじゃねぇんだよ」
「うん、わかってる」
「でも」
彼は、言葉を探すみたいに駅の時刻表を見た。
「今は、お互い別の大事なことあんだよな。だから、離れねえとな。聖菜のこと、嫌いになりたくねえし。」
言い方が優しくて悔しい。彼は立ち上がり、改札へと向かう。
「うん、そうだね」
それで十分だった。私は小さく頷いた。
別れ話は、驚くほどあっさりしていた。泣き叫ぶことも、引き止めることもなく。
「じゃあ、またね。元気でね」
そんな曖昧な約束を交わす。駅の改札で背中を向けた。振り返らなかった。
振り返ったら、きっと迷ってしまうから。電車の扉が閉まる音を背中越しに聞いていた。
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卒業式の日。
体育館で、校歌を歌いながら思った。私たちの恋は、特別だっただろうか。きっと、特別だった。でも同時に、ありふれていた。部活に追われて、夢を追いかけて、未来を選んで、隣の手を離す。誰かが悪いわけじゃない。ただ、時間が進んだだけ。
恋愛は、花火みたいだ。一瞬、眩しくて、心を焦がすほど熱い。でも、季節が変われば、当たり前のように消えていく。
私は今でも、夏の匂いを嗅ぐと思い出す。炎天下のグラウンド。白いユニフォーム。風に運ばれてくる汗のにおい。静かに思い出になったこの恋は、儚くて、本物だった。
恋は、美しい。そう思えなくなったのは、きっとあの日から。
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