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 パシン――!

 


エレオノーラは、手に持った扇で侍女を打ちすえた。


「姫様、どうかお許しください……」


打たれた侍女は床に倒れ、ガタガタと震えている。


縋るように見上げる顔にはそばかすが散り、まだ幼さが残っていた。その唇の端が切れ、血が流れている。


(いやだ、汚い。わたくしのドレスに血がついたらどうするの?)


レースで縁取られたドレスの裾をさっと引くと、エレオノーラは不思議そうに首を傾げた。


「許す? 何故?」


温度のない静かな声に、足元の侍女が大きく肩を揺らす。


「おまえはわたくしの髪飾りを壊したのよ。それも、婚約の証として隣国から贈られた品を。おまえの下賎な命如きでは、到底贖うことも叶わないほどだというのに……」


「姫様……どうか」


か細い嗚咽を引きずるように、侍女は啜り泣いた。


(まったく、物分かりの悪い娘だわ)


エレオノーラは小さくため息をついて、背後の護衛騎士に命じた。


「その侍女の手首を切り、鞭で100回叩いて城から追い出しなさい」


(こんな子どもに大切な宝飾品を片付けさせるなんて、侍女長はいったい何を考えているのかしら)



「さあ、見せ物ではないのよ。仕事に戻りなさい」


さっと扇を広げて背を向けると、先ほどの侍女が金切り声で叫んだ。


その言葉は何も意味をなしていない。ただ純粋に、恐怖を表しているだけだ。


不快な音から逃れたくて、エレオノーラは庭園に向かおうと踵を返した。


その時。


「お姉さま、やめて!」


悲痛な――けれど、どこか甘えるような声が響いた。


エレオノーラの異母妹、アンナマリーだ。


「騒がしくてよ?」


エレオノーラは眉を寄せ、ゆっくりと振り向いた。


走って来たのだろう。

柔らかな金糸の髪を乱したアンナマリーが、肩で息をしてエレオノーラを睨んでいる。



(相変わらず品のない娘だこと)


エレオノーラは目をすがめ、アンナマリーに半歩近づいた。


「それで? 今度はなあに?」


扇の陰で毒を流すように囁くと、アンナマリーは憤然と言葉を繋いだ。


「いつもいつも罰にしてはやり過ぎです。お姉さまには赦すという慈悲はないのですか?」


「許す?」


「そうです!たかが髪飾りを壊したからと、手首を切るなんてあんまりです!」


(――たかが)


その言葉に、思わずふ、と笑いが漏れた。


「そう? わたくしは慈悲でそう言ったのだけど。では慈悲深いアンナマリー。あなたならどうするの?」


「赦します。罰など与えません。わざと壊したわけではないのでしょう?誰しも過ちはあるものです」


「あなた、あれがただの髪飾りではないと知っている?」


「もちろんです!フリードリヒ王子がお姉さまに婚約の印として贈ったもの」


「そうね。それから?」


「それから?」


アンナマリーはきょとんとしてこちらを見た。

 

(この子は……本当にわからないのだろう)


そう思うと、その愚かさはいっそ哀れだ。


「もちろん、大切な婚約者から贈られた品を壊されてお姉さまがお怒りになるのはわかります。でも――、」


「もういいわ」


短く告げると、エレオノーラは肩にかかる白銀の髪を払った。

それだけで、あたりは水を打ったように静まり返る。


「わたくしの婚約は和平の証。贈られた品を壊してしまうなんて、相手がどう思うかわからないのよ。誰かが責任を取るのは当たり前のこと。その娘を許すというなら、いったい誰がその責を負うのでしょうね?」


アンナマリーは唇を噛み締めると、侍女を抱き起こし、黙ったまま部屋を出た。


集まっていた使用人たちも一斉に散ってゆく。

 

 

 エレオノーラは、彼らがアンナマリーを慕っていることも、自分を冷酷な女だと畏れていることも、知っている。


それでも、自分は間違っていないと思う。


(手首で済めば安いものだったろうに)


暗い予感を振り払うと、エレオノーラは庭園へと向かった。

 


***


 

