3
馬車が城下の石畳を駆ける。
振動に合わせて、薄衣のヴェールがわずかに揺れた。
外は穏やかな昼下がり。
陽射しの向こうで、人々のざわめきが遠く流れる。
「あれがエレオノーラ王女!」
「国を売った女だ!」
すぐ近くで声が上がった。
鈍い音が馬車を打つ。
石を投げつけたのだ。
それが呼び水となり、次々と石が投げられる。
護衛騎士たちは馬上にいるが、剣を抜こうともしない。
見て見ぬ振りをしているのだ。
――誰かが責任を取らねばならない――
王はそう言った。
和平条約が公開されると、王や宰相たちが思っていたよりも、民や貴族からの反発が強かったからだ。
エレオノーラは真っ直ぐに背を伸ばし、前方を見つめた。
膝の上に重ねた指先の、わずかな震えに気づかないフリをして、向かいに座る侍女に尋ねる。
「おまえは、どうしてわたくしについて来たの?」
顔の半分を覆う、大きな当て布と包帯が痛々しい。
「……めぃじられましだ」
傷のせいでうまく喋れないのか、ひび割れた声が辿々しく答える。
「……そう」
エレオノーラはさして興味もなさげに、視線を前方に戻した。
石は絶え間なく馬車に投げつけられる。
時折、ひときわ重い音と振動が車体を揺らした。
「危ないだろ! 当たったらどうするんだ!」
御者の怒鳴り声が聞こえる。
馬車を遠巻きに伴走する騎士たちと違って、なんの装備もなく御者台に座る彼がいちばんの貧乏クジだ。
がしゃん、と硝子の割れる音がした。
侍女が悲鳴を上げ、外から下卑た笑い声が上がる。
拳大の石が鈍い音を立てて床に転がった。
エレオノーラは石を拾うと、割れた窓硝子に向けて投げた。
ふたたび、がしゃん、と音を立て、石は窓の外に消える。
ふ、と口元に微笑を浮かべ、エレオノーラは姿勢を戻した。
町の中心から離れるにつれ人通りは少なくなり、罵倒や野次の声も聞こえなくなる。
やがて外郭の門を過ぎると、人の手の入らない平原が広がった。
それにしても悪路である。
(もうっ、なんなんですの!?)
エレオノーラは馬車の内壁に頭をぶつけ、思わず呻いた。
用意された馬車は見かけだけは美しいが、型が古いせいで揺れが酷い。
背中も腰も、何より座っている部分が痛んだ。
唇を噛んで前を向くと、侍女がおずおずと口を開く。
「ひめざまは……こわぐは……ない、ですか?」
「怖い? わたくしが?」
エレオノーラは驚いた。
人にそんなことを聞かれたのは初めてだ。
「レーヴェ、ハルトざまは……おぞろしぃかた、だと」
エレオノーラは軽く頷くと言葉を継いだ。
「確かに――冷徹な策謀家。“不敗の獅子王”と呼ばれるお方だわ」
「そ、ではなく……かのかだには、うわざが」
「うわさ?」
エレオノーラは首を傾げる。
王宮でいくつかの話を聞いたことを思い出した。
「おまえ、あんなつくり話を信じているの?」
『子供騙しの怪談』よ、とエレオノーラは笑った。
「そんな話、同盟国でしてはダメよ。不敬罪で投獄されてしまうわ」
わざとらしく怖い顔で言うと、侍女は自分の口を押さえて何度も頷いた。
馬車はやがて、低い石壁と鉄柵に囲まれた関所の前で止まった。
同盟国との国境だ。
同盟国側の騎士たちが、整列して待っている。
二十にも満たない人数だが、動きに無駄がなく、一目で手練れであるとわかった。
門が静かに開く。
壮年の騎士が進み出て、形式通りに一礼した。
「エレオノーラ王女殿下。同盟国将軍閣下の命により、お迎えに上がりました」
それだけだった。
名乗りもしなければ歓迎の言葉もない。
馬車を降り、エレオノーラは鷹揚に頷いた。
「ご足労、感謝します」
騎士は小さく頭を垂れ、感情の読めぬ目を伏せた。
王国の騎士たちとはここでお別れとなる。
不思議と不安も寂しさもない。
エレオノーラは傷のある侍女だけを連れ、用意された馬車に乗り込んだ。
黒塗りの馬車は窓も小さく装飾も控えめで、実用的なつくりをしている。
馬車が滑るように動き出す。
軍用なのか、見かけはともかく乗り心地は悪くない。
荒れた道を進むと、辺りの景色はしだいに鬱蒼とした森に変わった。
鋪装こそされていないが、馬車がすれ違えるほどのしっかりとした道が一本、森の奥に向かって伸びている。
御者は無言で手綱を操り、騎士たちは馬車の周りを囲んだ。
護衛というより――、
「まるで護送ね。なんだか見張られているみたいだわ」
小さく呟くと、窓硝子に映る自分の姿を見つめる。
刺繍を施した象牙色のドレスも、薄衣のヴェールも、ここではひどく場違いだ。
馬車が小さく揺れ、車輪が石を踏み越えた。
その音が、やけに大きく響く。
(この先に人の住む場所などあるのかしら)
ふと、城の侍女たちの噂話が脳裏をよぎった。
――同盟国の将軍は、人の生き血を啜るらしい――
「バカバカしい」
戦で大きな傷を負い、今は離宮で療養中と聞いている。
もともと気難しいらしく、人を寄せつけないことから出た噂だろう、というのが宰相たちの意見だ。
もう一度窓の外を見ると、いつの間にか霧が立ち込め始めている。
「こんなに静かだったかしら」
風に揺れる木々のざわめきも、鳥の囀りも、いつの間にか消えていた。
轍の音だけが、やけに大きく響く。
霧は、森の奥から這うように道を覆ってゆく。
視界が悪い。
馬車がピタリと止まる。
御者の戸惑うような声が告げた。
「……これ以上は進めません」
馬車の周りを囲んでいた護衛騎士たちの姿が消えている。
エレオノーラは馬車のドアを開けた。
背後で侍女がくぐもった声で何か言った。
馬車から降りると、騎士たちが御者を拾い馬を返す姿が見えた。
壮年の騎士が、馬上で短く一礼する。
「待って――」
呼び止める声が霧の中に消える。
馬蹄の音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。
呆然と佇んでいると、侍女が馬車を降りる気配がした。
「ひめざま……」
涙の混じった声に振り返ろうとした時――、
微かに漂う甘い香りに気づいた。
「薔薇の香りだわ」
(野生の薔薇かしら。それにしては濃密な――)
そう思って霧の向こう、香りの流れてくる方をじっと見つめる。
すると、ぼんやりと、何かの輪郭が浮かび上がってきた。
四角い建物と、細長く先の尖ったシルエット。
(……あれは)
エレオノーラは、息を呑んだ。
霧の中に古びた屋敷が佇んでいる。
その姿は、ずっと昔からエレオノーラが来るのを待っていたかのように見えた。