 エレオノーラの予感は、それから3日後に現実のものとなった。


父王がアンナマリーの願いを叶え、侍女の罪を許したからだ。


代わりに管理責任を問われた侍女長の家門が、領地と財産を全て没収され、滅門した。

 

地方の小さな伯爵家だ。元より国家間の贈り物を弁償できる財などない。


我が国ではそれほど貴国からの友好の品を大切にしている、と示すためだけの犠牲(スケープゴート)



小さく腰を折って去ってゆく侍女長の背中を見送りながら、エレオノーラは深くため息をついた。


(いずれにせよこの件は終わった……)


ソファに背を預け軽く目を閉じた直後、どこからか鋭い悲鳴が上がった。


数人の叫び声に、男性の怒号が続く。


エレオノーラの脳裏に、侍女服をきっちりと身につけた、生真面目な横顔が浮かんだ。


しばらくすると廊下を走る足音がして、誰かが慌ただしくドアをノックする。


「お入り」


座ったまま声をかけると、見覚えのある侍従が部屋に飛び込んできた。


「奥宮の渡り廊下にて、刃傷にございます!」


「犯人は捕まったの?」


「じ、侍女長殿がその場で取り押さえられ……」


「そう、それでは警備に――」


「護衛騎士に切り捨てられました!」


エレオノーラは珍しく絶句した。


「……護衛騎士? いったい、誰を狙ったの?」


「……アンナマリー王女殿下です」


「は?」


叱られたかのように、目の前の侍従が体を震わせた。


「――詳しい状況を」


「……はいっ。隠し持っていた鋏を振り翳し、件の髪飾りを破損した侍女の顔を刺しました。その後、取り押さえられ王女殿下に暴言を」


「あの時の侍女は、アンナマリー付きになっていたのね」


「はい」


侍女長がアンナマリーの前で侍女を襲撃した理由はわからない。アンナマリーをも狙っていたのか、あるいはその光景を見せつけるためだったのか。


「侍女長は、アンナマリーになんと言ったの?」


「はい……、口にするのも憚られるのですが『お前の下品で軽い頭のせいで、どれだけの人間が犠牲になったかわかるのか』と」


「……そう。もういいわ」



 軽く手を振って侍従を下がらせると、部屋には静寂が戻る。


エレオノーラは、侍女長の恨みが王家の特定の誰かに向かう事はない、とどこかで楽観的に考えていた。


復讐するとしたら、ことの発端である侍女に対してだろう、と。


「……王家への尊敬も、畏怖も。もはや取り返しがつかないほど失われているのかもしれない」



部屋の窓から薄紫の空を見上げた。

森の向こうに白い月が顔を出している。

 


(……騒ぎが今日だったのは不幸中の幸いだわ)


国の命運が危ういこの時に、一人の女と一つの家門が滅びたことなど、エレオノーラにはどうでも良い。


自室の机に積まれた書類に目を遣る。

 

 

使節団の名簿。

式次第。

応接の席順。

贈答品の確認。

警備配置図。


――そして、条約批准書。

 


このひと月、幾度となく見直してきたものだ。

 


(明日は失敗できない)

 


2ヶ月前。

エレオノーラが隣国に赴き締結した和平条約の内容は、こちらに不利なものばかりだ。

それでも呑まねば国が消える。


国を失った民の末路は悲惨だ。

 


「王女としての役割を、しっかりと果たさなくては」


隣国の使節団と共に、フリードリヒ王子もやって来る。


婚約式での不満そうな王子の顔を思い浮かべ、エレオノーラは暗澹とした気持ちになった。


この状況では、相手の気分次第で国の運命が決まる。


妻として、王子に気に入られるのがいちばんいい。

愛する妻の故国を、無碍にする夫はいないだろうから。


だがエレオノーラは失敗した。


この国のために。

この国の王女として。


今回は何としても王子との関係を挽回しなくてはならないのだ。

 

 


 払暁――。

早馬の使者が城門を叩いた。

 

「レーヴェンハルト将軍よりの親書である!」


門番は書簡を受け取ると、封蝋を検めた。

獅子の紋章――確かにレーヴェンハルト家のものだ。


城門を開けると、使者は馬を駆って城内へと走る。

 

東の空がわずかに白みはじめる頃、蹄の音だけが城内にこだました。

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